肺の異常
キランが家に着く頃には、呼吸そのものが重労働になっていた。
できないわけではない。
まだ。
だが、息をするたびに意識を向けなければならなかった。
吸う。
吐く。
吸う。
**ゴホッ! ゴホッ!**
キランがMACH-01Aの上で前かがみになる。
「もうすぐです」とマッハ。
「分かってる」
「それを三回言いました」
「君が何度も『もうすぐ』って言うからだよ」
「安心させようとしているのです」
「下手だね」
「自覚しています」
MACH-01Aが家へ向かって降下する。
キランが着地した瞬間、ドアが開いた。
すでにレイモンドが待っていた。
片手には医療バッグ。
その表情を見ただけで、今回は冗談では逃げ切れそうにないとキランは悟った。
たぶん。
「やあ」
レイモンドが家の中を指差す。
「寝室」
キランが瞬きする。
「会えて嬉しいよ、くらい言ってくれても――」
「寝室」
「マッハから全部聞いた?」
「寝室」
「三回目だよ」
レイモンドが無言で睨む。
キランはため息をついた。
「……寝室ね」
MACH-01Aを操作して中へ入る。
レイモンドが後に続いた。
マッハも隣を浮遊する。
「酸素飽和度の低下、呼吸数の上昇、持続する咳、深呼吸の困難、そして帰宅するよう勧告したにもかかわらず、さらに別の救助活動へ参加した件についてレイモンドへ報告しました」
キランがゆっくりマッハを見る。
「チクったね」
「医学的に重要な情報を提供しただけです」
「医学的にチクったんだ」
レイモンドが前を指差す。
「進め」
キランは従った。
数分後。
キランは楽な姿勢を取り、レイモンドは必要な器具を準備していた。
呼吸療法はすでに始まっている。
ネブライザーから霧状の薬剤が流れる。
キランはそれを吸い込んだ。
ゆっくり。
できる限り深く。
レイモンドが隣に座る。
マッハも近くに浮かんでいた。
誰も話さない。
数分間、聞こえるのはネブライザーの静かな作動音とキランの呼吸だけだった。
やがてキランがレイモンドを見る。
レイモンドも見返す。
キランが眉を上げる。
レイモンドはじっと見続ける。
ついにキランはマウスピースを外した。
「……その見方、なんか気まずいんだけど」
「戻せ」
キランは戻した。
レイモンドは待った。
普段なら、この治療で楽になる。
キラン自身、その感覚をよく知っていた。
少しずつ胸が開いていく。
締めつけが和らいでいく。
一呼吸ごとに意識しなければならなかった呼吸が、再び無意識にできるものへ戻っていく。
だが今回は――
何かがおかしい。
キランが眉をひそめる。
マッハは即座に気づいた。
「問題が?」
キランがもう一度息を吸う。
そして、もう一度。
マウスピースを外した。
「分からない」
レイモンドが身を乗り出す。
「何だ?」
「あんまり効いてる感じがしない」
レイモンドの表情がわずかに変わる。
「もう少し続けろ」
キランは再び治療を続けた。
さらに一分。
そして――
**ゴホッ! ゴホッ! ゴホッ!**
キランの身体が前へ折れた。
レイモンドが支える。
咳は止まらない。
**ゴホッ! ゴホッ!**
ようやく収まっても、今度は息を整えるのに苦労した。
レイモンドはすぐに聴診器を手に取る。
「背中を預けろ」
「大丈夫だよ」
「聞いてない」
キランは背もたれへ身体を預けた。
レイモンドが胸に聴診器を当てる。
「息を吸え」
キランが吸う。
レイモンドが聴く。
「もう一度」
キランが吸う。
聴診器の位置が変わる。
「もう一度」
また息を吸う。
レイモンドの眉間にしわが寄った。
キランは見逃さなかった。
「何?」
レイモンドは答えない。
聴診器を別の位置へ動かす。
「もう一度吸え」
キランが従う。
今度はさらに長く聴いた。
マッハが近づく。
「何か異常が?」
レイモンドが片手を上げる。
マッハが黙る。
キランがもう一度息を吸う。
レイモンドが背中側へ回った。
「深呼吸」
キランが試す。
途中で――
**ゴホッ!**
レイモンドが聴診器を離す。
キランが肩越しに彼を見る。
「……その顔」
レイモンドは何も言わない。
「絶対いい顔じゃない」
「静かに」
「それ、もっと怖いんだけど」
レイモンドが再び聴診する。
キランが呼吸する。
レイモンドの表情が険しくなる。
ようやく聴診器を外した。
マッハが即座に尋ねる。
「所見は?」
レイモンドがキランを見る。
「肺で何か起きてる」
キランから冗談めいた表情が消えた。
「何かって?」
「まだ分からない」
「安心する答えだね」
「異常な呼吸音が聞こえる」
キランが見つめる。
レイモンドが続けた。
「しかも、はっきりとな」
マッハのアバターがちらつく。
「気道分泌物による可能性は?」
「ある」
「感染症?」
「可能性はある」
「気道閉塞?」
「それもある」
「炎症?」
「あり得る」
キランが二人を交互に見る。
「本人がここにいる状態で、どんどん嫌な可能性を並べるのやめてくれない?」
レイモンドは無視した。
「マッハ、呼吸データを出してくれ」
ディスプレイが現れる。
数値。
グラフ。
酸素飽和度。
呼吸数。
キランが情報を見つめる。
「君たち二人が組むと本当に嫌だな」
二人とも反応しない。
レイモンドがデータを確認する。
「戻して」
グラフが移動する。
「もっと」
さらに戻る。
「もっと」
マッハが従う。
キランはレイモンドの表情を見ていた。
何かが変わった。
「待て」
レイモンドが画面へ顔を近づける。
「止めろ」
グラフが止まった。
キランも見る。
「何?」
レイモンドが一点を指差した。
「ここだ」
マッハがその部分を解析する。
「キランの通常の呼吸状態から、わずかな偏差が確認できます」
キランが眉をひそめる。
「いつ?」
マッハが答えた。
「銀行強盗事件のおよそ十一時間前です」
沈黙。
キランがマッハを見る。
「……何?」
レイモンドがマッハへ向き直る。
「間違いないか?」
「はい」
別のデータが表示された。
「当初、この変化は重要ではないと判断しました。キランの通常の生理的変動範囲内だったためです」
レイモンドがデータを調べる。
「いつから悪化した?」
マッハが時間軸を拡大する。
「徐々にです」
一本の線が、キランの通常値から少しずつ離れていく。
劇的ではない。
突然でもない。
ゆっくりと。
キランはそれを見つめた。
変化はブルンクと戦うより前から始まっていた。
ホバークラフト強盗より前。
二度目の救助で無理をするより前。
レイモンドが腕を組む。
「つまり、飛び回ったのが原因じゃない」
マッハが答える。
「はい」
「戦闘は?」
「違います」
「爆発は?」
「可能性は低いでしょう」
キランが二人を見る。
「じゃあ、あれより前から体調を崩してたってこと?」
マッハが一拍置く。
「その可能性があります」
レイモンドが首を振る。
「可能性じゃない」
グラフを指差す。
「もう何かが始まってた」
キランは黙った。
思った以上に、その事実が気になった。
単に無理をしただけだと思っていた。
銀行強盗。
爆発。
救助。
さらにもう一度救助。
それなら筋が通る。
だが、これは違う。
キランが手元へ咳き込む。
**ゴホッ! ゴホッ!**
レイモンドが即座に見る。
キランも気づく。
「見つめないで」
「嫌だ」
「レイモンド」
「いつから咳が出てた?」
「今日から」
「キラン」
「何?」
「よく考えろ」
キランは考えた。
今朝。
そして昨夜。
少しずつ表情が変わる。
マッハが気づいた。
「何か思い出しましたね」
「……たぶん」
レイモンドが身を乗り出す。
「何だ?」
キランはためらった。
「昨日の夜、ちょっと咳が出た」
レイモンドが凝視する。
「“ちょっと”って?」
「何回か」
「それを言う必要はないと思ったのか?」
「僕だって咳くらいするよ」
「人工呼吸器を使ってるんだぞ、キラン」
「うん。その辺の事情はよく知ってる」
「笑い事じゃない」
「分かってる」
その言葉でレイモンドが止まった。
キランは視線を落とす。
今度は冗談ではなかった。
「本当に大したことじゃないと思ったんだ」
レイモンドの表情が少しだけ和らぐ。
「分かってる」
マッハは解析を続ける。
さらに情報が表示された。
キランの最近の呼吸データ。
睡眠データ。
酸素飽和度。
心拍数。
呼吸数。
マッハがすべてを比較する。
数秒が過ぎる。
そして――
「もう一つ異常を発見しました」
レイモンドが即座に振り返る。
「何だ?」
「昨夜の睡眠中、キランの酸素飽和度が一時的に低下しています」
キランが顔を上げる。
「どのくらい?」
「緊急警報を発するほどではありませんでした」
レイモンドが眉をひそめる。
「だが、今になって報告する程度には気になる数値だった」
「その通りです」
レイモンドが立ち上がる。
「他には?」
マッハが検索する。
「あります」
さらに一点。
もう一点。
一つ一つなら小さい。
簡単に見過ごせる。
だが、すべてを並べれば――
無視できない。
キランがディスプレイを見つめる。
身体は警告を出していた。
静かに。
何時間も前から。
レイモンドが医療バッグを掴む。
キランが見る。
「何するの?」
「全部調べる」
「全部?」
「体温、血圧、酸素飽和度、分泌物、呼吸音。ここで調べられるものは全部だ」
「それから?」
レイモンドがキランを見る。
「結果次第だ」
キランには、その意味がすぐ分かった。
「病院は嫌だよ」
レイモンドの目が細くなる。
「その話はまだしてない」
「もうすぐ始まりそうだけど」
「キラン」
「病院は嫌いなんだ」
「知ってる」
「本気だよ」
「知ってる」
マッハが近づく。
「キラン」
キランが彼を見る。
マッハのアバターは妙に静止していた。
「レイモンドの言うことを聞くべきです」
キランが見つめる。
「ブルータス、お前もか」
「なぜ驚いているのか理解できません」
レイモンドが器具を準備し始める。
キランが背もたれへ身体を預けた。
そして、また咳き込む。
**ゴホッ! ゴホッ! ゴホッ!**
今度は痛みがあった。
鈍い痛みが胸に広がる。
キランの笑みが消えた。
レイモンドは即座に気づいた。
「痛いのか?」
キランがためらう。
「ちょっと」
「どこ?」
「胸」
レイモンドの雰囲気が一変する。
「いつから?」
「今」
「刺すような痛み?」
「違う」
「圧迫感?」
「それとも違うかな」
「焼ける感じ?」
「……ちょっと」
レイモンドが再び聴診器を耳に入れる。
「喋るな」
珍しく――
キランは従った。
レイモンドが聴く。
片側。
反対側。
前。
背中。
もう一度。
さらにもう一度。
マッハは黙って見守る。
やがてレイモンドが聴診器を外した。
キランがその顔を読む。
「それで?」
レイモンドはすぐには答えなかった。
その沈黙のほうが、即答されるより怖かった。
「レイモンド?」
レイモンドがマッハを見る。
「酸素を監視し続けろ」
「すでに継続中です」
そしてレイモンドがキランを見る。
「銀行強盗が原因じゃない」
キランが唾を飲み込む。
「それは分かった」
「それに、今日始まったとも思えない」
キランの指がアームレストをわずかに強く握る。
レイモンドは呼吸データへ視線を戻した。
小さな異常。
また一つ。
そして、もう一つ。
時間を遡るように残された痕跡。
その日の朝、キランが空へ飛び立つより前から――
肺の中では何かが起きていた。
誰も気づかなかった何かが。
今までは。
キランがまた咳をした。
今度は小さく。
レイモンドがその音を聞く。
表情は険しいままだった。
キランが彼を見る。
「それで……」
一度、息を整える。
「僕の身体で、いったい何が起きてるの?」
レイモンドはゆっくり首を振った。
「分からない」
一拍。
「だが、必ず突き止める」




