止まらない咳
キランは咳き込んだ。
一度。
そして、もう一度。
さらに――
**ゴホッ! ゴホッ! ゴホッ!**
身体全体が前へ折れ曲がる。
膝の上に座っていた女性が、MACH-01Aの側面を掴んだ。
「大丈夫ですか?」
キランは片手を上げた。
「うん」
**ゴホッ!**
「全然」
**ゴホッ! ゴホッ!**
「平気」
マッハが彼を見つめる。
「あなたの『平気』の定義には、相変わらず不安を覚えます」
ようやくキランは身体を起こした。
胸が苦しい。
痛いほどではない。
まだ。
だが、一呼吸ごとに、その前より少しだけ息が重く感じられる程度には苦しかった。
下では、C.C.P.D.の車両が残骸の周囲へ到着し始めていた。
警官たちが宙吊りになった銀行強盗たちを取り囲む。
ブルンクはまだビルの壁にぶら下がっていた。
「屈辱だ!」
マッハが彼を見る。
「結構です」
キランがマッハを見る。
「まだギアボックスって呼ばれたこと怒ってる?」
「非常に」
キランは降下した。
救急隊員が女性を保護できる屋上へ、慎重に彼女を降ろす。
「本当にありがとう」
「どういたしまして」
女性が彼を見る。
次に残骸を見る。
そして、もう一度彼を見る。
キランは即座に目を逸らした。
「それじゃ、良い一日を!」
MACH-01Aが上昇する。
速い。
マッハがついていく。
「現場から逃走していますね」
「戦略的な位置変更だよ」
「車両を二台破壊しました」
「疑惑にすぎない」
「一部始終を記録しています」
「消して」
「嫌です」
キランがまた咳き込んだ。
さっきより激しい。
**ゴホッ! ゴホッ!**
マッハの表情が変わった。
冗談めいた雰囲気が消える。
「キラン」
「大丈夫」
「いいえ」
キランが瞬きする。
「……いいえ?」
「いいえ」
マッハが真正面へ浮かぶ。
「呼吸数が上昇しています」
「銀行強盗を追いかけた直後だからだよ」
「酸素飽和度も低下しています」
キランから笑みが消えた。
「どのくらい?」
「無視できない程度です」
「数字じゃないね」
「今はそれだけお伝えします」
キランが眉をひそめる。
「皮肉を覚えてきたね」
「あなたから学びました」
「残念だ」
また咳が襲い、キランの身体が前へ折れる。
今度は長かった。
胸が締めつけられる。
数秒間、まともに息を吸い込めなかった。
マッハはそのすべてを見ていた。
「帰宅してください」
キランが口元を拭う。
「まだ呼吸療法も残ってるしね」
「予定されている呼吸療法だけでは足りない可能性があります」
「病院には行かないよ」
「病院とは言っていません」
キランが彼を見る。
マッハが続けた。
「レイモンドです」
キランがうめく。
「嫌だ」
「レイモンドは訓練を受けた医療従事者です」
「レイモンドはレイモンドでもある」
「鋭い観察です」
「こんな状態を見られたら、大騒ぎするよ」
「あなたはシトロン・シティ上空数百フィートで、制御できない咳を繰り返しています」
「そう。それを大騒ぎって言うんだ」
「キラン」
「分かったよ」
マッハが一拍置く。
「分かった?」
「帰る」
「今すぐ?」
「今すぐ」
マッハの表情がわずかに明るくなる。
「ありがとうございます」
キランはMACH-01Aを自宅の方向へ向けた。
「レイモンドに連絡して」
「すでに連絡中です」
「だと思った」
眼下に街が広がっている。
高層ビルの間を交通が流れる。
歩道には人々。
珍しく――
街は比較的平穏に見えた。
キランも少しだけ気を緩める。
その時――
**ドォォォン!**
数ブロック先で爆発が起きた。
キランが止まる。
マッハも止まる。
二棟のビルの間から煙が立ち上っていた。
キランがそれを見る。
マッハがキランを見る。
「駄目です」
キランがゆっくり振り返る。
「まだ何も言ってないけど」
「言おうとしていました」
「厳密には、君が遮ったんだよ」
もう一度爆発。
**ドォン!**
下から悲鳴が上がる。
キランが煙を見る。
マッハが視界を遮るように真正面へ移動した。
「帰宅してください」
「誰か怪我してるかもしれない」
「すでに怪我をしている人がいます」
マッハがキランを指差す。
「あなたです」
キランの表情が変わった。
悲鳴は続いている。
まだサイレンは聞こえない。
キランは自宅の方向を見る。
そして煙を見る。
**ゴホッ! ゴホッ!**
マッハの苛立ちが増す。
「キラン」
「五分だけ」
「駄目です」
「三分」
「駄目です」
「二分?」
「駄目です」
キランは煙へ向かって加速した。
マッハが見つめる。
そして追いかけた。
「私はこの判断に強く反対します!」
「異議は記録しておくよ!」
「あなたはいつもそう言います!」
「君がいつも反対するからでしょ!」
MACH-01Aがビルの間を駆け抜ける。
**ブォォォォン!**
爆発の原因が見えた。
市内輸送車両が家電店の正面へ突っ込んでいた。
後部推進システムが燃えている。
中には人が閉じ込められていた。
さらに悪いことに――
輸送車両はまだ動いている。
ゆっくりと。
高架道路の端へ向かって。
キランの目が見開かれる。
「……あ」
マッハがスキャンする。
「乗員六名」
「外に出られる?」
「非常口が作動していません」
輸送車両がさらに一メートル滑った。
金属がコンクリートを擦る。
**ギギギギギッ!**
車体の前半分は、すでに道路の端からはみ出している。
その下には――
車が行き交う道路。
キランは下を見る。
そして輸送車両を見る。
「よし」
息を吸い込む。
即座に後悔した。
**ゴホッ! ゴホッ! ゴホッ!**
操縦桿を握る手に力が入る。
マッハが隣に現れる。
「キラン、今の状態で身体へ負荷をかけるのは危険です」
「幸い、ほとんどの仕事は椅子がやってくれる」
「人体の生理機能はそのような理屈では――」
「説明は後で」
キランが急降下した。
MACH-01Aが輸送車両の真下へ飛び込む。
「上向き推力最大!」
「キラン――」
「マッハ!」
マッハはためらった。
そして――
「最大推力」
エンジンが咆哮する。
**ブォォォォォォン!**
MACH-01Aが輸送車両の底へ押しつけられる。
キランがうめく。
車両の滑落が止まった。
かろうじて。
警告表示が現れる。
**推奨荷重を超過**
キランが見上げる。
「“推奨”だって」
マッハが見つめる。
「やめてください」
「必須じゃない」
「そう言うと思いました」
輸送車両が揺れる。
キランが上へ押し上げる。
MACH-01Aのエンジンが唸りを上げた。
操縦桿を握る腕が震える。
呼吸が速くなる。
短く。
浅く。
マッハが気づいた。
「キラン」
「今はやめて」
「酸素飽和度が――」
「今は」
キランが咳き込む。
その咳で全身が揺れた。
MACH-01Aが沈む。
輸送車両が動いた。
中から悲鳴が上がる。
キランが操縦桿を押し込む。
「駄目だ!」
エンジンがさらに出力を上げる。
**ブォォォン!**
輸送車両が数センチ持ち上がった。
十分だ。
「マッハ! 非常口!」
マッハが即座に車両システムへアクセスする。
「オーバーライドを試みます」
反応なし。
「もう一回!」
「キラン、すでに――」
非常口が開いた。
**プシュゥゥッ!**
「開いた!」
乗客たちが脱出を始める。
一人。
二人。
三人。
キランがまた咳き込む。
視界がぼやけた。
何度も瞬きをする。
「あと何人?」
「三名です」
「早く……」
四人目が脱出。
輸送車両が揺れる。
MACH-01Aのエンジンが不安定になる。
**ブォン――ブォン――**
「キラン!」
「支えてる!」
「高度が落ちています!」
「分かってる!」
五人目が脱出した。
あと一人。
胸が焼けるように苦しい。
深く息を吸おうとする。
できない。
肺が言うことを聞かなかった。
初めて――
キランの顔に恐怖が浮かんだ。
「マッハ……」
「分かっています」
最後の乗客が非常口へ現れる。
年配の男性。
下を見て動けなくなった。
キランが叫ぶ。
「行って!」
男が下を見る。
「無理だ!」
「できる!」
輸送車両がさらに数センチ滑る。
キランの腕が震える。
「飛んで!」
男は動けない。
キランが激しく咳き込んだ。
**ゴホッ! ゴホッ! ゴホッ!**
頭が垂れる。
マッハの声が鋭くなる。
「キラン!」
キランは無理やり顔を上げた。
「飛べ!」
男が飛んだ。
高架道路にいた救急隊員たちが受け止める。
「全員脱出!」
誰かが叫んだ。
マッハが即座に反応する。
「全員避難完了!」
キランが輸送車両を離した。
MACH-01Aが後方へ飛び退く。
車両が傾く。
そして落下した。
**ドガァァァァン!**
下の無人になった道路へ激突する。
キランは高架道路の上に浮いていた。
しばらく――
笑っていた。
「ほら?」
マッハは何も言わない。
「言ったでしょ」
まだ何も言わない。
「二分」
キランが咳き込む。
笑みが消えた。
**ゴホッ!**
息を吸う。
入らない。
目を見開く。
もう一度。
わずかに空気が入った。
足りない。
「マッハ」
「ここにいます」
キランの手が震える。
「……何か、おかしい」
「分かっています」
マッハはすでにスキャンを開始していた。
キランのバイザーへ警告が表示される。
MACH-01Aの警告ではない。
医療警告。
**酸素飽和度低下**
**呼吸困難を検出**
キランが表示を見つめる。
突然、街の音が大きくなったように感じた。
サイレン。
交通音。
人々の声。
なのに、すべてが遠く聞こえる。
「レイモンドを呼んで」
「すでに接続しています」
即座にレイモンドの声が通信へ入った。
「キラン?」
キランは答えようとした。
代わりに――
**ゴホッ! ゴホッ! ゴホッ!**
レイモンドの声色が瞬時に変わる。
「マッハ」
マッハが答える。
「呼吸状態が悪化しています」
「どのくらい?」
「かなり深刻です」
「家まで連れてこい」
キランが首を振る。
「僕はまだ――」
レイモンドが遮った。
「駄目だ」
キランが瞬きする。
「何?」
「ヒーローごっこは終わりだ。寄り道もなし。“あと一件だけ”もなし。真っすぐ帰ってこい」
キランは冗談で返そうとした。
「心配するとずいぶん偉そうになるね」
「キラン」
その声に、キランは口を閉じた。
冗談ではない。
苛立ってもいない。
ただ、心配している。
キランが唾を飲み込む。
「……分かった」
マッハが近づく。
「進路設定」
MACH-01Aが旋回した。
キランは高架道路を振り返る。
救助された乗客たちは無事だった。
救急隊が周囲を取り囲んでいる。
もう彼を必要としている人はいない。
少なくとも、今は。
キランがまた咳き込む。
弱々しく。
マッハが彼を見る。
「キラン?」
「何?」
「意識を失わないでください」
キランは疲れた笑みを浮かべた。
「予定に入れとくよ」
「面白くありません」
「ちょっとは」
「いいえ」
MACH-01Aが自宅へ向かって加速する。
マッハ速度ではない。
今回は違う。
キランは椅子の背もたれへ身体を預けた。
呼吸は浅いまま。
マッハは帰路の間、ずっと隣にいた。
観察し。
監視し。
計算し続けた。
そして珍しく――
キランは何も文句を言わなかった。
咳が止まらなかったから。
むしろ――
悪化していた。




