隠れ家
眼下でシトロン市がきらめいていた。
普段なら、キランは夜の飛行が好きだった。
空から眺める街は、まるで別の場所に変わる。
車の流れはビルの間を蛇行する光の川となり、窓は何千もの小さな光の四角形へ変わる。巨大な広告が高層ビルの壁一面に広がり、青、赤、紫へと色を変えながら雲まで照らしていた。
いつもの夜なら――
キランもその景色を楽しんでいただろう。
だが今夜は――
真下に警察の護送車列が丸ごとついてきていた。
複数のC.C.P.D.車両が隊列を組んで道路を走り、上空のキランと同じ速度で移動している。
さらに別の部隊が隣接するルートを進んでいた。
キランは下を見る。
そして横。
そこにはアダム。
アダムの隣にはPatrol。
キランの隣にはMach。
キランはため息をついた。
「これはさすがにやりすぎじゃない?」
アダムは振り向きもしなかった。
「巨大なホログラム蜘蛛に襲われたばかりだろ」
「ソリッドライトの蜘蛛です」Machが訂正した。
アダムが彼を見る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
キランは再び下の警察車列を見る。
「それでもやりすぎ」
「ザイラとBlizzardにも襲われた」
「まあ、それはそう」
「その後ウルトラヴァイオレット」
「分かった」
「その後Neons」
「アダム」
「その後ナオミが巨大な機械グリフォンを作った」
「作ったのはDJ Kre8」
「それで何かマシになるのか?」
キランは考えた。
「……ならない」
「じゃあ黙って護送を楽しめ」
キランは眉をひそめた。
「人を安心させるの、本当に下手だな」
「安心させようとしてない」
「大成功だよ」
Patrolが口を開いた。
「現在の進路を維持してください。間もなく到着します」
キランは前方を見る。
どこへ向かっているのか、まったく知らなかった。
それは意図的だった。
隠れ家の場所は、すでに移動を開始するまで知らされなかった。
それどころか――
キランには住所すら教えられていない。
与えられたのは方向だけ。
左。
右。
上。
下。
アダムについていけ。
勝手に離れるな。
止まるな。
怪しいものを見つけても調べるな。
最後の一つは、どうやらキラン専用に追加されたらしい。
キランはアダムを見る。
「それで……」
アダムがうめいた。
「何だ?」
「せめてみんなに行き先くらい――」
「ダメだ」
即答だった。
キランは顔をしかめる。
「最後まで言わせてもくれないの?」
「マイケイラに教えたいんだろ」
「うん」
「ダメだ」
「Gearは?」
「ダメ」
「母さん?」
「ダメ」
「レイモンド?」
「ダメ」
「病院にいるんだぞ」
「だから?」
「ザイラのスパイってわけじゃない」
「分かってる」
「じゃあ、なんで教えちゃダメなんだよ?」
ようやくアダムが彼を見た。
「お前の居場所を知る人間が一人増えるたびに、お前を見つける方法も一つ増えるからだ」
キランは黙った。
アダムは続ける。
「マイケイラが知ってれば、誰かが彼女を尾行できる」
キランの表情が変わった。
「Gearが知ってれば、誰かがあいつに圧力をかけられる」
アダムは再び前を見る。
「レイモンドが知ってれば、無理やり聞き出そうとする奴が出てくるかもしれない」
キランは下を見た。
アダムの声は揺るがない。
「知ってる人間が少ないほど、お前は安全だ」
キランは答えなかった。
「そして、そいつらも安全になる」
その言葉が一番痛かった。
Machは即座に気づいた。
「キラン」
「大丈夫」
「声の調子からは、そう判断できません」
「大丈夫だって、Mach」
Machが少し近づいた。
「この状況は一時的なものです」
「分かってる」
「C.C.P.D.は現在、ザイラ、ナオミ、ウルトラヴァイオレットを捜索しています」
「分かってる」
「彼女たちが再び拘束されれば、通常の生活へ戻れるものと推測されます」
「分かってる」
Machは少し黙った。
声が柔らかくなる。
「またマイケイラに会えます」
キランは彼を見た。
「分かってる」
でも――
分かっているからといって、気分が楽になるわけではなかった。
まともに別れを言うことすらできなかった。
マイケイラに行き先を伝えられない。
Gearに電話して説明することもできない。
レイモンドの見舞いにも行けない。
母親にも話せない。
これがいつまで続くのか分からない間――
ただ消えるしかなかった。
自分を殺したい人間がいるから。
キランは眼下の街を見つめた。
何百万人もの人々。
何千もの家。
そのどこかに、自分が本当に一緒にいたい人たちがいる。
Machがさらに近づいた。
「統計による安心材料を提示することもできます」
「悪いけど、今はパーセンテージじゃ元気になれないと思う」
「そうではないかと予測していました」
アダムがキランを見る。
そして視線を逸らす。
もう一度見る。
ため息。
妙に大げさなため息だった。
キランは気づいた。
「何?」
「何でもない」
「今のは“何でもない”ため息じゃないだろ」
アダムの顔が引きつった。
これからやろうとしていることを、明らかにやりたくなさそうだった。
だからこそ、キランは一気に興味を持った。
アダムが咳払いする。
「いいか」
キランは待った。
アダムが顔をしかめる。
そして――
「お前は……ちゃんとやってる」
キランは瞬きをした。
Machがアダムを見る。
Patrolもアダムを見る。
キランの沈んでいた気分さえ、一瞬、純粋な困惑に吹き飛んだ。
「何?」
アダムが苛立った顔をする。
「ちゃんとやってるって言ったんだ」
「なんで?」
「“なんで”って何だよ?」
「なんでそんな言い方したの?」
「どんな?」
「誰かに銃突きつけられてるみたいな」
「励まそうとしたんだよ!」
キランは見つめた。
「今のが励まし?」
「そうだ!」
MachがPatrolを見る。
「そうでしたか?」
Patrolが処理する。
「技術的には」
アダムが二人を睨む。
「二人とも黙れ」
キランは我慢できなかった。
笑った。
一度だけ。
短く。
でも本物の笑いだった。
アダムが指差す。
「ほら。どういたしまして」
キランは首を振った。
「本当に下手だな」
「普段こんなことしないんだよ」
「分かる」
しばらく、アダムは無言で飛んだ。
やがて表情が変わる。
「それでも……」
キランが彼を見る。
今度のアダムは冗談を言っていなかった。
「その気持ちは分かる」
「どんな?」
アダムは街の夜景へ目を向けた。
「自分のそばにいるせいで、誰かが危険に巻き込まれるかもしれないって感覚だ」
キランは何も言わなかった。
「この仕事を長くやってれば、敵ができる」
Patrolは隣で黙っていた。
「話が通じる奴もいる」
アダムが肩をすくめる。
「ほとんどは違うけどな」
キランを見る。
「それで、頭のおかしい復讐まみれの連中を敵に回したら……」
乾いた笑み。
「……ろくなことにならない」
キランは前を見る。
「聞き覚えがある」
「ああ」
アダムの表情が険しくなる。
「そうなると、周りの人間を見る目が変わる」
家族。
友人。
何の関係もない人たち。
「特に、大切な人間はな」
キランはマイケイラを思った。
Gear。
レイモンド。
母親。
アダムは続ける。
「全部話したくなる。そいつらが一番信用できる人間だから」
一拍。
「でも時には、何も知らないことが、その人を守る一番いい方法になる」
キランは黙っていた。
アダムが彼を見る。
「最悪だけどな」
キランはかすかに笑った。
「ずいぶん詩的だな」
「俺は警官だ。シェイクスピアじゃない」
「俺はシェイクスピアを教えてる」
「ちょうどいい。そっちはお前に任せる」
Machが口を開いた。
「キランの気分は改善したようです」
アダムがうめく。
「今の空気を分析するな」
「了解しました」
Patrolが前を見る。
「到着しました」
隠れ家は――
拍子抜けするほど普通だった。
キランは通りの上空でホバリングする。
「ここ?」
アダムが着地した。
「ここだ」
キランはもっと違うものを想像していた。
地下壕。
地下施設。
あるいは分厚い鋼鉄の扉。
だが実際には――
ただの家だった。
質素な家。
二階建て。
細長い造り。
清潔。
完全に普通。
そして、その普通さこそが妙だった。
周囲には巨大な高層ビルが立ち並び、その光る窓が下の小さな建物を見下ろしている。
隠れ家は、新しい開発地区に挟まれた似たような住宅の中に紛れていた。
警察のマークはない。
目に見える警備設備もない。
要塞化された外壁もない。
**重要人物がここに隠れています。**
そう主張するものは何一つなかった。
キランが着地する。
Machが建物をスキャンした。
「興味深いですね」
「何が?」
「建築構造内部に複数の警備システムが隠されています」
キランはもう一度家を見る。
「例えば?」
「強化された出入口。内部監視。非常用電源。耐障害性を高めた通信設備」
アダムが玄関へ向かった。
「隠れ家に見えないことが重要なんだ」
キランは頷く。
「なるほど」
アダムがコードを入力した。
**ピッ。**
ロックが解除される。
全員が中へ入った。
室内も同じくらい質素だった。
リビング。
キッチン。
寝室が二つ。
最低限の家具。
高価なものはない。
個人的なものもない。
誰かが暮らしているように見えるのに――
同時に、誰も一度も暮らしたことがないようにも見える家。
キランはリビングを進んだ。
「なんか暗いな、ここ」
アダムがドアを閉める。
「安全だ」
「安全でも飾りくらい置けるだろ」
「カーテンがある」
キランは彼を見つめた。
「ベージュじゃん」
「それでもカーテンだ」
Machがキッチンへ浮かんでいく。
「冷蔵庫には食料があります」
キランが即座に振り向いた。
「話が分かってきた」
アダムは首を振った。
Patrolが家の警備システムを確認し始める。
「すべての侵入センサー、正常」
Machも加わった。
「窓、施錠済み」
「周辺監視、作動中」
「緊急通信、正常」
キランは二体のVentを交互に見た。
「お前ら、本当に仲良くなってきたな」
MachとPatrolが同時に彼を見る。
「違います」
キランは笑った。
アダムがジャケットを脱いだ。
キランは気づいた。
「何してるの?」
「くつろぐ準備」
「なんで?」
アダムが彼を見る。
「俺たちも泊まるから」
キランは瞬きをした。
「俺たち?」
「俺とPatrol」
「ここに?」
「そう」
「一晩中?」
「そう」
キランはPatrolを見る。
「これ許してるの?」
Patrolが答えた。
「私も参加しています」
「そうだった」
アダムが廊下を指差した。
「お前は寝ろ。俺たちが見張る」
キランは待った。
アダムは明らかに反論を予想していた。
Machもおそらく反論を予想している。
Patrolに至っては、反論が起きる確率をすでに計算していそうだった。
キランは部屋を見回した。
それからアダムを見る。
「分かった」
アダムが目を細める。
「分かった?」
「分かった」
「それだけ?」
「それだけ」
アダムは疑わしそうに見る。
キランはかすかに笑った。
「ありがとう」
静寂。
アダムの顔が引きつった。
「うわ」
キランは眉をひそめる。
「何?」
「やめろ」
「何を?」
「急に素直になるな」
「ありがとうって言っただけだけど」
「分かってる」
アダムが腹を押さえた。
「吐きそうだ」
キランは彼を見つめた。
Machが首を傾げる。
「容器を探しましょうか?」
「いらない」
キランが笑った。
「いつものアダムだ」
アダムが指差す。
「そっちのほうがいい」
数分後――
アダムとPatrolは外へ出た。
周辺には複数の警官が配置されていたが、隠れ家の場所が露骨にならないよう、意図的に距離を取っている。
一人の警官が覆面車両のそばで待機していた。
アダムが近づく。
「配置完了だ」
警官が頷く。
「問題ありませんか?」
「Patrolが確認した」
Patrolが付け加える。
「全システム、正常に機能しています」
アダムは警官へ頷いた。
「ワイルダーに無事到着したと伝えてくれ」
「了解」
「何か少しでも妙なものがあれば、すぐ連絡しろ」
「分かりました」
アダムはもう一度周囲を確認した。
何もない。
静かな通り。
静かな建物。
怪しい動きなし。
巨大蜘蛛なし。
氷の攻撃なし。
EDMなし。
今夜初めて――
普通だった。
アダムとPatrolは家へ戻った。
背後でドアが閉まる。
**カチッ。**
警官は外に残った。
待つ。
五秒。
十秒。
そして覆面車両から離れた。
角を曲がる。
二つの建物の間にある狭い隙間へ入った。
背後を確認する。
誰もいない。
他の警官からは見えない。
隠れ家からも見えない。
通りは静かだった。
警官はポケットへ手を入れた。
個人用通信端末を取り出す。
番号を入力。
そして待った。
**ピッ。**
**ピッ。**
**ピッ。**
通信がつながった。
数秒間――
誰も話さなかった。
やがて、落ち着いた声が応答した。
洗練されている。
抑制されている。
どこか面白がっているような声。
「どうした?」
警官は唾を飲み込んだ。
「到着しました」
沈黙。
「四人とも?」
「キリアン。Mach。ヘンリー。Patrol」
「場所は?」
警官は通りを振り返った。
そして、高層ビルの間にひっそりと建つ質素な家を見る。
「把握しています」
通信の向こう側で――
サヴァントが笑った。
「素晴らしい」




