招かれざる客
キラン・キリアンには、これまでの人生で我慢できるようになったものがいくつかあった。
授業中に眠る生徒。
その生徒たちの前で自分の間違いを訂正するMach。
自分の技術的判断を「機械工学に対するテロ行為」と呼ぶGear。
そして、皿から勝手に食べ物を取っておきながら、「付き合ってるんだからノーカウント」と言い張るマイケイラ。
だが――
これは。
さすがに限界を試されていた。
「そんなに近くに立つ必要ある?」
アダムが彼を見下ろした。
「ある」
「いや、真面目に」
「俺も真面目だ」
キランはMACH-01Aを数メートル先へ進めた。
アダムもついてきた。
キランが止まる。
アダムも止まる。
キランがまた進む。
アダムもまたついてくる。
キランは振り返った。
「わざとやってるだろ」
「お前を警護してる」
「首筋に息がかかりそうなんだけど」
「二メートル近く離れてる」
「精神的にはもっと近い」
Patrolがアダムの隣に浮かんでいた。
「精神的距離を通常の長さの単位で測定することはできません」
Machが彼を見る。
「キランは比喩的に発言したのだと思います」
「理解している」
「ではなぜ――」
「文字どおりに答えることを選んだ」
Machは一瞬黙った。
「その姿勢は評価します」
アダムがため息をついた。
「こいつを調子に乗せるな」
まだ一日も経っていなかった。
一日。
すら。
経っていない。
それなのにキランはもう、なぜ有名人がパパラッチに文句を言うのか理解し始めていた。
もっとも――
普通のパパラッチは警察用の武器を持っていない。
キランは通りを進み続けた。
Machが隣をついていく。
アダムとPatrolは後ろ。
ずっと。
後ろ。
キランは肩越しに振り返った。
「まだいる」
アダムが無表情で見返す。
「それが仕事だ」
「確認しただけ」
「三十秒前にも確認した」
「三十秒あれば色々起きる」
アダムの表情が死んだ。
「なあ。警察の警護がそんなに鬱陶しいって言ってる割には、俺がちゃんといるか必死に確認してるよな」
キランは口を開いた。
止まった。
Machが彼を見る。
「一理あります」
キランは裏切られたような顔をした。
「Et tu, Mach?」
「私はブルータスではありません」
「ブルータスなら絶対そう言う」
Patrolがアダムを見る。
「あなたが彼らを嫌う理由が理解できました」
「ありがとう」
キランが振り返った。
「おい!」
口論はそこで終わらなかった。
ただ形を変えただけだった。
交差点に差しかかった時――
キランは、何袋もの買い物袋を抱えて苦労している老人を見つけた。
一つが滑り落ちた。
果物が歩道へ転がる。
キランは即座に方向を変えた。
アダムがMACH-01Aの後部をつかんだ。
キランが止まった。
ゆっくり――
肩越しに振り返る。
「今、俺の椅子つかんだ?」
「ああ」
「なんで?」
「予定ルートから外れてる」
「買い物袋を落としたんだよ」
アダムは見つめた。
「だから?」
キランも見返した。
「だから手伝う」
「知らない相手だろ」
「知ってる必要ないだろ」
「脅威かもしれない」
キランは老人を見た。
老人は今、縁石へ向かって転がっていくオレンジを必死に追いかけている。
キランは指差した。
「あの人が?」
「誰だって脅威になり得る」
Machが老人をスキャンした。
「推定年齢七十八歳。目視可能な武器なし。血圧やや高め。軽度の関節炎――」
アダムが眉をひそめた。
「一般市民を勝手にスキャンするな」
「支援していました」
キランが振り返る。
「本気であの人がザイラの仲間だと思ってる?」
「いや」
「ナオミ?」
「いや」
「ウルトラヴァイオレット?」
「いや」
「じゃあ離せ」
アダムはMACH-01Aから手を離した。
キランは老人のところへ向かった。
しばらくして――
散らばった食料品はすべて袋へ戻った。
老人は礼を言った。
キランが戻ってくる。
アダムは彼を見つめた。
キランは笑った。
「ほら?」
アダムは歩き始めた。
「お前、いつか誰かを助けようとして死ぬぞ」
キランもついていく。
「かもな」
アダムが彼を見る。
「でも全員がそう考えてたら、誰も誰かを助けなくなる」
アダムは鼻で笑った。
「お前はまだ、人間は基本的に善良だと思ってるからそう言える」
「善良な人は多いよ」
「そうじゃない奴も多い」
Machがキランの隣を浮かぶ。
「証拠を見る限り、個人差が非常に大きいと考えられます」
Patrolが答えた。
「深いですね」
Machが彼を見る。
「皮肉を検出しました」
「正解です」
キランが笑った。
「ほら。二人とも仲良くなってる」
「なっていません」
二体のVentが同時に答えた。
キランは笑った。
アダムは笑わなかった。
「どうしてお前はそんなに楽観的なんだ?」
キランが彼を見る。
「何が?」
「真面目な話だ」
アダムはキランを示した。
「お前、今まで何回襲われた?」
「途中で数えるのやめた」
「だろ?」
アダムの表情が硬くなる。
「俺は何年も、人間が人生でやった最悪のことの後始末をするために事件現場へ足を運んできた」
笑いが消えた。
「証拠のすぐ隣に立ちながら平然と嘘をつく奴も見た。親が子供を傷つけるのも、子供が親を傷つけるのも見た。わずかなクレジットのために人を殺しておいて、自分こそ被害者みたいな顔をする奴もいる」
Patrolは静かに隣にいた。
アダムは続ける。
「そういうものを何度も見てると……」
肩をすくめた。
「……人間の善意なんて最初から期待しなくなる」
キランは少し考えた。
「そうかもな」
アダムが意外そうな顔をした。
「反論しないのか?」
「お前が間違ってるとは言ってない」
キランは前を見る。
「ただ、一人の人間がやった最悪のことが、全員を代表するとは思わないだけ」
アダムは乾いた笑いを漏らした。
「そのうち分かる」
キランは笑った。
「できれば分かりたくないな」
Gearの工房が見えてきた。
いや――
その残骸、と言ったほうが正しいかもしれない。
建物は再び使える状態にはなっていた。
ほぼ。
Ventixとの戦闘の痕跡は、まだ至るところに残っている。
外壁の一部だけ明らかに新しい。
窓の一つは交換されていた。
別の窓はまだ仮設材で覆われている。
キランは速度を落とした。
アダムが建物を見る。
「兄貴、まだ怒ってるのか?」
「ものすごく」
Machが訂正した。
「Gearはキランのきょうだいです」
アダムは短く頷いた。
「そうだったな」
キランは続ける。
「今のところ俺は、“殺したい”と“いつか許す”の中間くらいにいるらしい」
「安心した」
工房のドアが開いた。
中にはGearが立っていた。
キランを見る。
次にアダム。
次にPatrol。
そしてもう一度キラン。
「嫌だ」
キランは瞬きをした。
「まだ何も言ってない」
「警察連れてきた」
「俺が連れてきたんじゃない」
アダムが入ってくる。
「今日はそれをよく聞くな」
Gearはキランを指差した。
「こいつが何やったか知らないけど、連れてって」
「Gear!」
「忙しい」
Machが中へ浮かんだ。
「私のメンテナンス検査のために来ました」
Gearの表情が和らいだ。
少しだけ。
「分かった」
キランを指差す。
「こいつは高い物に近づけるな」
「差別だ」
「馬鹿に対する?」
キランは黙って見つめた。
GearはMachへ向き直る。
「作業台」
Machは従った。
パネルが開く。
診断装置が起動する。
Gearはいくつかの機器をMachのインターフェースシステムへ接続した。
キランは近くにいた。
アダムは見ていた。
Patrolは、見ているアダムを見ていた。
沈黙がどんどん気まずくなっていく。
やがて――
アダムが口を開いた。
「一つ聞きたい」
Gearは顔も上げなかった。
「おめでとう」
キランが笑った。
アダムは無視した。
「どうしてこいつを助ける?」
Gearの手が止まった。
「何を?」
アダムがキランを指差す。
「これ全部だ」
キランは眉をひそめた。
「曖昧だな」
「自警行為」
「ああ」
Gearは作業を再開した。
「それか」
アダムは見つめる。
「ああ。それだ」
キランはMachを見る。
Machが小声で言った。
「これは面白くなりそうです」
アダムは続けた。
「装備を修理してる」
Gearは頷いた。
「アップグレードもしてる」
また頷く。
「こいつが外で警察沙汰に首を突っ込んでることも知ってる」
「頻繁に」
「それでも助けるのか?」
Gearはようやく顔を上げた。
「どうやら……」
工具を置く。
「……うちの母親に会ったことがないらしいな」
アダムは瞬きをした。
「それと何の関係がある?」
キランが笑い始めた。
Gearは彼を指差した。
「*こいつ*が頑固だと思ってる?」
アダムはキランを見る。
それからGearへ戻す。
「もっとひどいのがいるのか?」
「はるかにな」
キランは誇らしげに笑った。
「家族の伝統だ」
「誇ることじゃないだろ」アダムが言った。
GearはMachへ戻った。
アダムは腕を組む。
「俺にも母親はいる」
Gearが見る。
「おめでとう」
「もし俺がキランのやってるSnatの半分でもやってるところを母親に見られたら……」
アダムは一瞬止まった。
「……皮を剥がされる」
キランは笑った。
「もうお前のお母さん好きだわ」
「会ったことないだろ」
「それでも」
アダムはGearを見る。
「真面目な話だ」
「こっちも真面目だ」
「こいつは法の外で活動してる」
キランはため息をついた。
「始まった」
「そしてお前はそれを助長してる」
GearはMachのメンテナンスパネル内部の部品を締めた。
「“技術支援を提供している”と言ってほしい」
「それを助長って言うんだ」
「技術支援」
「助長」
Gearが彼を見る。
「技術」
「支援」
キランは笑いを堪えるように口を覆った。
アダムは二人を指差した。
「お前ら、これ下手したら刑務所行きだって分かってるよな?」
Gearの手が止まる。
アダムは続けた。
「キランがこんなことを続けてれば、遅かれ早かれ誰かが“こいつは一線を越えすぎた”と判断する」
Gearを指差す。
「そして、お前が事情を知った上で装備を提供してると判断されたら――」
「アダム」キランが遮った。
「俺は真面目だ」
「こっちもだ」
「そこが問題なんだよ」
Gearはキランを見る。
次に、傷だらけの工房。
そしてアダム。
「こいつのやってることが危険なのは分かってる」
キランは黙った。
Gearは作業を続ける。
「でも、やめろと言ったところで何の意味もないことも分かってる」
「その通りです」Machが言った。
キランは眉をひそめた。
「みんな俺の分析するのやめてくれる?」
「嫌だ」
三人の声が同時に返ってきた。
Patrolが周囲を見る。
「私は参加していません」
キランは彼を指差した。
「ありがとう」
「しかし、あなたの行動傾向を見る限り、自発的に活動を中止する可能性は低いと考えられます」
キランは見つめた。
「前言撤回」
やがてメンテナンスチェックは終わった。
GearはMachのアクセスパネルを閉じた。
「問題なし」
Machが少し回転する。
「すべて?」
「全部」
「ありがとうございます」
Gearはキランを指差した。
「お前」
キランは固まった。
「何?」
「壊すなよ」
「Machを壊したことなんてない」
Machが振り返る。
「驚くほど近い状況には何度もなっています」
「味方して」
Gearはキランを見つめた。
「それと、もう工房を壊すな」
「全部が俺のせいだったわけじゃ――」
「出てけ」
「はい」
キランはドアへ向かった。
アダムが続く。
Patrolも。
Machも。
Gearが後ろから呼んだ。
「キラン」
彼は止まった。
「ん?」
「気をつけろ」
キランは笑った。
「分かってる」
Gearはじっと見た。
「本当に気をつけろ」
キランの笑顔が少し弱くなった。
「努力する」
「それが心配なんだよ」
キランが自分のアパートへ着いた頃には――
完全に疲れ切っていた。
ドアへ近づく。
アダムも一緒に近づく。
キランが止まる。
アダムも止まる。
キランが見る。
アダムも見返す。
「嫌だ」
「入る」
「ここ俺のアパートなんだけど」
「知ってる」
「お前はここに住んでない」
「神に感謝してる」
キランは廊下を指差した。
「家に帰れ」
「嫌だ」
「アダム」
「キラン」
「俺、寝るんだけど」
「素晴らしい」
「一人で」
アダムが眉をひそめた。
「誰も一緒に寝るなんて言ってない」
Patrolが付け加える。
「私たちは寝室の外で待機します」
キランは見つめた。
Machが隣に浮かんでいる。
「妥当だと思われます」
キランがMachを見る。
「お前、誰の親友?」
「あなたです」
「そうは見えないけど」
アダムが中へ入った。
キランはため息をついた。
「悪夢だ」
その夜――
キランのアパートは暗かった。
ほとんど。
寝室のテレビだけが、青白い光を壁に投げかけている。
キランはすでにベッドに入っていた。
MACH-01Aは近くに置かれている。
Machは彼のそばで待機していた。
閉じられた寝室のドアの外では――
アダムとPatrolが警戒に当たっている。
キランはテレビを見た。
レポーターがゲートロック刑務所の前に立っていた。
画面には大きな見出し。
**ゲートロック脱獄犯、いまだ逃走中**
写真が表示される。
ザイラ・ラインハルト。
ナオミ。
ウルトラヴァイオレット。
そして――
Blizzard。
DJ Kre8。
レポーターは続けた。
「本日、ゲートロック刑務所から三名の受刑者が脱走した事件を受け、当局は捜索範囲を拡大しています。脱走の際、ザイラ・ラインハルトとナオミがそれぞれのVent、BlizzardとDJ Kre8を取り戻したことも確認されています」
キランは黙って見ていた。
「警察は五名全員を危険人物とみなし、決して近づかないよう市民へ警告しています」
シトロン・シティの地図が表示された。
「当局は現在地についての情報を公表していません。捜査当局によれば、逃亡者たちは現在、市内のどこにいる可能性もあるとのことです」
キランはため息をついた。
「安心できるニュースだな」
Machが彼を見る。
「可能性の高い所在地を計算しましょうか?」
「嫌だ」
「有用である可能性があります」
「明日」
Machは彼を観察した。
「心配していますね」
キランはテレビを見つめた。
「俺を嫌ってる三人が刑務所から脱走したんだぞ」
「それは私の指摘への回答にはなっていません」
キランは小さく笑った。
「ああ」
テレビを消した。
部屋が闇に包まれる。
「おやすみ、Mach」
「おやすみなさい、キラン」
キランは枕へ身体を預けた。
静寂。
ようやく。
美しい――
素晴らしい――
静寂。
**ドンッ。**
キランの目が開いた。
低い振動が壁を伝わった。
待つ。
何もない。
キランは目を閉じた。
**ドンッ。**
**ドンッ。**
再び目を開ける。
Machが起動した。
「聞こえましたか?」
「ああ」
今度はリズムが続いた。
**ドン――ドン――ドン――ドン。**
キランはゆっくり身体を起こした。
壁が振動している。
低音に混じって、かすかな電子音のメロディーが聞こえてきた。
そして――
ビートが落ちた。
**ブォォォン――ツッ――ブォォォン――ツッ――ドン・ドン・ドン!**
キランは壁を見つめた。
Machが音を分析する。
「エレクトロニック・ダンス・ミュージックです」
「EDMがどんな音かくらい知ってる」
外から――
アダムがドアをノックした。
「キリアン?」
キランが返事をする。
「生きてる!」
「何だ、この音は?」
「お前かと思ってた!」
「俺じゃない!」
続いてPatrolの声。
「音源は近隣に存在すると思われます」
再び低音が響いた。
**ドンッ。**
壁に掛けられた写真立てがガタガタと揺れた。
キランはMachを見る。
Machもキランを見る。
さらに一発。
振動がアパート全体を走る。
**ドンッ。**
**ドンッ。**
**ドンッ。**
キランは眉をひそめた。
「こんな時間にどこの馬鹿がレイヴやってるんだ?」
Machの表情がわずかに変わった。
音楽がさらに大きくなる。
キランは壁を見つめた。
何か――
これは――
嫌な予感がした。




