俺の目が黒いうちは
病院という場所には、何もかもを遅く感じさせる何かがあった。
廊下は静かだった。
照明は柔らかい。
磨き上げられた床を歩く看護師たちの足音さえ、どこか遠くに聞こえる。
キランはそれが嫌いだった。
病院そのものが嫌いなわけではない。
待つこと。
彼は待つのが嫌いだった。
そして残念なことに、最近はそればかりしている気がした。
キランはMACH-01Aに乗って病院の廊下を進んでいた。
隣にはMach。
そして後ろには――
アダムとPatrol。
キランは肩越しに振り返った。
アダムはまだいる。
ため息をつく。
アダムが気づいた。
「何だ?」
「別に」
「さっきから何度も俺を見てるだろ」
「慣れようとしてる」
「何に?」
「警官がどこにでもついてくる生活に」
アダムは眉をひそめた。
「お前を警護してるんだ」
「政府の予算がついたストーカーみたいだ」
Patrolが口を開いた。
「厳密には、正式に認可された警護任務の一環として行われる監視行為は――」
アダムが彼を指差した。
「やめろ」
Patrolは黙った。
Machが彼を見る。
「私はその説明の続きを聞きたかったのですが」
「知ってる」
キランは再び前を向いた。
「これ、いつまで続くんだ?」
「ゲートロックが脱獄囚を全員捕まえるまで」
「捕まえられなかったら?」
アダムが彼を見る。
「その頃には、俺の顔を見るのにも相当うんざりしてるだろうな」
「もううんざりしてる」
「奇遇だな。俺もだ」
Machがため息をついた。
「この関係は実に順調に発展していますね」
彼らはレイモンドの病室に到着した。
キランはドアの前で止まった。
表情が少し真剣になる。
「一つだけ……」
アダムが眉を上げる。
「何だ?」
「いきなり尋問とか始めるなよ」
「ハリソンを尋問しに来たんじゃない」
「ならいい」
「病院でどう振る舞うかくらい知ってる」
「本当に?」
アダムが彼を睨んだ。
キランは笑った。
「確認しただけ」
アダムはドアへ手を伸ばした。
「お前、分刻みで好感度が下がってるぞ」
「すごいな。俺たち何年も前から知り合いなのに」
レイモンド・ハリソンは起きていた。
そして何より――
キランが最後に見た時より、かなり良くなっていた。
病院のベッドは上半身を起こした状態に調整され、レイモンドは何個もの枕に背中を預けて座っていた。
負傷した肩は病衣の下で厚く包帯を巻かれており、さらにいくつものガーゼが服の下へ消えている。
ベッド脇のモニターにはバイタルサインが表示されていた。
反対側の腕には点滴。
レイモンドはリラックスしているように見えた。
いや――
レイモンドのような男にしては、という意味で。
壁掛けテレビを見ていた彼は、ドアが開くとこちらを向いた。
「キラン」
キランは笑った。
「よう」
続いてレイモンドはMachを見た。
表情は変わらない。
そしてアダムが入ってきた。
片方の眉が上がった。
さらにPatrol。
眉がもっと上がった。
レイモンドは四人を見回した。
「何だこれは?」
キランが中へ入る。
「会えて嬉しいよ、俺も」
「真面目に聞いてる」
レイモンドはアダムを指差した。
「なんで*こいつ*がお前と一緒にいる?」
アダムは腕を組んだ。
「順調に回復してるようで何よりだ、ハリソン」
レイモンドはキランを見る。
「逮捕されたのか?」
「違う」
「まだな」アダムがぼそりと言った。
キランが振り返る。
「助かるよ」
レイモンドは二人を交互に見る。
「お前ら二人が、自分の意思で同じ建物に入ったのか?」
「新しいことに挑戦してるんだ」
アダムが不機嫌そうに言った。
「してない」
Machがレイモンドのベッドへ近づいた。
「ヘンリー巡査とPatrolが、キランの警護担当に任命されました」
レイモンドの表情が瞬時に変わった。
「警護?」
穏やかだった空気が消えた。
「何があった?」
キランはため息をついた。
「ゲートロックだ」
レイモンドは待った。
「今日、三人の囚人が脱走した」
レイモンドの顎が強張った。
「誰だ?」
Machが答えた。
「ウルトラヴァイオレット」
一瞬の間。
「ザイラ・ラインハルト」
レイモンドが背筋を伸ばした。
「そしてナオミ」
レイモンドはキランを見つめた。
「Snat」
「ああ」
「Ventも取り戻した」キランが付け加えた。
レイモンドの目が鋭くなった。
「Blizzard?」
「それとDJ Kre8」
レイモンドは即座に毛布をどけた。
キランには何をしようとしているのかすぐに分かった。
「駄目だ」
レイモンドは脚をベッドの端へ動かした。
キランが近づく。
「レイモンド」
「俺も行く」
「行かない」
レイモンドは無傷の腕でベッド柵をつかんだ。
急な動きに、隣のモニターが反応した。
**ピッ。**
**ピッ。**
**ピッ。**
Machが近づく。
「心拍数が上昇しています」
「当たり前だ」
レイモンドは身体を起こそうとした。
その瞬間、負傷した肩に激痛が走った。
顔が強張る。
キランは彼を指差した。
「ほらな」
「平気だ」
「撃たれたんだぞ」
「気づいてる」
「手術もした」
「それも気づいてる」
「文字どおり、まだ病院のベッドにいるんだぞ」
レイモンドは彼を睨んだ。
「そして外には、お前を狙うかもしれない危険人物が三人いる」
「警護ならいる」
キランは自分の後ろを指差した。
レイモンドが見る。
アダムが小さく手を振った。
レイモンドは彼を見つめた。
それからキランへ視線を戻した。
「それが反論か?」
アダムは眉をひそめた。
「俺はここにいるんだが」
「知ってる」
Patrolが口を開いた。
「ヘンリー巡査は必要とされるすべての警護訓練課程を修了しています」
レイモンドはPatrolを見る。
「お前にも聞いてない」
Patrolは黙った。
Machが隣へ浮かぶ。
「私の日常へようこそ」
キランはMACH-01Aをレイモンドとドアの間に移動させた。
「ここにいろ」
レイモンドが彼を見る。
「どけ」
「嫌だ」
「キラン」
「レイモンド」
「俺なら助けられる」
「分かってる」
「ならどけ」
「嫌だ」
レイモンドの表情が険しくなる。
キランも引かなかった。
「お前は俺の命を救った」
その言葉でレイモンドが止まった。
病室が静かになる。
キランは続けた。
「俺のせいで撃たれた」
レイモンドが口を開こうとする。
キランは手を上げた。
「言う前に言っておく。分かってる。お前自身が決めたことだ。また同じことをする。いつだって俺を守ってくれる」
レイモンドは何も言わなかった。
「でもだからって、一日中俺を守らなきゃならないと思い込んで、その肩をまた裂かせるわけにはいかない」
レイモンドは視線を逸らした。
Machが少し柔らかい声で言った。
「ドクター・ラクソンによる手術は成功しています。しかし、この回復段階で過度な負荷をかければ、合併症を引き起こす可能性があります」
レイモンドは眉をひそめた。
「どれくらいだ?」
「それを判断するのは医療チームです」
「つまり、お前には分からない」
「少なくとも本日戦闘行為を行うことが医学的に賢明ではないことは分かります」
レイモンドは再びキランを見た。
キランは小さく笑った。
「いいか」
自分自身を示す。
「俺とMachなら大丈夫だ」
それからアダムとPatrolを示した。
「それにどうやら、この二人がゲートロックの問題が片づくまで俺について回るらしい」
アダムは頷いた。
「残念ながらな」
キランが彼を見る。
「俺を生かしておくことに、もう少し熱意を見せてもらえない?」
「嫌だ」
「まあいい」
レイモンドは笑わなかった。
「ザイラはそこらの犯罪者とは違う」
「分かってる」
「ナオミもだ」
「分かってる」
「三人全員が組んでるなら――」
「分かってる」
キランの声は落ち着いていた。
「でも、お前は怪我してる」
レイモンドは数秒間、彼を見つめ続けた。
キランはその目を知っていた。
レイモンドは戦線から外されるのが嫌いだった。
特に――
大切な人間が危険にさらされている時は。
やがて――
彼は息を吐いた。
「Snat」
キランは笑った。
「それは“分かった”ってこと?」
「違う」
レイモンドは慎重に毛布をかけ直した。
「“お前は俺が同意するまで黙らない”って意味だ」
「正解」
レイモンドは枕に背中を預けた。
「分かったよ」
キランは頷いた。
「ありがとう」
「でも何かあったら――」
「俺たちで対処する」
「俺が必要になったら――」
「電話する」
レイモンドは彼を指差した。
「絶対だぞ」
「するって」
レイモンドはMachを見る。
Machは頷いた。
「必ず連絡させます」
キランは眉をひそめた。
「なんで誰も俺を信用しないんだ?」
病室にいる全員が彼を見た。
キランは周囲を見回した。
「……分かったよ」
彼らはもう少し病室に残った。
キランが警察からの連絡についてレイモンドに話せるくらい。
レイモンドが病院食について文句を言えるくらい。
アダムが何もせず座っていることに目に見えて耐えられなくなるくらい。
やがて――
キランはドアへ向かった。
「そろそろ行くか」
レイモンドは頷いた。
「ああ」
Machが続く。
Patrolもその後へ。
アダムが最後だった。
彼がドアを出ようとした時――
「ヘンリー」
アダムが止まった。
振り返る。
レイモンドはもうリラックスしていなかった。
枕に背を預けながらも、まっすぐ身体を起こしていた。
その目はアダムだけを見ている。
アダムは待った。
レイモンドはゆっくりと言った。
「こいつを頼む」
キランが振り返った。
アダムの表情は変わらない。
「それが任務だ」
「任務の話をしてるんじゃない」
レイモンドの声が硬くなる。
「キランの話だ」
アダムは彼を見つめた。
レイモンドは続ける。
「ウルトラヴァイオレット、ザイラ、ナオミ……」
首を振る。
「あいつらは危険だ」
「分かってる」
「こいつを生かしておけ」
キランはため息をついた。
「レイモンド――」
「俺が話してる」
キランは黙った。
レイモンドはアダムをまっすぐ見た。
「もし、お前が警護してる間にこいつに何かあったら……」
目を細める。
「警官だろうが何だろうが――」
一瞬の間。
「……後悔することになるぞ」
沈黙。
Patrolがアダムを見る。
Machがキランを見る。
キランはアダムが言い返すと思った。
皮肉の一つでも言うと思った。
警官を脅すなとレイモンドに言うと思った。
何か。
だが――
アダムの表情が和らいだ。
笑顔ではない。
もっと真剣なもの。
理解。
彼はレイモンドのベッドへ一歩近づいた。
「俺の仕事は、シトロン市民を守ることだ」
レイモンドは彼を見ていた。
アダムは続ける。
「そのために俺はバッジをつけた」
その声には、いつもの苛立ちはなかった。
皮肉も。
口論する気配も。
「キリアンには心底イライラさせられる」
キランが眉をひそめた。
「ありがとう」
アダムは無視した。
「捜査に首を突っ込む。指示を無視する。行くなと言った場所へ行く。触るなと言った証拠に触る。自分には関係ない事件にまで巻き込まれる――」
「もういいだろ」
「――そして“警察の規制線”という言葉をまったく尊重しない」
キランは両手を上げた。
「分かったって」
それでもアダムはレイモンドから目を逸らさなかった。
「だが、そんなことは関係ない」
表情が引き締まる。
「こいつはシトロン市民だ」
アダムは一瞬だけキランを見る。
そしてレイモンドへ戻す。
「そして今、こいつは俺の保護下にいる」
一拍。
「だから俺が守る」
レイモンドは黙っていた。
アダムは簡潔に言い切った。
「たとえ俺が死ぬことになってもな」
誰も冗談を言わなかった。
キランも。
Machも。
Patrolも。
この時だけは――
笑いに変えられる言葉などなかった。
レイモンドはアダムをじっと見た。
そしてゆっくり頷いた。
「よし」
アダムも頷き返した。
それだけだった。
握手もない。
大げさな宣言もない。
ただ――
まったく違う二人の男の間に生まれた理解。
二人とも、誰かを守るということだけは本気だった。
キランは二人を見比べた。
「へえ」
アダムが振り返る。
「何だ?」
「いや」
キランは笑った。
「お前にもそんなところがあったんだな」
そして――
終わった。
アダムの目元がぴくりと動いた。
「いい雰囲気を台無しにするな」
「いい雰囲気なんてあった?」
「キリアン」
「はいはい、行くよ」
キランはドアを抜けた。
Machが続く。
次にPatrol。
アダムは最後にもう一度だけ立ち止まった。
レイモンドを振り返る。
レイモンドは小さく頷いた。
アダムも頷き返す。
そして病室を出た。
病院の自動ドアが開いた。
夕方近くの空気が、MACH-01Aで外へ出たキランを包んだ。
アダムは隣を歩く。
PatrolとMachが近くを浮かんでいた。
数秒間――
誰も話さなかった。
やがてキランがアダムを見た。
「でさ」
アダムは歩き続ける。
「嫌だ」
「まだ何も言ってない」
「お前のことは知ってる」
キランは笑った。
「本気だった?」
アダムが彼を見る。
「何が?」
「さっきの」
アダムの表情は真剣なままだった。
「全部本気だ」
キランの笑顔が消えた。
彼は頷いた。
「そっか」
一拍。
そして――
アダムはキランを指差した。
「だが、後悔させるなよ」
キランはニヤリとした。
「いつものお前に戻った」
アダムがうめいた。
MachはPatrolを見る。
「再び口論を始めるまで、約四分と推定します」
Patrolは予測を処理した。
「長すぎる」
キランが二人を見る。
「おい」
アダムが指差す。
「ほらな」
Patrolが答えた。
「二十三秒」
Machは頷いた。
「見事です」
四人はそのまま病院の通路を進んでいった。
一人の英語教師。
そのVent。
彼のことが気に入らない警察官。
そして、その警察官の相棒。
シトロン市のどこかでは――
三人の脱獄囚が自由の身となっている。
そしてキランが望もうが望むまいが――
今、その三人と彼との間に立つ役目を任された男は――
アダム・ヘンリーだった。




