最後の手段
クラシック音楽が流れ続けていた。
静かに。
優雅に。
周囲の惨状とは、あまりにも不釣り合いに。
サヴァントは荒れ果てたオフィスに一人立ち、キラン、マッハ、そしてレイモンドが逃げていった入口を見つめていた。
一本のロボットアームが、役目を失ったまま天井から垂れ下がっている。
別の一本は床に転がっていた。
机も損傷している。
計画は失敗した。
キラン・キリアンは、まだ生きている。
サヴァントはしばらく黙っていた。
そして――
コートの中へ手を入れ、携帯端末を取り出した。
連絡先をスクロールする。
ほとんどは人名。
いくつかは企業名。
中には数字だけのものもある。
だが、一つだけ異彩を放つものがあった。
**最後の手段**
サヴァントはそれを見つめた。
彼は外部の人間に頼ることをあまり好まない。
予測不能すぎる。
金がかかりすぎる。
余計な不確定要素が多すぎる。
だが残念ながら――
キランもまた、予想外の不確定要素となってしまった。
サヴァントはその連絡先を押した。
**プルルル……**
一回。
**プルルル……**
二回。
**カチッ。**
誰かが出た。
挨拶はない。
サヴァントがかすかに笑う。
「仕事を一つ、依頼したい」
沈黙。
そして、荒々しい声が返ってきた。
「俺は安くない」
サヴァントは破壊されたオフィスを見回した。
「ええ。よく承知しています」
机の上に落ちていたガラス片を払い落とす。
「普段、私は個人の請負人を雇うことはないのですが……」
目を細める。
「……今回は特別です」
再び短い沈黙。
電話の向こうの人物は詳細を尋ねなかった。
理由も聞かない。
金額すら確認しない。
重要なのは、たった一つ。
「標的は?」
サヴァントが笑った。
数日後――
キランはシトロン・アカデミーへ戻っていた。
身体にはまだ痛みが残っている。
ギアはMACH-01Aをどうにか稼働できる状態まで修復してくれたが、損傷した箇所のいくつかは周囲の装甲より明らかに新しかった。
マッハも回復している。
ほぼ。
「また窓を見ていますね」
キランが窓から目を逸らす。
「見てないよ」
「この六分間で十七回、外を確認しています」
キランが眉をひそめる。
「景色が好きなのかも」
「あなたはここで働いています」
「だからって建築を楽しんじゃいけないわけじゃないでしょ」
マッハがじっと見る。
キランはため息をついた。
「分かったよ」
再び外を見る。
異常はない。
生徒たちが中庭を歩いている。
学校の敷地の向こうではホバーカーが行き交う。
すべてが普通に見えた。
それこそが問題だった。
サヴァントと会ってから――
普通が、普通には感じられなくなっていた。
「ねえ」
キランが振り向く。
教室の入口にミカイラが立っていた。
キランが笑う。
「やあ」
彼女は中へ入り、後ろ手にドアを閉める。
その目がすぐにキランの全身を追った。
確認している。
また。
キランは気づいた。
「大丈夫だよ」
「まだ何も聞いてないけど」
「聞こうとしてた」
「考えてただけ」
「同じでしょ」
ミカイラが椅子を引き寄せる。
「本当のところ、どう?」
キランは少し迷った。
「痛い」
「それなら正直ね」
「あと、ちょっと疑心暗鬼」
「それも無理ないわ」
マッハが近くへ浮かぶ。
「現在の彼の行動は、警戒心の著しい高まりと表現するのが適切でしょう」
キランがマッハを見る。
「疑心暗鬼のほうが短い」
ミカイラは笑わなかった。
「あの面会、本当に最悪の考えだった」
キランがため息をつく。
「分かってる」
ミカイラの眉が上がった。
「何?」
「分かってるって言ったんだけど」
「反論しないの?」
「しない」
「医者を呼んだほうがいい?」
キランが笑う。
ミカイラは笑わない。
冗談は即死した。
彼女は手を伸ばし、キランの手に自分の手を重ねた。
「サヴァントは、あなたがどこに住んでるか知ってる」
キランは視線を落とす。
「うん」
「それで、ついこの前あなたを殺そうとした」
「それもうん」
「だったら、しばらくあそこには住まないほうがいいと思う」
キランが彼女を見る。
反論するより先に、ミカイラが続けた。
「私のところに泊まって」
キランが止まる。
「ミカイラのアパートに?」
「そう」
マッハが二人を交互に見る。
キランは我慢できなかった。
「へえ」
ミカイラが目を細める。
「やめて」
「暗殺未遂を生き延びたら、その直後に彼女からお泊まりのお誘いか」
「キラン」
「人生って不思議な――」
「キラン」
止まった。
「ごめん」
ミカイラが彼の手を握る。
「本気で言ってるの」
キランには分かっていた。
そして正直――
そうしたかった。
だが考えれば考えるほど、それが悪い考えに思えてきた。
彼女が原因ではない。
サヴァントだ。
キランはゆっくり首を振る。
「無理だ」
「どうして?」
「僕の家を知ってるなら、君のことも知ってるかもしれない」
ミカイラが黙る。
「これを君のアパートに持ち込みたくない」
「キラン――」
「ダメ」
声は穏やかだった。
だが、はっきりしていた。
「気持ちは嬉しい。本当に」
彼女を見る。
「でも僕だって、君を守りたいんだ」
ミカイラは明らかに納得していなかった。
「じゃあ、どうするつもり?」
「ギアのところに泊まる」
マッハが彼へ向き直る。
「そのほうが格段に安全です」
キランが頷く。
「しばらくだけね」
ミカイラが眉をひそめる。
「どうして“しばらく”だけなの?」
キランは再び窓を見る。
「サヴァントに追い出されたまま、自分の家を諦めるつもりはないから」
その日の午後――
キランはシトロン・アカデミーを出た。
MACH-01Aが人混みの中を進み、その隣をマッハが浮かんでいる。
二人とも、通りの向こう側にいる人物には気づかなかった。
その人物は配送車両の陰に身を隠すように立っていた。
全身を装甲が覆っている。
黒い装甲板。
重厚なブーツ。
密閉型のヘルメットが顔を完全に隠していた。
キランが動く。
その人物も動く。
キランが交差点で止まる。
男は人混みの中へ消える。
キランが進む。
半ブロックほど後ろに、再び男が現れる。
近づきすぎない。
姿を晒さない。
すべての動きが計算されている。
キランもマッハも、尾行されていることにはまったく気づいていなかった。
その時――
**ピッ。**
装甲の人物が止まった。
携帯端末を取り出す。
通知が表示されている。
場所。
日付。
時間。
彼はそれを見つめた。
別の仕事。
ヘルメットが遠くのキランへ向く。
まだだ。
装甲の収納部から小さな装置を取り出す。
上へ放り投げた。
**ウィィィン。**
装置が空中で展開する。
小型監視ドローン。
大型ショッピングモールなどで一般的に使われているタイプだ。
カメラが起動。
ドローンは通りの上空へ上昇し、キランを追尾対象として固定した。
装甲の人物が携帯端末で映像を確認する。
完璧だ。
キランはギアの工房へ向かって進み続ける。
何も知らないまま。
男は背を向けた。
別の場所へ行かなければならない。
夜がモーションオポリスを包んだ。
シトロン・シティから一時間ほど離れた場所にあるその街は――
眠りとは無縁だった。
ネオン広告が建物の壁面を埋め尽くしている。
クラブから音楽が溢れ出す。
レストランは今も満席。
ホバーカーが道路を埋め、その下の歩道には人々が溢れていた。
その人混みの中を――
三人の友人が笑いながら歩いていた。
左側を歩くステイシーは、夜のどこかの時点で靴は不要だと判断したらしく、片手に靴を持っている。
隣をベニーが歩いていた。
ハイテク義足が歩道を踏むたびに小さな音を立て、発光する関節部が一歩ごとに自然な動きで調整されている。
二人の間にはマーカスが浮かんでいた。
彼のホバーチェアは歩道から数センチ浮いた状態で滑るように進んでいる。
その隣には――
彼のVent、ジャックポット。
「あなたのせいだからね」とステイシー。
マーカスが心外そうな顔をする。
「僕のせい?」
「歌えるって言ったでしょ」
「歌えるよ」
ベニーが笑った。
「無理」
マーカスが彼を指差す。
「お前、文句言ってなかっただろ」
「みんなが帰っていくのを見るので忙しかったんだよ」
ジャックポットが笑う。
「マーカスがステージから降ろされる確率は78%と算出していました」
マーカスが見つめる。
「だったら教えてくれてもよかっただろ」
「結果を観察したかったので」
ステイシーが吹き出した。
「ほら! あんたのVentまで恥かくところ見たかったんじゃん」
「裏切り者ども」
三人はそのまま歩道を進んでいった。
気楽な会話から、一つのことだけは明らかだった。
こんな夜を過ごすのは初めてではない。
何度もやってきた。
やがて――
交差点へたどり着く。
ステイシーが伸びをする。
「私、こっち」
ベニーが別の通りを見る。
「俺も」
マーカスが笑う。
「また明日?」
「もちろん」
ステイシーが彼を指差す。
「でも歌は禁止」
「約束はしない」
三人は別れの挨拶を交わした。
ステイシーとベニーは夜の人混みへ消えていく。
マーカスは一人で進んだ。
ジャックポットが隣を浮かぶ。
数分間、どちらも何も言わなかった。
やがてジャックポットが口を開く。
「仕事について話す必要があります」
マーカスの笑みが薄れる。
「今夜はやめよう」
「予想より早く問題になる可能性があります」
「明日」
「マーカス――」
「明日って言っただろ」
ため息をつく。
「僕らは逃げ切ったんだ」
ジャックポットは黙っている。
マーカスが笑う。
「数百万クレジットだぞ。それでも誰も、どうやったのか分からなかった」
「その判断は時期尚早かもしれません」
「心配しすぎ」
マーカスはホバーチェアの背もたれに身体を預ける。
「今夜は楽しむための夜だったんだ」
その瞬間――
**シュッ!**
何かが車椅子へ巻きついた。
マーカスが下を見る。
金属製のケーブル。
「何だ、これ――」
**グイッ!**
「うわあああっ!」
マーカスとジャックポットが凄まじい勢いで横へ引きずられた。
二人は廃倉庫の壊れた入口へ吸い込まれるように消えた。
**ガシャァン!**
マーカスが床へ叩きつけられる。
ホバーチェアが回転した。
ジャックポットが隣でちらつく。
「マーカス!」
影が動いた。
マーカスが顔を上げる。
数メートル先に、あの装甲の男が立っていた。
微動だにせず。
待っている。
「誰だよ、お前?」
返事はない。
マーカスが後退する。
男が近づく。
ジャックポットが二人の間へ移動した。
「近づくな」
男は止まらない。
ジャックポットが攻撃する。
**ドン!**
倉庫内が一気に戦場と化した。
ジャックポットが戦う間、マーカスはその場から逃れようとする。
だが男は準備していた。
すべての攻撃を――
防ぐ。
すべての逃走を――
塞ぐ。
マーカスが加速しようとする。
再び金属ケーブルがホバーチェアへ巻きついた。
**グイッ!**
身体が後ろへ叩きつけられる。
「ぐあっ!」
ジャックポットが男へ突進する。
凄まじい一撃を受け、Ventが古い支柱へ吹き飛ばされた。
**ドン!**
「ジャックポット!」
男が近づく。
マーカスの呼吸が激しくなる。
「待って!」
何もない。
「金なら払う!」
装甲の男が止まった。
マーカスが唾を飲み込む。
「向こうがいくら払ってるか知らないけど、倍払う!」
沈黙。
「三倍!」
反応なし。
ジャックポットがどうにか起き上がる。
「カジノの件です」
マーカスが彼を見る。
男のヘルメットがゆっくりジャックポットへ向く。
マーカスは理解した。
「あ……」
顔から血の気が引く。
「いや、いや、聞いてくれ」
両手を上げる。
「あいつらにとっては、本物の金みたいなもんですらないんだ!」
男が再び歩き始める。
「カジノは何百万も稼いでる!」
マーカスが後退する。
「だからイカサマした!」
声が裏返る。
「それが何だっていうんだよ!」
ジャックポットが彼へ近づく。
「我々はカジノのシステムを操作しました」
マーカスが睨む。
「今それ言う!?」
「私の能力を利用してゲームの結果を改変しました」
「ジャックポット!」
「そして数百万クレジットを引き出しました」
装甲の男が二人の真正面で止まる。
マーカスが見上げる。
「頼む」
初めて――
男が口を開いた。
「断る」
ホバーチェアを掴む。
マーカスが叫んだ。
男は彼を倉庫の床の上で引きずっていく。
ジャックポットが止めようとする。
装甲の男は彼まで掴んだ。
その先には――
床に巨大な穴が開いていた。
何年も前に放棄された改修工事の名残。
下に待っているのは、ただの暗闇。
マーカスは、自分たちがどこへ連れていかれているのか理解した。
「やめろ」
男は歩き続ける。
「やめろ!」
マーカスが必死にもがく。
「頼む!」
ケーブルがさらに締まる。
ジャックポットも抵抗する。
何をしても無駄だった。
装甲の男が穴の縁へ到達する。
マーカスは暗闇を見下ろした。
「頼む! 悪かった!」
返事はない。
男が一歩前へ出る。
マーカスが絶叫する。
「やめろおおおおお――!」
暗闇が二人を飲み込んだ。
叫び声が穴の底から響く。
一度。
二度。
そして――
静寂。
数分後――
装甲の男が暗闇から這い上がってきた。
一人で。
振り返ることなく倉庫を歩いていく。
外では、モーションオポリスの夜が続いていた。
音楽。
笑い声。
交通の音。
誰も彼に気づかない。
男は携帯端末を取り出した。
メッセージを開く。
そして二つの単語を入力した。
**任務完了。**
**ピッ。**
数秒後、通知が表示された。
残りの報酬が振り込まれた。
男が金額を確認する。
満足した。
そして別のアプリを開く。
画面いっぱいにライブ映像が映し出された。
シトロン・シティ。
ギアの工房。
監視ドローンは今も標的を追っている。
キラン・キリアン。
そしてマッハ。
装甲の男は二人を見つめた。
次の契約。
彼のファイルに記された名前が画面へ表示された。
**VENTIX**




