あなたの一番のファン
ロビーは埃臭かった。
キランは、隣に浮かぶマッハとともに廃ビルの奥へゆっくりと進んでいった。
天井の照明はほとんど死んでいる。
まだ生きている数少ない照明も弱々しく点滅し、倒れた家具や放置された受付カウンターをまだらに照らしていた。
キランが周囲を見回す。
「居心地よさそう」
「以前の所有者は同意しなかったと思われます」
二人はエレベーターにたどり着いた。
キランがボタンを押す。
何も起きない。
もう一度押す。
やはり何も起きない。
マッハがドアをスキャンする。
「エレベーターは作動していません」
「だろうね」
キランは近くの階段へ目を向ける。
それからMACH-01Aを見る。
笑みが浮かんだ。
「飛べてよかった」
**ゴォッ!**
MACH-01Aが階段の吹き抜け中央を上昇する。
次々と階が過ぎていく。
キランは壁に描かれた数字を見た。
6。
7。
8。
そして――
9。
着陸する。
その先の廊下は完全な暗闇だった。
マッハが前方を照らす。
「招待状によれば、待ち合わせ場所はこの廊下の突き当たりにある部屋です」
キランが進む。
「人は?」
「一名と思われる反応があります」
「武装は?」
「判別不能です」
「ロボットは?」
「判別不能です」
「爆発物は?」
「判別不能です」
キランがマッハを見る。
「ものすごく役に立つね」
「ありがとうございます」
「褒めてな――」
「分かっています」
二人はドアにたどり着いた。
キランが止まる。
ここだ。
彼は階段のほうを振り返った。
レイモンドとミカイラは数階下、そして建物の外で待機している。
キランからの合図を待っている。
キランは正面へ向き直った。
「準備は?」
マッハが頷く。
「できています」
キランがドアを開けた。
**カチッ。**
キランが固まる。
銃ではない。
爆弾でもない。
攻撃でもない。
針だった。
古びたレコードの上へ、ゆっくりと針が降りていく。
**ザザザザ……**
しばらくの間、部屋に響くのはノイズだけだった。
そして――
クラシック音楽が流れ始めた。
暗いオフィスを弦楽器の音色が満たす。
キランは壁際に置かれた年代物のレコードプレーヤーを見つめた。
「なるほど」
マッハもそちらを見る。
「予想外です」
「そういう言い方もできるね」
部屋には、ほとんど何もなかった。
古い棚が壁に並んでいる。
分厚いカーテンが、残されたわずかな日光まで遮っていた。
そして真正面には――
机。
その向こうに誰かが座っている。
男だった。
身体は影に包まれている。
動かない。
話さない。
ただ待っている。
キランはゆっくり近づいた。
やがて――
男がわずかに身を乗り出す。
「来ましたね」
声は穏やかだった。
「実に喜ばしい」
キランは机の向かいで止まる。
見知らぬ男が彼へ手を向ける。
「どうぞ、お掛けください」
一瞬の間。
「ああ」
男の口元に小さな笑みが浮かぶ。
「これは言葉選びを間違えましたね」
キランが彼を見つめる。
「今のところ絶好調だね」
マッハは隣に浮かんだまま。
男が小さく笑う。
キランはさらに机へ近づく。
「それで……」
周囲を見回す。
「あなたが僕の一番のファン?」
「意図的に芝居がかった表現です」
「それは気づいた」
男が両手を組む。
キランは待った。
「あなたは誰?」
短い沈黙。
そして――
「私のことは、サヴァントとお呼びください」
キランが眉をひそめる。
「全然怪しくない名前だね」
「名前について議論するために、あなたをここへ招いたわけではありません」
「じゃあ、なんで呼んだの?」
サヴァントが背もたれにもたれる。
「本音を言えば?」
「そのほうがいいね」
「呼びたくはありませんでした」
キランが眉を上げる。
「じゃあ、お互い時間を無駄にせずに済んだのに」
「残念ながら、キリアンさん。あなたには私の仕事を邪魔する癖がついてしまった」
キランが頷く。
「犯罪ね」
サヴァントの表情はほとんど変わらない。
「私の仕事です」
「犯罪」
「ずいぶん単純化された表現ですね」
「僕から見れば、かなり正確だけど」
サヴァントが少し間を置く。
そして、かすかに笑う。
「また不適切な言葉選びですね」
キランがうめく。
「毎回それやるつもり?」
「おそらく」
マッハがキランを見る。
「私はすでに彼が嫌いです」
「僕も」
サヴァントは二人を無視した。
「誰にでも、生計を立てる方法があります。キリアンさん。私には私の方法がある」
キランを示す。
「そして、あなたにはあなたの方法がある」
「違いは、僕の方法は人を傷つけないってこと」
「本当に?」
キランの笑みが消えた。
サヴァントが身を乗り出す。
「あなたは、私の主要な供給者の一人を殺した」
キランは即座に理解した。
「ジャリック」
「そして、もう一人は……」
サヴァントの声が硬くなる。
「……刑務所へ送った」
「ザイラ」
「その通り」
背後では音楽が流れ続けている。
キランは影に包まれた男を見つめた。
「なるほど。そういうことか」
「一部は」
「僕があなたの供給網を邪魔したから怒ってる」
サヴァントが首を傾げる。
「また単純化していますね」
「また犯罪だね」
初めて――
サヴァントが本気で苛立ったように見えた。
ほんのわずかに。
だがキランは見逃さなかった。
「呼び方が何であれ、あなたのせいで私の仕事はかなり困難になった」
サヴァントの指が机をゆっくり叩く。
「そして、それは……」
一瞬の間。
「……個人的な問題になる」
数秒間――
二人とも何も言わなかった。
クラシック音楽だけが流れ続ける。
やがてキランがレコードプレーヤーを見る。
「一つ聞いていい?」
サヴァントが待つ。
「なんでこの音楽?」
彼の苛立ちが消えた。
「クラシックです」
その質問を喜んでいるようにも見えた。
「人々は未来に取り憑かれている」
サヴァントはしばらく音楽に耳を傾ける。
「新しい技術。新しい思想。新しい生き方」
指先がリズムに合わせて静かに動く。
「しかし、過去の教訓を認めようとする者はほとんどいない」
キランは黙って聞く。
「そして、その教訓が今なお持つ力を理解する者は、さらに少ない」
サヴァントの視線が移る。
キランではない。
マッハへ。
「もっとも、あなたは未来に特別な愛着を持っているようですが」
マッハが見つめ返す。
サヴァントは彼を観察する。
そして――
「実に悲しい存在だ」
キランが眉をひそめる。
「何?」
サヴァントがマッハを示す。
「人とのつながりを得るために、人工知能へ頼らなければならないとは」
部屋から一気に冗談めいた空気が消えた。
マッハは何も言わない。
代わりにキランが口を開く。
「頼る?」
サヴァントが肩をすくめる。
「私の言いたいことは分かるでしょう」
「いや」
キランの表情が険しくなる。
「分からない」
「人間とのつながりの代用品としての人工的な存在です」
マッハのアバターは微動だにしなかった。
キランが机へさらに近づく。
「実際は……」
マッハを見る。
「僕は彼がいてくれて、本当に感謝してる」
マッハがキランを見る。
「ほとんどの人が一生経験しないようなことまで、ずっと一緒に乗り越えてきた」
キランはサヴァントへ視線を戻す。
「彼は僕の親友だ」
サヴァントが静かに笑う。
「実に感傷的だ」
キランは笑わなかった。
「それと、一応言っておくけど……」
目が細くなる。
「……彼は、あなたなんかよりずっと人間らしい」
沈黙。
サヴァントの笑みが消えた。
レコードは回り続ける。
**ザザザザ……**
キランが彼を見つめる。
マッハも彼を見つめる。
やがて――
サヴァントがため息をついた。
「キリアンさん」
彼の手がゆっくりと机の上を動く。
「私が選んだ仕事は、ただでさえ非常に不安定なものです」
指が一つのボタンの上で止まる。
「ですから、問題が発生した時には……」
**カチッ。**
キランの目が見開かれる。
「……単純に排除するのです」
壁のパネルが一斉に開いた。
**ガシャン!**
「キラン!」
ロボットアームが部屋を横切って飛び出す。
**ドン!**
一本がMACH-01Aに巻きついた。
別の一本がキランの胴体を拘束する。
さらに何本ものアームがマッハの周囲へ降りてくる。
キランが拘束から逃れようともがく。
「マッハ!」
「脱出を試みています!」
機械のアームがさらに締まる。
**ギギギギッ!**
圧力を受け、MACH-01Aの装甲が軋む。
キランが操作系を動かそうとする。
何も反応しない。
サヴァントを見る。
男は椅子から立ち上がってすらいなかった。
ただ机の向こうに座っている。
見ている。
冷静に。
キランが歯を食いしばる。
「つまり……」
ロボットアームに抗うが、びくともしない。
「……ここからが、本当に罠になるところ?」
サヴァントが笑う。
「その通りです」




