クレイドル・プロトコル
数秒間、誰も動かなかった。
誰も喋らない。
瞬きすら忘れているようだった。
戦闘アリーナは、ほとんど完全な静寂に包まれていた。
聞こえるのは、壊れた機械から時折漏れるシューッという音と、残骸のどこかで微かに弾ける電気の音だけ。
煙がゆっくりと漂い、天井の照明の下で細い灰色の帯となって広がっていた。
床一面にロボットの部品が散乱している。
壁際には機械の脚が一本。
胴体の半分は、強化バリアへめり込んでいた。
切断された腕がクレーターの横でしばらく痙攣していたが、やがて指を丸め、そのまま動かなくなった。
見える範囲のほぼすべてが黒く焼け焦げている。
そして――
その破壊の中心に、キランとマッハがいた。
キランはゆっくりとアリーナの端から端まで見回した。
「……なんてこった」
バイザーの中で、マッハの紫色のアイコンが点滅した。
『同感です』
その時、背後で壊れたロボットの一体が立ち上がろうとした。
上半身が数インチ持ち上がる。
モーターが唸る。
機体が震える。
そして――
そのまま顔面から床へ倒れた。
ガァン!
肩から腕が外れ、床を数フィート転がったあと、キランの機体の横で止まった。
キランはそれを指差した。
「……これ、勝ったってことでいい?」
スピーカーからノイズが走った。
『まあ、合格にしてやる』
ギアの声には、感心したような響きがあった。
それが、失望されるよりなぜか怖かった。
キランは観察ブースへ視線を向ける。
強化ガラスの向こうでは、ギアとレイモンドが荒れ果てたアリーナを見下ろしていた。
レイモンドは感心している。
ギアは――
興味津々だった。
そしてキランは昔から知っている。
ギアが何かに興味を持った時、大抵キランはその後さらに数時間、機械に囲まれることになる。
アリーナの扉が開いた。
最初に入ってきたのはギア。
すでにタブレットを手にしている。
その後ろからレイモンドが続いた。
二人とも戦場へ足を踏み入れた途端、歩みを遅くした。
どうやら地上から見ると、破壊の規模はさらに凄まじかったらしい。
レイモンドは中央付近のクレーターを見る。
次に、支柱へ斜めに引っかかっているロボットを見る。
そしてキランを見る。
「……まあ」
キランは待った。
「それだけ?」
レイモンドは顎を擦った。
「適切な言葉を考えてる」
キランは周囲の惨状を示した。
「ごゆっくり」
ギアは二人の会話など、ほとんど聞いていなかった。
マッハの周囲をゆっくり歩きながら装甲を調べ、タブレットでスキャンを続けている。
「興味深い」
キランは即座に顔をしかめた。
「ダメ」
ギアが顔を上げる。
「何が?」
「専門用語禁止」
「まだ何も言ってないけど」
「今から言おうとしてただろ」
「“興味深い”って言っただけだ」
「そこから始まるんだよ」
キランは横で煙を上げているクレーターを指差した。
「普通の人間にもわかる言葉で説明して」
ギアは大げさにため息をついた。
「わかったよ」
破壊されたアリーナを指す。
「今のはすごかった」
キランは瞬きをした。
「本当に?」
「マジで」
珍しく、ギアの声に皮肉はなかった。
彼は機体の横へしゃがみ込み、空中にいくつもの診断ウィンドウを投影した。
出力。
武器状態。
システム温度。
そして、キランにはまるで意味のわからない大量の警告表示。
ギアがその一つを拡大した。
「後ろから受けた攻撃で、予備の武器制御ラインが一本やられた」
マッハが頷く。
『その結果、一時的な電力遮断が発生しました』
「そう」
ギアは別のデータを拡大する。
「それでマッハが全システムを緊急電源へ迂回させた時、蓄電器に溜まっていたエネルギーが一気に放出された」
キランは周囲を見回した。
「一気にっていうのは……」
ギアが残骸を指差す。
「これ」
キランはマッハを見る。
マッハもキランを見る。
二人とも、誇るべきなのか心配するべきなのか判断できなかった。
レイモンドが腕を組んだ。
「つまり、あれは予定通りじゃなかった?」
ギアは立ち上がった。
「完全にはね」
キランの表情が変わる。
「完全には?」
「理論上の想定範囲内ではあった」
「全然安心できない」
「安心していいんだけど」
「できない」
マッハのアイコンが明滅した。
『キランに同意します』
キランはディスプレイを指差した。
「ありがとう」
ギアは目を転がした。
「二人とも生きてるだろ」
キランは損傷を示すステータス表示へ目を落とした。
「だからこそ聞きたいんだけど」
ギアの表情は変わらない。
「本当の戦闘中に、武器システムを破壊されたらどうなる?」
空気が変わった。
ギアの笑顔が消えた。
レイモンドの表情も真剣になる。
マッハさえ黙っていた。
キランはすぐに気づいた。
その反応のほうが、どんな技術的説明より怖かった。
やがてギアが答えた。
「死ぬ」
冗談ではない。
大げさな言い方でもない。
笑ってもいない。
ただ――
答えただけだった。
キランは彼を見つめた。
ギアは損傷した機体の一部を軽く叩く。
「訓練用ロボットは、安全基準を超えたら攻撃を止める。本物の敵は止まらない」
キランは破壊された機械へ目を向けた。
「撃ち続ける」
「そういうこと」
ギアは姿勢を正した。
「もし最悪のタイミングでマッハが武器、機動力、あるいは電力を失ったら、勇気なんて関係ない。技術があっても意味がない」
その視線が真っすぐキランへ向けられた。
「逃げる手段が必要なんだ」
キランは学校の駐車場で遭遇したアンドロイドを思い出した。
身動きが取れなかった。
逃げられなかった。
自分より遥かに強い何かが、ゆっくりと距離を詰めてくるのを見ているしかなかった。
思い出すだけで腹の奥が締めつけられる。
「……わかった」
キランは頷いた。
「それで、どうする?」
ギアのいつもの笑みが、ゆっくりと戻ってきた。
「よくぞ聞いてくれました」
キランは即座に、聞いたことを後悔した。
◇ ◇ ◇
数分後。
一同はメインの工房へ戻っていた。
マッハは整備用プラットフォームに乗せられ、ギアが前部コントロールパネルの下にある小さな区画を開いている。
キランはその近く。
レイモンドは――
いつの間にか、またコーヒーを手に入れていた。
どうやって。
キランはギアの作業を見守った。
プラズマキャノン。
飛行安定装置。
強化装甲。
緊急電源システム。
そして小国一つくらいなら侵略できそうな量の戦闘ソフトウェア。
それらを見てきたキランは、最後に追加されるものも相当派手だと思っていた。
ミサイルランチャー。
エネルギーシールド発生装置。
もしかすると、マッハを透明にする装置とか。
しかし――
ギアが取り出したのは、
マイクだった。
キランは見つめた。
「……それだけ?」
「それだけ」
近くのモニターにマッハのアイコンが現れた。
『あれだけ大げさに話しておいて?』
ギアが頷く。
「そう」
キランは身を乗り出した。
「ただのマイクじゃん」
ギアがちらりと彼を見る。
「このマイクは、プラズマキャノンより重要かもしれない」
その一言で、キランの表情が変わった。
ギアは慎重に部品を取り付け、ハウジングの下にある細い配線をいくつか接続した。
そしてパネルを閉じる。
「完成」
キランは待った。
ギアが立ち上がる。
腕を組む。
そして笑った。
「このシステムの名前は――クレイドル・プロトコル」
キランは即座に眉をひそめた。
「……何?」
「クレイドル・プロトコル」
「本気でその名前?」
「本気」
「赤ちゃん用品みたいなんだけど」
マッハは少し考えた。
『同感です』
ギアは二人を指差した。
「命を救われたら、その名前をバカにしなくなるよ」
キランは背もたれへ身体を預けた。
「はいはい」
ギアがホログラムによるデモンストレーションを起動する。
作業台の上に、キランの機体を再現した小型の立体映像が現れた。
「プロトコルが起動すると同時に、マッハが予備電力を緊急シールドシステムへ送る」
ホログラムの機体を包み込むように、光る球体が形成された。
キランの疑いが少し薄れた。
「……なるほど」
ギアは続ける。
「シールドは外部からの衝撃、熱ダメージ、それに大部分の指向性エネルギー攻撃からお前を隔離する」
「まだいい感じ」
「その後、ナビゲーションシステムが最寄りの安全な脱出ルートを自動的に割り出して、戦闘区域から離脱させる」
キランは頷いた。
「かなりいい感じ」
ギアがシミュレーションを切り替えた。
砲弾がシールドへ直撃する。
爆発。
しかし炎はシールドの周囲を流れ、内部には一切届かなかった。
「砲撃にも耐えられる」
キランは身を乗り出した。
「ものすごくいい感じ」
次はプラズマ弾が直撃した。
シールドはびくともしない。
「プラズマの直撃にも耐えられる」
「最高にいい感じ」
ギアが画面をスワイプする。
赤い人影が現れた。
キランは目を細める。
「……あれ、ジャリック?」
「そう」
シミュレーションのジャリックがシールドへ激突した。
それでもシールドは耐えた。
「ジャリックにも耐えられる」
全員が一瞬黙った。
キランはゆっくり顔を上げた。
「マジで?」
ギアは頷いた。
「大体は」
キランの安心が一瞬で消えた。
「大体?」
「どれだけ怒ってるかによる」
レイモンドは納得したように頷いた。
「妙に説得力があるな」
マッハのアイコンが点滅する。
『同感です』
キランはホログラムのシールドを見つめた。
「つまり、何かヤバいことが起きたら、これを起動すればマッハが俺を逃がしてくれる?」
「そう」
「自動で?」
「自動で」
「マッハが壊れてたら?」
「クレイドルには独立した予備プロセッサがある」
「スラスターが壊れてたら?」
「緊急推進システム」
「落下中だったら?」
「パラシュート」
「水中だったら?」
「浮力装置」
キランは少し考えた。
「宇宙だったら?」
ギアが彼を見る。
「なんで宇宙にいるんだよ」
キランも考えた。
「……確かに」
◇ ◇ ◇
ギアが小さなデータパッドをキランへ渡した。
「起動フレーズはもう設定してある」
キランは画面を見る。
そして顔をしかめた。
「嫌だ」
ギアはため息をついた。
「今度は何?」
キランは画面をギアへ向けた。
「『クレイドル・プロトコル起動』?」
「そう」
「変えよう」
「嫌だ」
「絶対変える」
「変えない」
キランは心底納得できないという顔をした。
「音声起動式の緊急システムを俺に渡しておいて、赤ちゃん用家具を注文してるみたいなこと叫べっていうの?」
ギアは腕を組んだ。
「ちゃんと作動する」
「そこじゃない」
「そこが一番重要だろ」
キランはマッハを見る。
「助けて」
マッハは黙っている。
キランは目を細めた。
「……楽しんでるだろ」
『観察しているだけです』
「裏切り者」
キランはデータパッドへ目を戻した。
「コクーン・プロトコルは?」
「却下」
「シールド・プロトコル?」
「却下」
「緊急脱出?」
「却下」
「緊急・俺を死なせるな・プロトコル?」
ギアは無言でキランを見つめた。
「却下」
キランの顔が明るくなった。
「パープル・パニック・ボタン」
「却下」
ついにマッハが口を開いた。
『私はそれが好みです』
ギアはマッハを指差した。
「誰も聞いてない」
キランは笑った。
「ほら!」
「クレイドルのまま」
「でも――」
「ダメ」
ギアは腕を組んだ。
「もうコードも書いた。調整もした。認証も済ませた。システムにも統合した。お前が名前を気に入らないって理由だけで、緊急ソフトウェアの半分を書き直す気はない」
キランはうめいた。
「全部嫌いだ」
「了解」
マッハのアイコンが明るくなる。
『ちなみに、たとえ名称を変更したとしても、私は今後もクレイドル・プロトコルと呼び続けます』
キランが振り向く。
「なんで?」
『あなたが嫌がるからです』
キランはマッハをじっと見つめた。
「アップグレードされてから、性格かなり悪くなったな」
『ありがとうございます』
「褒めてない」
『知っています』
◇ ◇ ◇
キランがさらに文句を言おうとした、その時。
アラームが鳴った。
ピッ。
ポッ。
プルルン。
全員が止まった。
キランは周囲を見回す。
「……何?」
マッハのアイコンが即座に現れた。
『あ』
キランは、その声が気に入らなかった。
ものすごく。
「……何?」
マッハは少し間を置いた。
『あなたの個別指導です』
沈黙。
キランはマッハを見つめた。
工房が突然、とても静かになったように感じた。
頭の中に、一つの名前が浮かぶ。
クリストファー。
個別指導。
今日。
約束した。
今。
キランの目が見開かれた。
「やっば!」
勢いよく出口へ機体を旋回させたせいで、整備士の一人が慌てて飛び退いた。
「訓練ありがとう!」
ギアが顔を上げる。
「待て」
キランは加速した。
「まだ終わってないぞ」
「また来るから!」
「前もそう言った!」
「今度は本気!」
レイモンドもすでに後を追っていた。
「忘れてただろ?」
キランは止まらない。
「たぶん」
「絶対忘れてた」
「たぶん」
「絶対忘れてた」
マッハがため息をつく。
『確実に忘れていました』
キランはディスプレイを見る。
「お前は俺を支える側だろ」
『私は誠実さを支持します』
「最低だな」
外へ続く工房の扉へ到着した。
後ろからギアが叫ぶ。
「キラン!」
キランは少しだけ振り返った。
「何?」
「クレイドル・プロトコルを忘れるなよ!」
キランはうめいた。
「その名前嫌いなんだよ!」
「でも使える!」
◇ ◇ ◇
外では、午後遅くの太陽がシトロン・シティの上に低く浮かんでいた。
黄金色の光が工業地区全体へ伸び、倉庫の窓や行き交うホバートラックの金属面を照らしている。
キランは積み込みエリアの端で止まった。
学校までは、それほど遠くない。
道路を使えば。
十五分くらい。
渋滞があれば二十分。
キランは時刻を確認した。
もう遅刻している。
そして――
マッハの飛行システムを見る。
一つの考えが浮かんだ。
ものすごく単純な考えが。
キランはゆっくりと笑った。
レイモンドが即座に気づく。
「ダメだ」
キランは何も知らないような顔をした。
「まだ何も言ってない」
「その顔した」
「どの顔?」
「俺が後悔するようなことをする直前のお前の顔」
「何のことかわからないな」
レイモンドは腕を組んだ。
キランはホバーバンを指した。
「一人で運転して帰れる?」
レイモンドの目が細くなる。
「なんで?」
キランはマッハの操作部を軽く叩いた。
「こっちのほうが速いから」
レイモンドはキランを見つめた。
キランは笑った。
レイモンドは遠くの学校地区を見る。
次に、アップグレードされた機体を見る。
そして再びキランを見る。
「街中をレースするなよ」
「するつもりない」
「ビルの間を飛ぶな」
「するつもりない」
「最高速度を試すな」
キランは少し黙った。
レイモンドが指差す。
「今の間は長すぎる」
キランはため息をついた。
「はいはい」
レイモンドはもう一度キランをじっと見た。
やがて一歩下がる。
「俺から見えるところにいろ」
キランは即座にニヤリとした。
「約束はできない」
「キラン」
「たぶん約束できない」
「もっと悪い」
マッハのアイコンが現れる。
『飛行の安全管理は私が行います』
レイモンドがマッハを見る。
「お前は信用できるか?」
マッハは少し黙った。
キランは眉をひそめる。
「なんで今、間があった?」
マッハはレイモンドへ答えた。
『大体は』
レイモンドは額を押さえた。
「子供しかいないのか、ここには」
キランは笑った。
そしてバイザーを下ろす。
ヘルメットが小さな空気音とともに密閉された。
HUDが起動する。
ナビゲーション情報が表示された。
マッハが学校までの直行ルートを算出する。
**《目的地設定完了》**
**《推定飛行時間:03:42》**
キランは数字を見つめた。
三分。
昨日までは、障害物コースを一周するだけで八十六回も挑戦する必要があった。
そして今――
シトロン・シティそのものが、彼の飛行コースになろうとしていた。
その事実は、想像以上に重く胸へ響いた。
これは訓練じゃない。
リングはない。
安全バリアもない。
強化ガラスの向こうにギアもいない。
あるのは――
シトロン・シティ。
そして自分だけ。
キランは唾を飲み込んだ。
『緊張していますか?』
マッハが尋ねる。
「少し」
『レイモンドに運転してもらいますか?』
キランは遠くの街並みを見た。
そして笑った。
「いや」
マッハのアイコンが明るく輝く。
『了解しました』
後部スラスターが展開する。
ハウジング内部に紫青色の光が集まり始めた。
風が積み込みエリアを吹き抜ける。
レイモンドが一歩下がった。
キランは操作装置を強く握る。
「学校で会おう」
エンジン音が大きくなり、レイモンドが声を張り上げた。
「気をつけろよ!」
ヘルメットの中でキランは笑った。
「わかってる!」
マッハが静かに言った。
『その発言は、過去の統計上あまり信用できません』
「今それ言うな」
スラスターが点火した。
今度は――
カウントダウンはない。
教官もいない。
訓練コースもない。
キランはただ、機体を上昇させた。
十フィート。
二十。
五十。
工房が足元で小さくなっていく。
工業地区が四方へ広がった。
その先には、夕日に照らされたシトロン・シティのスカイライン。
キランは一度、息を吸った。
そして――
前へ身体を傾けた。
スラスターが轟音を上げる。
そして、生まれて初めて――
キランはシトロン・シティの空へ飛び出した。




