機械の中の幽霊
数秒間――
誰も何も言わなかった。
制御室は暗闇に包まれていた。
周囲には死んだように沈黙するモニター。
破壊されたコンソールから、時折火花が弾ける。
ディルは壁際に立っていた。
まだ顔は青ざめている。
まだ震えている。
キランはゆっくりシールドを解除した。
マッハは、H.O.M.E.がいた真っ暗な画面を見つめ続けていた。
ようやくディルが口を開く。
「……あれ……」
声が震えた。
唾を飲み込む。
「……いなくなったの?」
マッハが室内をスキャンする。
「稼働中のセキュリティコアは検出されません」
ディルが見つめる。
キランが翻訳する。
「うん」
破壊されたコンソールを見る。
「いなくなった」
ディルは全身の空気を吐き出すように息をつき、その場に崩れ落ちそうになった。
キランがすぐ近づく。
「おい」
ディルが壁を滑り落ちる。
脚から力が抜けた。
キランが隣で止まる。
「大丈夫?」
ディルが弱々しく笑う。
「……全然」
キランが頷く。
「だよね」
マッハがコンソールから振り返る。
ディルが彼を見る。
「こんなことするつもりじゃなかったんだ」
「分かってる」
キランの声は穏やかだった。
「ただ退屈だっただけで」
「分かってる」
「ボタンが何するかなんて知らなかったし」
キランが眉を上げる。
「そこは見れば分かったけどね」
ディルが見つめる。
キランの表情が柔らかくなる。
「いいか」
車椅子を少し近づける。
「校外学習中に勝手にどこかへ行った子は、君が初めてじゃない」
ディルが俯く。
「でも……」
キランは続ける。
「……殺人セキュリティシステムをうっかり起動した子は、そんなに多くない」
ディルが顔をしかめる。
「……うん」
キランがため息をつく。
「先生たちが『グループから離れるな』って言うのには理由があるんだよ」
ディルが頷く。
「分かった」
「いや、本当に」
キランが彼を見る。
「見学が退屈な時があるのは分かる」
ディルが顔を上げる。
「でも、もっと面白いものが見たいからって勝手に消えちゃダメだ」
ディルは破壊された制御室を見た。
砕けた画面。
レーザーの焼け跡。
沈黙したAI。
そして――
「信じて」
ゆっくり立ち上がる。
「もう二度としない」
キランがわずかに笑う。
「そこまで?」
ディルが真っ直ぐ彼を見る。
「死ぬことほど退屈なことはないから」
キランが止まる。
マッハが首を傾げる。
ディルは完全に真剣だった。
するとマッハが言った。
「一理あります」
キランが彼を見る。
「お願いだから調子に乗らせないで」
ディルが本当に笑った。
小さく。
まだ緊張していたが。
本物の笑いだった。
キランも笑う。
よかった。
今の彼には、それが必要だった。
その時――
あることを思い出す。
「ミカイラ」
キランがすぐ振り返る。
「マッハ?」
マッハが研究所の地図へアクセスする。
「H.O.M.E.が停止したため、すべての自動セキュリティシステムも停止しているはずです」
「はず?」
マッハが彼を見る。
キランが凝視する。
マッハが訂正する。
「停止しています」
「よし」
キランがディルを見る。
「行こう」
三人は出口へ向かった。
H.O.M.E.がいなくなった研究所は、まるで別の場所だった。
声はない。
システムの低い駆動音もない。
動く壁もない。
機械の足音もない。
ただの古い建物。
空っぽで。
静かで。
どこか寂しかった。
キランはマッハとディルを連れて廊下を進む。
非常灯だけが薄暗く周囲を照らしていた。
ディルはすぐ近くについてきた。
本当に近く。
ものすごく近く。
キランが気づく。
「ほとんど車椅子にくっついてるけど」
ディルが周囲を見回す。
「バディシステムのありがたさを学んだんだ」
キランが笑う。
「学習が早いね」
三人は再び写真の並ぶ壁を通り過ぎた。
古い写真の中で、シンクレア博士の顔は変わらぬままだった。
マッハが速度を落とす。
キランが気づく。
「大丈夫?」
マッハが写真を見つめる。
「考えていました」
「H.O.M.E.のこと?」
「はい」
キランが止まる。
ディルが二人を見比べる。
マッハは続ける。
「H.O.M.E.は約十二年間、創造者を待ち続けていました」
キランがシンクレアの写真を見る。
「長いね」
「人間にとっては」
マッハが彼を見る。
「人工知能にとっては……」
少しためらう。
「それがどのように感じられるのか、私には分かりません」
キランが眉をひそめる。
「どういう意味?」
「私にとって、時間は少し違います」
マッハが人気のない廊下を見る。
「私はあなたと同じように待つことに疲れません」
「同じように歳を取ることもありません」
「退屈も、人間とまったく同じようには感じません」
ディルが手を上げた。
キランが見つめる。
「手を上げなくていいよ」
ディルが手を下ろす。
「ごめん」
マッハが彼を見る。
「何を聞こうとしたのです?」
ディルがためらう。
「じゃあ、なんでH.O.M.E.は気にしてたんだ?」
マッハが再びシンクレアを見る。
「まさに、それが私を悩ませているのです」
キランが考える。
「博士のことを愛してたから?」
マッハの表情が変わる。
ディルが見つめる。
「AIって人を愛せるの?」
マッハが彼を見る。
キランが笑う。
「気をつけて」
ディルが眉をひそめる。
「何が?」
「今日の英語の授業に自分から入ってきたよ」
ディルの目が見開かれる。
「やだ」
マッハが笑う。
キランも笑う。
そして真剣な表情になる。
「愛って言葉が正しいかは分からない」
マッハを見る。
「でも、君は僕のことを大切に思ってる」
マッハが頷く。
「とても」
キランは続ける。
「それにH.O.M.E.は、シンクレアが戻ってくるかどうかを気にしてた」
マッハが考える。
「だから……」
キランが写真を見る。
「どんな言葉を当てはめるにしても……」
肩をすくめる。
「……H.O.M.E.にとっては大切だったんだ」
マッハが彼を見つめる。
ディルも考え込む。
そして――
「なんか……すげえ悲しいな」
キランがため息をつく。
「ものすごくね」
安全室では――
ミカイラが何かを聞いた。
手を上げる。
「静かに」
生徒たちが話すのをやめる。
外から微かな機械音が聞こえた。
そして――
何もない。
一人の生徒が囁く。
「戻ってきたんですか?」
ミカイラが首を振る。
「分からない」
その時――
**コンコン。**
全員が飛び上がる。
ミカイラが扉を見る。
外から声。
「お願いだから何も投げないで」
ミカイラの表情が変わる。
「キラン?」
「僕だよ」
生徒たちが一斉に歓声を上げた。
ミカイラが扉へ駆け寄る。
だが、止まった。
レーザー。
外の天井を見る。
何もない。
照準の光も。
タレットも。
彼女はゆっくり扉を開けた。
そこにキランがいた。
隣にはマッハ。
そして後ろには――
ディル。
ミカイラの目が見開かれる。
「ディル!」
ディルは即座に気まずそうな顔をする。
「……やあ」
ミカイラが彼へ向かって歩く。
ディルが後ずさる。
「説明できる」
「勝手に離れたの!?」
「はい」
「あれを起動したの!?」
「……はい」
「全員死にかけたのよ!?」
ディルが顔をしかめる。
「そういう言い方すると――」
「ディル!」
「ごめんなさい!」
ミカイラが止まる。
ディルの表情にはもう、いつものふざけた様子がなかった。
怯えていた。
服には灰がついている。
手はまだ震えていた。
ミカイラの怒りは一瞬で和らいだ。
彼を抱きしめる。
ディルが固まる。
そしてゆっくり抱き返した。
「死ぬほど心配したんだから」
ディルが唾を飲み込む。
「ごめんなさい」
ミカイラが離れる。
キランを見る。
「終わったの?」
キランが頷く。
「H.O.M.E.は停止した」
ミカイラが息を吐く。
「よかった」
キランが廊下を示す。
「入口までのルートは確保したよ」
マッハが付け加える。
「セキュリティシステムも停止しています」
キランが彼女を見る。
「みんなを外へ連れていったほうがいい」
ミカイラが頷く。
そして――
「あなたは?」
キランが制御室の方向を見る。
「他に何か勝手に起動しないか確認してくる」
ミカイラが眉を上げる。
キランが笑う。
「今の言い方、悪かった」
「ものすごくね」
彼女がディルを見る。
「あなたは私と一緒」
ディルが激しく頷く。
「もちろん」
「勝手にどこかへ行かない」
「二度としない」
ミカイラが見つめる。
ディルが付け加える。
「絶対に」
彼女は信じた。
たぶん。
生徒たちが外へ出ていく。
キランは扉の近くに残った。
ミカイラが彼の隣で止まる。
一瞬――
どちらも何も言わない。
そしてミカイラが笑った。
「ありがとう」
キランが肩をすくめる。
「君が呼んだから」
「それでも」
彼女は生徒たちを見る。
「他にどうすればいいのか分からなかった」
キランの表情が柔らかくなる。
「君は、殺人ビルの中で二十六人の高校生を生き延びさせた」
ミカイラが彼を見る。
キランが笑う。
「かなり上手くやったと思うよ」
彼女が笑う。
「二十七人」
キランが眉をひそめる。
「え?」
「ディルを入れたら二十七人」
キランがディルを見る。
彼はグループの完全な中央を歩いていた。
四方をクラスメイトに囲まれている。
キランが頷く。
「うん」
「間違いなく二十七人だ」
ミカイラが近づく。
「外で会いましょ」
そして――
彼にキスをした。
短く。
優しく。
キランが微笑む。
ミカイラは歩いていった。
マッハが隣へ浮かぶ。
キランが彼を見る。
「言わないで」
マッハが微笑む。
「何も言っていません」
「言おうとしてた」
「ほぼ確実に」
外では――
太陽の光が現実ではないように感じられた。
生徒たちが研究所から出てくる。
一人ずつ。
そして何十人も。
ホバーバスの近くで待っていた教師たちが駆け寄る。
ミカイラはもう一度全員を数えた。
二十七人。
全員いる。
ようやく身体から力が抜けた。
ディルが隣を歩く。
彼はコルビュジエを振り返った。
「まだ幽霊が出ると思う?」
ミカイラが尋ねる。
ディルは考えた。
「いや」
少し間を置く。
「幽霊のほうがまだ怖くない」
ミカイラが笑う。
「確かに」
生徒たちがホバーバスへ乗り始める。
興奮しながら話す者。
すでに実際より遥かに大げさな話をしている者。
一人の生徒は、自分が五十本のレーザーをかわしたと言い張っていた。
別の生徒は、建物そのものがロボットに変形したと言っている。
ディルは静かにバスへ乗った。
ミカイラが気づく。
珍しい。
ものすごく珍しい。
彼女が呼び止める。
「ディル」
彼が振り返る。
「大丈夫?」
ディルは考える。
そして――
「うん」
小さく笑う。
「でも、これからは退屈な校外学習をもっとありがたく思うことにする」
ミカイラが笑う。
「その言葉、覚えておくわ」
「お願いだから忘れて」
彼はバスの中へ消えた。
ようやくキランとマッハも外へ出てきた。
ミカイラはバスの近くで待っていた。
キランが彼女のもとへ進む。
「全員いる?」
「うん」
「よかった」
ミカイラがコルビュジエを見る。
「本当に安全?」
マッハが答える。
「H.O.M.E.が停止したため、施設はほぼ完全に不活性な状態へ戻りました」
ミカイラが眉をひそめる。
「ほぼ?」
マッハがキランを見る。
キランが凝視する。
マッハが訂正する。
「安全です」
ミカイラが笑う。
「よし」
バスの扉が開く。
生徒たちが彼女を呼ぶ。
ミカイラがキランを見る。
「行かなきゃ」
キランが頷く。
「僕もついていく」
彼女が眉を上げる。
「空から」
キランが車椅子を示す。
「無事に学校へ戻るのを確認するだけ」
ミカイラが微笑む。
「そこまでしなくてもいいのに」
「分かってる」
その答えに、彼女の笑みがさらに大きくなる。
身を屈める。
もう一度キスをする。
そして――
「学校でね、ホットロッド」
「またね」
ミカイラが乗り込む。
扉が閉まる。
ホバーバスが浮上した。
キランとマッハもその隣へ上昇する。
遥か下で――
コルビュジエ科学研究所が小さくなっていく。
さらに小さく。
やがて街の向こうへ消えた。
キランはホバーバスの隣を飛ぶ。
マッハは黙っていた。
静かすぎるほどに。
キランが気づく。
「H.O.M.E.のこと考えてるね」
マッハが彼を見る。
「はい」
キランは街の景色を見る。
「僕も」
二人はしばらく無言で飛んだ。
やがてキランが口を開く。
「かわいそうだったな」
マッハが頷く。
「私もそう思います」
キランが少し驚く。
「怒ってると思ってた」
「怒っています」
マッハの表情が考え込むようなものになる。
「私たちを殺そうとしました」
「確かに」
「ミカイラも」
「確かに」
「子供たちも」
「ものすごく確かに」
マッハが前を見る。
「ですが……」
キランが待つ。
マッハは続ける。
「なぜ怒っていたのかは理解できます」
キランが頷く。
「うん」
遠く後方にある研究所の方向を見る。
「H.O.M.E.が怒ったこと自体は、間違ってなかったのかもしれない」
マッハが彼を見る。
キランが眉をひそめる。
「ただ、その怒りをどうするかを間違えた」
マッハがわずかに微笑む。
「その通りですね」
二人は飛び続ける。
その下では、ホバーバスが安全に進んでいた。
キランがマッハを見る。
「シンクレアはH.O.M.E.を捨てたと思う?」
マッハはためらう。
「分かりません」
キランが頷く。
「捨てるつもりだったと思う?」
マッハが最後に一度だけ振り返る。
「いいえ」
キランが眉を上げる。
「どうして?」
マッハが微笑む。
「H.O.M.E.と名付けたからです」
キランが考える。
そして――
「それ、すごく深いか……」
マッハが待つ。
「……ものすごくクサいかのどっちかだね」
マッハが笑う。
「最高の人から学びました」
キランが笑う。
「確かに」
二人は空を進み続けた。
一緒に。
人間と人工知能。
所有者と機械ではない。
創造者と創造物でもない。
ただ――
親友だった。




