第一話 (1)
広い部屋に巨大な机が一つ、そしてそれを囲むように並ぶパイプ椅子。入り口から最も近い二席に、ホカゼとムウンは座っていた。壁にかかった時計の秒針の音がやけに響いている。時刻は十二時十分前、二人が到着してからすでに十五分ほど経過していた。
「……늦어」
「落ち着きなよ、ムウナ。まだ約束の時間にはなっていないでしょう」
「先生たちのことじゃなくて、オンニとチェソンのことよ! 早めに来いって言われてたじゃない。まったく、先に寮を出て正解だったわ……待ってたら遅刻するところだった」
ため息をつくムウン。反対にホカゼは大きく息を吸い込む。これから行われるのはデビューに向けての打ち合わせだ、という漠然とした説明しか昨日は聞いていなかったが、自分たちの今後を大きく左右するイベントであるということは二人とも十分に理解していた。契約、デビュー日、コンセプト、デビュー曲、グループ名。デビューが決まったとて、そのどれか一つでも間違えてしまえば水の泡。芸能界という大海原に少しの波風も立てることができず、消えていくのだ。大勢のファン、音楽番組優勝、ワールドツアー。広がる夢を語り合った昨日から一夜明け、二人はこれからも続く現実のプレッシャーと向き合いつつあった。
それに加えて、打ち合わせギリギリになっても姿を見せないチームメイト。これから訪れる試練への足並みが四人の中で揃っていないようで、二人の間に不安が広がっていた。分針が動くたびに入り口を見る。あと五分、というタイミングで勢いよく扉が開いた。
「セーフ! セーフ? 난 세이프예요 언니들이!?」
「セーフだよ。ほら、座ってチェソニ」
「慌てるくらいならもっと早く来なさいよ! ていうかあんた、オンニは?」
「イェリンオンニ、昨日は実家に帰ったじゃないですか。だから危なかったんですよ、いつも起こしてくれるオンニがいなかったから!」
堂々と一人で起きられない宣言をするチェソンに頭を抱えるホカゼとムウン。走ってきたのかチェソンはしばらく肩で息をしていたが、周りを見渡してイェリンの不在に気付く。
「え、イェリンオンニまだ来てないんですか?」
「今更か……そうよ、私たちはてっきりあんたと一緒に来るものだと思っていたけど」
「親に送ってもらう途中で渋滞にハマったとかですかね?」
「でも、それなら連絡があっても良いはずよ。さっき四人のグループに連絡を入れたんだけど、まだ反応がないの」
ホカゼの話を聞いてスマートフォンを取り出すチェソン。
「ごめんなさい! 連絡来てたの、私も今気付きました」
ムウンが立ち上がると、チェソンの頭を叩く。チェソンはよろよろとホカゼの横に座り込んだ。再び椅子に腰掛けながら、ため息をつくムウン。
「時間的に、オンニが打ち合わせに間に合うのは無理そうね。事務所には連絡が行っていると良いんだけど……」
それから、流れるようにチェソンの説教を始めたムウン。チェソンがそれに対して言い訳をし、ホカゼが間に入る。そんなことをしているうちに正午を回り、さらに十分が過ぎた。痺れを切らしたホカゼが立ち上がる。
「オンニだけじゃなくて先生たちも来ないね……私、ちょっと様子を見てくるよ」
扉を開けると、昨日彼女たちにデビュー決定を伝えた先生が目の前に立っていた。
「先生!」
「ごめんなさい、遅くなったわね。ちょっとトラブル対応でね」
喋り方は柔らかいが、どことなく表情が固い先生。そのあとに続いて、先生よりすこし若い女性が無言で部屋に入ってきた。黒縁の眼鏡に同色のパンツスーツ。堅い印象を与える女性だった。最後にグレーの背広を着た白髪交じりの男性が現れると、ドアノブに手をかけたまま三人を見下ろした。
「揃っているな」
「まだイェリンオンニが……」
訂正しようとしたホカゼを遮るように、ぴしゃりと扉が閉められる。
「キム・イェリンは来ないだろう。それに伴い本日の打ち合わせ内容は、君たちのデビューについてではなく彼女の件へと変更になった」
ぶしつけに話を進める男に対して抗議しようとするムウン、それを見た先生が急いで口を挟んだ。
「みんな、会うのは初めてだったかしらね。こちらの女性は、これからあなたたちが公開練習生として活動するにあたりマネージャー業を担当してくださる方です。まだ若いけれどとても優秀なの。歳が近いからといって必要以上に馴れ馴れしくしないように。それから、こちらが我々の部長。契約やデビューといった、新規ブランド立ち上げに関する責任者です」
無言のまま礼をするマネージャーと、微動だにしない部長。淡々と話し終えた先生だったが、ムウンを見つめる目は最後まで笑っていなかった。仰々しい説明の意図を感じ取ったムウンは大人しく口をつぐむ。しかしチェソンが部長に向けて言葉を発する。
「あの……イェリンオンニ、どうしたんですか?」
「不明だ」
冷たい目線をチェソンに向けて即答する。理解が追いつかない三人。部長はそのまま言葉を続けた。
「キム・イェリンは昨夜、実家から失踪した。現在もその行方は不明だ」
不安そうな表情を浮かべていた三人の顔から、一気に血の気が引いた。
それから部長は、三人に現状把握できていることを説明した。昨日母親とともに実家へ帰ったイェリンだったが、今朝すでに家から姿を消していたという。最後に目撃されたのは日付が変わる直前、母親の就寝前のこと。スマートフォンの位置情報も昨夜の実家で途絶えている。不在に気づいた母はすぐ事務所へ連絡したが、昨日の朝以降、イェリンは寮もこの事務所も訪れていないことが分かっている。
突然のことに戸惑うホカゼとチェソン。事故や誘拐。ネガティブなワードが二人の頭に浮かぶ。なぜ、誰が、どうして今……。しかし、ムウンだけは部長の言葉に違和感を感じていた。
「ちょっと待ってください。失踪……って、まるでオンニが自分で出ていったかのような言い方じゃないですか」
「その通りだ。誘拐なら送られてくるであろう犯人からの要求が無い。事故であるならばすでに警察から報告されているはず。現時点でこれらが無いことから、我々はキム・イェリンの自発的な失踪の線が有力であると考え捜索を行っている」
「ありえない! やっとデビューできるっていうのに……オンニが一番デビューを待ち望んでいたんです!」
「君たちがどう考えるかは自由だ。むしろ我々とは違う視点でやってもらった方が効果的だろう」
「それは、どういう……」
ホカゼが聞くと、部長は頷いた。
「本題に入ろう。我々は先ほど、君たちにもキム・イェリンの捜索を行ってもらうことを決定した。デビュー候補をいきなり警察沙汰にしたくないため関係者のみで捜索を行うつもりでいるが、その中でも長期間寮での生活をともにした君たちが、彼女の消息を検討するうえで最も適任だと判断したのだ。現在、我々は最悪のシナリオである国外逃亡を防ぐため、仁川、金浦空港での張り込み、また昨夜以降の出発便の調査を実施している。とはいえ人手は限られている。君たちにも対応してもらう必要がある」
「国外逃亡なんて、そんなまさか」
信じられない、というふうにぎこちない笑みを浮かべるムウン。部長はいっさい表情を変化させないまま、それどころかムウンを見ることすらせず言葉を返した。
「君たちが、彼女の国外逃亡がありえないと考えるならば国内捜索に専念してくれればいい。その方が我々と同じ範囲で捜索するより効率的だ」
急な展開に、現実味を感じることのできない三人。どこかまだ彼の話を信じきれていない彼女たちに、部長は鋭く釘を差した。
「言うまでもないが、彼女を見つけない限り君たちにデビューの未来はない。ダンサー、ラッパー、そしてダンサーがもう一人。ボーカル担当がいない状態でデビューできないのは自明だろう。そして、キム・イェリンレベルのボーカル候補が今うちの練習生にいないことは、君たちが一番理解しているだろう」
最後の言葉を聞いて、隣に座る先生の顔に影がさす。日頃から嫌味を言われていることが容易に見て取れた。
「昨日連絡があった通り、君たちは練習生たちの中からデビュー候補として選ばれた。だが、キム・イェリンがいない状態で私が君たちのデビューを認めることはない。早急に彼女を見つけ、連れ戻すように。以上だ」
部長はそう伝えると、革靴の音を響かせて部屋を後にした。




