最終話 (1)
清水港。比較的平坦な建物が並ぶ埋立地、秋晴れの今日は遠くの山の紅葉も水平線も途切れることなく綺麗に続いていた。穏やかな水面に太陽の光がきらめく。そんな平和な港で、どの建物よりも大きなクルーズ船がひときわ存在感を放っていた。
遅めの朝食を済ませた乗客たちが船を降り、旗を持ったガイドに連れられ隣の建物へ入っていく。誰も荷物は手にしていない。ポケットやボディーバッグに貴重品だけを詰め、乗船時に渡されたカードを提げて流れるように入国ゲートを通っていく。悩みごとはどこかに置いてきたのか、皆が同じ微笑を浮かべて建物を後にする。
最後の一人だけが、違った。中型のボストンバッグを肩に下げた、不安そうな表情を浮かべる茶髪の若い女性。入国ゲートを通るとすぐに列を外れて建物内のベンチに腰掛けた。カバーも何もついていないスマートフォンを取り出し、文字を打ち込む。
メッセージを送っても返事は来ない。事前に聞いた予定が正しければ、連絡した相手は今まさに日本へ向かう飛行機に乗っているはずだった。だが、自分からの連絡を見れる状態ではないと分かっていても、すぐにスマートフォンを手放すことはできなかった。数分経ってようやく電源を切ると、バッグから写真の切れ端を取り出す。 そこには『보람』という張り紙をされた小さなベッドと、その横で微笑む、これから会う予定の男が写っていた。この写真が撮られたのは二十三年前だが、先日メッセージで今の顔写真を送ってもらったところ、皺は増えていたものの同じ人物であることに間違いはなかった。
二十三年間会ったことがない、物心がついてからの彼女の人生には存在していなかった男。それでも、彼女はずっと夢見ていた……いつか、自分の父親に会えることを。
男がこの場所に来るまでにはまだ数時間あるというのに、既に彼女の緊張はピークに達していた。心臓の鼓動に合わせて視界が揺れる。目を強く閉じて、大きく深呼吸する。
父親に会って、彼女は生まれ変わろうとしていた……否、むしろ生まれたときの自分を取り戻そうとしていた。これまで過ごしてきたのは偽りの人生だったと自分に言い聞かせる。まぶたの奥の暗闇の中、一つ一つの思い出に別れを告げる。母親との思い出、学校の友人との思い出……そして。
脳裏に真っ白な部屋が写る。そこで踊る自分自身と、三人の少女。スローモーションに見える四人の動きは完全に調和している。全員が真剣な表情をしていて、それでいて全員が幸せそうだった。曇りのない眼で、真っ直ぐ前を見つめていた。
黒い髪を束ねた少女が軽やかに跳ねる。その姿が徐々に見えなくなっていく。
「さよなら、ホカゼ……」
赤い髪の少女、その声が頭の中に響く。だが音は少しずつ遠くなっていく。
「さよなら、ムウン……」
最後に残った、自分自身ともう一人の金髪の少女。いつの間にか二人がいるのは真っ白な部屋ではなくなっていた。そこは二人が寝食を共にした部屋。低い机を挟んだ向こう側、床に座った少女が笑顔で自分に話しかけている。
『예링 언니는……』
『예링 언니도……』
脳内でこだまする、自分を呼ぶ声。しかしそれはもう彼女の名前ではない。そう、彼女自身が決めたのだ。
少女の顔がぼやけていく。だんだん、少女の呼ぶ名前が分からなくなっていく。
「さよなら、チェソン……」
そのとき、どこかから声が聞こえた。
「보람 언니!」
突然のことに呼吸が止まる。この場所で聞こえるはずがない声。その声で聞くはずがない名前。だが、それは頭の中からではなく、この現実で確かに聞こえたのだった。
目を開いて前を見る。自然光が差し込む建物の入口。今彼女が脳裏に思い浮かべていた最後の少女が、確かにそこに立っていた。




