第五話 (4)
二人の準備が終わったのを確認すると、ムウンは扉の鍵を開けた。ドアノブをひねって廊下側へとゆっくり押す。少し隙間ができたその瞬間、部長の手が扉を掴む。ムウンは手を引っ込めると、部屋の奥へと戻っていった。
「……遅すぎる。扉を開けるまで何をしていた」
部長と見張りが、玄関へと入ってくる。誰も部長の言葉には答えない。
「こんな時間に三人で何をしていた」
「昨日マネージャーからオンニを連れ戻すと連絡があって、眠れなくて三人で集まっていただけです。部長こそ、こんな時間に何の用ですか」
ムウンに目を向ける部長。玄関から動く気配はない。
「キム・イェリンのパスポートを受け取りに来た。持っているはずだろう」
「なぜ? オンニは国内にいるんでしょう? ならパスポートは要らないはず。まさか海外にいるとでも言うんですか?」
「言う必要はない」
「受け取りに来たということは、部長たちもこれからオンニのもとへ向かうんですか?」
「……キム・イェリンの居場所を聞き出そうとしているのか? 教えるわけがないだろう。それに、今さら知ったところでもう遅い。パスポートは今どこにある」
「オンニの居場所を言わないならパスポートの場所も教えません」
真顔でセリフを口にするムウン。部長はムウンの口を割らせることを諦めたのか、見張りに指示を出した。
「探せ」
「承知しました」
見張りが部屋の中へと入ってくる。部長は未だに玄関の扉の前。ムウンは注意深く二人の位置を見つめていたが、気付かれないようにホカゼに手で合図を出した。それを見てホカゼがスマートフォンを取り出す。
ボラムの机の引き出しを開ける見張り。薬箱を開けて中身を確認する。しかしパスポートは見つからない。しばらくすると部長も、部屋の中をゆっくりと歩き始めた。
そして、チェソンと玄関を結ぶ直線上から部長が消えたその瞬間……ムウンが叫んだ。
「왕채선、가!」
玄関へと走り出すチェソン。だがチェソンが玄関にたどり着く前にその腕を見張りが掴む。抵抗するも羽交い締めにされ身動きが取れないチェソン。するとその瞬間、ムウンが催涙スプレーを見張りの顔に噴射した。咄嗟にチェソンの身体を離して目を覆う見張り。その瞬間、チェソンの上着の中に隠れていたポーチが露わになり、部長の目に止まった。目を見開く部長。チェソンはそのまま、扉を開けてエレベーターへと走っていく。玄関の扉はチェソンだけを通して閉まり、その前に催涙スプレーを手にしたムウンが立ちふさがった。
「チェソンの邪魔はさせないわよ」
「そんなもので大の男を二人も止められると思っているのか!」
目を真っ赤に充血させた見張りがムウンに手を伸ばしたその瞬間、ホカゼの金切り声が響いた。
「112ですか!? 部屋の中に男が二人が押し入ってきて襲われています!」
「お前……そんな出任せでどうにかなると思っているのか!」
ホカゼへと大股で向かう見張り。だが、ムウンがそれを制止した。
「ホカゼはずっと動画を回していた! 当然、あんたがチェソンに抱きついているところもね」
怒りで肩を震わせる見張り。
「部長、この場は私だけで対応します……早く逃げた一人を捕まえに行ってください!」
だが、部長は動かなかった。ムウンを見つめるその目は驚きに満ちている。
「まさか……ワン・チェソンはパスポートを持ってキム・イェリンのもとへ向かったというのか? 誰から居場所を聞いた? どうやって特定した?」
「誰からも聞いてないし、あんたらみたいにコメントから特定もしていない! 全部ホカゼが当てたのよ」
「信じられん、あれだけの情報でどうやって……」
振り向いて、今度はホカゼを見つめて黙り込む部長。ムウンがその背中に言葉を投げる。
「交渉してあげてもいいわよ。数時間後に出発する静岡空港行きの飛行機、それにワン・チェソンは妨害されることなく乗ることができる。そして他の関係者は誰一人、同じ飛行機に乗ることはない。それを約束してくれるならこの前みたいに、今の通報は『アイドル練習生の発狂』として対応させてあげる」
「お前、いい加減に……」
見張りがムウンに向かって歩き出す。しかし、それを部長が引き止めた。声を荒げる見張り。
「部長! こんな子供だましの言いなりになる必要はありません!」
「脅しに屈するのではない。だが……」
うつむく部長。その顔は影になっており、ホカゼからもムウンからも表情を読み取ることはできなかった。
「これから、使えるかもしれないからな……」
部長の言っていることが理解できないのか、力任せに壁を蹴る見張り。ムウンは玄関の扉に寄りかかると、ゆっくりと催涙スプレーを持つ手を下ろした。
外から聞こえてくるサイレン。ホカゼが窓を開けると、まだ暗い外から赤と青の光が部屋の中に飛び込んできた。チェソンの姿は、もうどこにも見えなかった。
寮を出てタクシーに飛び乗ったチェソン。仁川国際空港にたどり着くと、そのまま出国場へと向かった。歩きながらスマートフォンで航空券のQRコードを表示していると、後ろから肩を掴まれた。チェソンの息が止まる。
「ワン・チェソン、なぜここにいる?」
男の低い声。返事をすることなく走り出そうとしたが、すぐに腕を掴まれる。顔を見たが、その男はチェソンが会ったことがない人間だった。男のもう片方の手には、紙の航空チケットが握られている。
「離してください!」
「どうやって寮を抜け出したか知らんが、これ以上勝手はさせんぞ!」
腕を掴む男の握力が強くなる。チェソンは周りの人に助けを求めようとして口を開いたが、すぐに閉じた。ここでトラブルを起こしてしまっては、チェソンが静岡へ向かうことも難しくなる。なんとか周りに迷惑をかけずに、この場から逃げなければならない……が、単純な力の差だけでもチェソンに勝ち目はなかった。
チェソンが今度こそ助けを呼ぼうとしたその瞬間、別の男が現れて二人の間に割って入る。急いで数歩離れるチェソン。
「急にどうした!?」
「ワン・チェソンを通せ、そして俺達はこのまま飛行機に乗らず戻れ……部長からの命令だ」
「ど、どうして……」
現れた男も理由を知らないらしく、力無く首を横に振る。チェソンはその様子を見て数回まばたきをしたが、すぐに背中を向けて出国場へと走っていった。
早朝にもかかわらず、仁川国際空港の荷物検査は長蛇の列ができている。その最後尾に並び、また他の人が自分を捕まえに来るのではないかと何度も後ろを確認するチェソン。だが結局、追手が現れることはもうなかった。
無事に搭乗口までたどり着いたチェソン。まもなく搭乗開始というタイミングで、スマートフォンにムウンから電話がかかってきた。
「ムウンオンニ!」
『チェソンごめん、警察の対応をしていて連絡が遅くなった! 私たちは今から行っても間に合わないと思うけど、もうあんたが静岡に行くのを邪魔するやつはいないはず……大丈夫よね? 今どこにいる?』
「空港に着いてすぐ捕まりかけましたけど大丈夫です! 今は搭乗口にいます、飛行機ももうすぐです。そういえばさっきの人、部長がどうとか言ってましたけどいったい……」
『分からない。警察が帰ったあと、部長は何も言わずに出ていったから……。キム・ヨンヘとは関係なく、完全に部長の独断で私たちを見逃してくれたみたい』
電話の向こうで物音がしたかと思うと、今度はホカゼの声が聞こえてくる。
『チェソニ、大丈夫? 今画像を送ったから、日本に着いたらタクシーの運転手にそれを見せて! それから、この電話を切ったらスマホの通信機能を完全に切って。私たちも追跡されている可能性がある』
「わ、分かりました!」
『잘 부탁해、채선이!』
電話が切れる。急いでホカゼから送られてきた画像をダウンロードし、言われたとおりスマートフォンの通信をオフにするチェソン。画像を確認すると、そこには日本語の文章が書かれていた。
『急いで清水港へ向かってください。そこで一度降りますが、もう一人連れてすぐに戻るので待っていてください。そのあと向かう場所は、清水港でまた伝えます』
吹き出すチェソン。
「もう、ホカゼオンニ! 私だって日本語でこれくらい言えますよ! ……でも、ありがとうございます。ボラムオンニのこと、任せてください!」




