第四話 (4)
ムウンが診察室の椅子に座ると、対面する白髪の男が微笑んだ。しかし目は笑っておらず、まっすぐにムウンを見つめている。受付で急なトラブルが起きたことは医師にも伝わっていたようだった。扉が閉まり、診察室に男と二人きりになる。
「ヨ・ムウン様ですね。今日はどうされましたか」
「生理痛の相談に来たの」
「そうですか。では初めにいくつか……」
医師がムウンに質問しようとしたとき、ムウンが手振りで遮った。
「そういうのはいいのよ。私が急に割り込んだから、時間がないのでしょう? 私も次の予定があるから」
「しかし、問診しないことには何も……」
「イェリンさんに処方しているお薬、あれをいただければいいのよ。少し前に来られているでしょう?」
医師が意味ありげに笑う。その顔は、やはりそういう類の患者か、と納得したような表情をしていた。医師は手元のキーボードを操作すると、PCの画面を見て頷く。
「ええ、四日前にいらっしゃっていますね。その際に二週間分処方しております」
ムウンの心の中がざわつく。四日前は、イェリンが姿を消したと発覚した日だった。ようやく捕まえた失踪後のイェリンの足取り。またその日は、今ムウンの鞄の中に入っている処方薬をムウンたちが見つけた日でもある。薬を寮に取りに帰らず、再び病院を訪れる……イェリンの目的が薬だけでなかったことは確実だった。
「しかし、イェリン様に処方しているお薬をそのままムウン様にも処方するわけには……」
「あら、ヨンヘさんからは先生であればどうにかしていただけるとお聞きしたのだけれど」
「ヨンヘ様もお人が悪い……」
頭をかく医師。声のトーンを落として話を続けた。
「分かっているとは思いますが、このことは他言無用ですよ」
「もちろんよ」
「お支払いの方も別途、という形にはなりますが……」
「分かっているわ。進めてちょうだい」
医師がPCに、実際には行われていない問診結果を打ち込み始めた。あまりにもスムーズに不正が行われる様子に、サングラスに隠れて呆れた表情をするムウン。ヨンヘという女に対する嫌悪感がますます強くなっていく。しかしすぐに気を取り直して、医師に問いかけた。
「そういえばイェリンさん、四日前に来たときどんな様子だったかしら?」
「特に変わった様子はございませんでしたよ」
画面から目を離すことなく医師が答える。
「それなら良いのだけれど。生理のこと以外で何か相談事などは無かったの?」
「いえ、いたって健康そうでしたよ」
「身体に関すること以外も特に?」
医師が手を止めると、ムウンを見て目をひそめる。ムウンは、急ぎ過ぎたかと口をつぐんだが、もう遅かった。
「イェリン様の来院時のことをずいぶん気にされていますね。ご本人とは連絡が取れていないのですか? 受付ではイェリン様のご紹介とおっしゃっていたようですが、失礼ながらどういったご関係で?」
「受付でも同じことを聞かれたばかりよ。同じ芸能事務所に所属しているの、電話で確認していただいても結構よ」
「同じ芸能事務所ですか……仮に本当だったとしても、イェリン様から当院を紹介されるような間柄かは判断できませんね。電話なら、ヨンヘ様に確認させていただきましょう。こちらから患者様にご連絡することなどほとんどありえませんが、名前を悪用されている可能性がある、となると話は別ですので」
机の上に置かれた固定電話、その受話器を手に取る医師。ヨンヘに連絡が行くと紹介を受けていないことが医師にバレるだけでなく、ヨンヘ側に自分たちの行動もバレてしまう。ムウンは鞄からスマートフォンを取り出すと、素早く医師に牽制をかけた。
「待ちなさい!」
「なぜ? ヨンヘ様に電話をかけられて困ることがあるのですか?」
「正直に言うと、そのとおりよ。でも、そっちがその気ならこっちにも手があるわ」
ムウンのスマートフォンの画面には録音アプリが表示されていた。ムウンが再生ボタンを押すと、先ほどの二人の会話が流れる。
『イェリンさんに処方しているお薬、あれをいただければいいのよ』
『ヨンヘさんからは先生であればどうにかしていただけるとお聞きしたのだけれど』
『ヨンヘ様もお人が悪い……』
『分かっているとは思いますが、このことは他言無用ですよ』
『もちろんよ』
『お支払いの方も別途、という形にはなりますが……』
医師は録音を聞くと、口をパクパクさせながら受話器を下ろした。
「あんたの勘、大当たり。私は別にキム・ヨンヘからもイェリンオンニからも病院の紹介なんて受けていないわ。それがどういう意味か分かる? この病院がキム・ヨンヘのような客から金をもらって何をしているのか。それが公になろうと知ったことではない、ってことよ」
ムウンは立ち上がると、サングラスを机の上に投げ出した。切れ長の両目で医師を強く睨みつける。
「私がここに来たのは生理痛の相談なんかじゃない。この録音を公開されたくなければ、四日前イェリンオンニが来たときのことを全部話しなさい!」
浅い呼吸をしながら何度も頷く医師。ムウンが勢いよく座ると、それを合図に医師はオドオドと喋り始めた。
「朝、一人目の診察だった。そのときもあんたのようにキム・ヨンヘの名前を出して急に割り込んできたんだ。処方したばかりの薬をなくしたと言って……」
「どうせそのときも、ろくに診察せずに再処方したんでしょうね。それから?」
「それだけだ。さっきも言ったとおり特に変わった様子は……」
ムウンが机を強く叩く。
「バカにしてるわけ? こっちだって何の手がかりもなしに乗り込んできたわけじゃないのよ!」
写真の切れ端を見せつけるムウン。それを見ると医師は観念したのか、消え入りそうな声でムウンに言った。
「これから言うことは、キム・ヨンヘにだけは言わないでくれ……」
「あの女に? キム・ヨンヘが知らない情報だということ?」
「いや、キム・ヨンヘは真実を知っている。むしろそのことを他言しないよう、我々は口止めされていた。だが四日前、私はそれをキム・イェリンに言ってしまった……。あんた別にキム・ヨンヘの仲間ではないんだろう? なら、すべて話すから彼女には言わないでくれ……」
それを聞くと、ムウンは鼻を鳴らして背もたれに寄りかかった。
「こっちだって、あの女に密告するなんて願い下げよ。良いわ、キム・ヨンヘには話さないと約束する」
それを聞いて安堵のため息をついた医師は、写真の切れ端を手に取った。
「キム・イェリンはあの日、写真を持ってきていた。この切れ端と繋がる写真だ」
「切り抜かれた赤子の頃のオンニの写真と、もう一つ、右側の切れ端ね」
「そうだ。彼女の出産を担当したのは、当時産科にいた私だったからな……」
「それでオンニはあんたに聞きに来たってわけ」
医師が頷く。
「キム・イェリンが持ってきた切れ端には、彼女の父親が写っていた」
「オンニが生まれてすぐ離婚した父親……。オンニはその人物が本当に父親なのか確認しに来たの?」
「いや、それが本当の父であることは彼女も分かっていた。今の彼女と面影がそっくりだったからな」
「じゃあ、オンニは何を?」
ムウンの持ってきた写真の切れ端、新生児ベッドに貼られたラベルの『육』という文字を医師が指さす。
「これが父親側の名字であることは分かっているだろう。反対側の切れ端に写っていたのは彼女の父親と、それから……彼女の名前だ」
「예링と書かれていたことくらい、分かっているわよ」
「違う。それはここから退院し、そして離婚したあとにキム・ヨンヘがつけた名前だ。この病院にいたとき、キム・イェリンには違う名前がつけられていた。四日前、彼女はそれが事実なのか私に確認しに来たんだ」
医師の言葉を聞いて血の気が引いたムウン。昨日、自らがホカゼにかけた言葉を思い出す。
『そういえばホカゼさっき、ユクが離婚する前の父親側の名字か、って言ってたでしょ?』
『韓国では普通、離婚したからと言って子どもの名字は変わらないの』
『オンニの名字が変わっていたという事実。キム・イェリンという名前には、あの母親の相当な執念が詰まっているようね……』
フラッシュバックが終わった瞬間、目の前にいる男の言葉が頭の中に響いた。
「육보람。彼女の父親がつけた名前だ」




