カルテNo,3 アオイ
※この記録には、わずかな異常が含まれる場合があります。
すべては正常に管理されています。
「ここがアオイの病室だよ」
院長の声はいつも通り穏やかだった。
ゆらは小さく頷き、扉の前に立つ。
ガラス越しに見える部屋は静かだった。
白いベッド。
整えられた机。
窓のない、閉じた空間。
別世界にもありそうな"普通"の病室。
「安全管理のために監視カメラが入っているからね」
院長がそう告げる。
だが、一拍置いて、声の温度がわずかに変わった。
「ただし、そのことは患者には伝えないこと。いいね?」
ゆらは一瞬だけ、彼を見る。
院長はいつもの穏やかな笑みだった。
けれど、その奥に説明できない圧があった。
「……わかりました」
ゆらは小さく頷いた。
「失礼します」
扉を開けるとそこには少女が椅子に座っていた。
「アオイちゃん、今日から担当の看護師さんだよ」
院長の声が部屋に落ちる。
少女はゆっくり顔を上げた。
「……こんにちは!!!」
ぱっと、花が咲くような笑顔だった。
それは作った笑顔にも見えない。
本当に嬉しそうな顔。
一見すれば、ごく普通の少女だった。
「私は天羽ゆらです。ここで看護を担当しています」
「ゆらさん……!!」
嬉しそうに名前を繰り返す。
その距離は少し近い。
ゆらの周りをメリーゴーランドのようにくるくる回っている。
けれど、患者としては正常な範囲だった。
ゆらは事前に開いていたカルテに目を落とす。
・アオイ
・十代半ば
・患者コード AO-01
・情緒不安定の傾向あり
・会話は成立
・観測強度依存症状あり
…最後の一文を除けば、かなり落ち着いている。
「なぜ、この子が入院することになったんだろう……」
小さく、心の中で呟く。
「ここでの生活には慣れていますか?」
「う……うん!! 大丈夫」
少し曖昧な返事。
その言葉とは裏腹に、
アオイの指先はぎゅっと服の裾を握っていた。
そのとき、ゆらの頭に違和感がよぎった。
――カルテの記録と、目の前の少女が少しだけ"噛み合わない"。
この違和感が何なのか考えているとき、あることが頭に浮かんだ。
(そうだ…監視カメラ……)
面談を終えたあと。
アオイの笑顔が頭から離れなかった。
アオイとアオイのカルテの記録。
握りしめられた服の裾。
そして、どこか無理をしているようなあの笑顔。
考える隙間もなく、ゆらは監視室へ走り出した――
モニターが並ぶ、静かな監視室。
そのひとつに、アオイの部屋が映っている。
そこにいたのは――
「ひとりのアオイ」だった。
誰もいない部屋。
少女…いやアオイは膝を抱えている。
笑っていない。つい数分前まで見ていた笑顔が、嘘のように。
ただ静かに耐えている。 何かに押しつぶされるのを待っているような顔。
――なのに。
廊下の足音が近づいた瞬間。
その表情は変わった。
ぱっと顔を上げて、笑う。
「……っ!」
そして足音が遠ざかると。
笑顔は、すっと消えた。
ゆらは息を止める。
「……そういうこと、ですか」
背後に立っていた院長は何も答えなかった。
ただ静かに。
いつもの表情でモニターを見つめている。
まるで――
最初から、その孤独を知っていたように。
モニターの中で、アオイはひとり膝を抱えていた。
誰にも見えない場所で。
誰にも聞こえない場所で。
夢幻病棟は今日も静かだった。
――少なくとも、そう見えた。
――補助記録:閲覧ログは正常に保存されています。




