メガネのない世界
俺の部屋とやらは、俺が今まで暮らしていたワンルームのざっと四倍以上の広さがあった。
すげー広いな。
余裕で走って回れそうだ。いや、走らないけどな?
フラウレイドさんが「こちらでよろしいですか?」と机の上に俺の段ボール箱を置いてくれる。
ようやく両手の空いたフラウレイドさんが、執事服の内ポケットからリーフェリオン様へ書類を差し出す。
「こちらの内容は全てトーチカ様にご理解いただいております」
書類を受け取ったリーフェリオン様が紙面を睨みつけながら、ぐうんと腕を伸ばして書類から距離を取る。
そっ、それは老眼仕草……。
とはいえ彼はどう見てもまだ20代中頃だ。
となると、これはおそらく……。
「フラウ、読み上げてくれ」
リーフェリオン様は書類を読むのを諦めたのか、どこか苦しげに眉間をつまんで被りを振った。
ああ、眼精疲労がキてるんだな。
書類を手にしたフラウレイドさんが「かしこまりました」と答えてスラスラとさっき俺に説明してくれた内容を繰り返す。
それを聞き終えて、リーフェリオン様は俺を鋭く睨みつけた。
流石にここまで分かれば、もう睨まれても肩までは揺れない。
怖いのは怖いけど。
だって眼力がすごいんだってこの人。
視線だけで人が殺せそうな迫力があるんだよ。
「以上の内容に、貴方は納得してくれたと思っていいんだね?」
「はい」
俺は、顔が引き攣らないよう細心の注意を払いつつ頷く。
つーか、この人にこんな風に聞かれて「いいえ」なんて言える人がいるのか?
「……何か、質問はないだろうか?」
お。これはチャンスだ!
「では、少々よろしいですか?」
俺が尋ねると、なぜかリーフェリオン様が驚いたような顔をする。
質問が返ってくるとは思わなかったのか。
確かに、たとえ質問があったとしても、こんな怖い顔したリーフェリオン様に聞くよりは、フラウレイドさんに聞く方を選びたくなるよな。
でも、俺の質問……というより問診は、本人にしか答えられないんだよ。
「……ああ、構わない。気兼ねなく尋ねてくれ」
そう言ってリーフェリオン様は口元で小さく微笑む。
けれど、俺の質問を聞き逃すまいと俺を注視しているラベンダー色の目力は増すばかりだ。
……余計怖い顔になってる気がする……。
俺は冷や汗を背に感じつつも、接客用の淡い笑顔を浮かべて尋ねる。
「リーフェリオン様は、近くと遠くでは近くの方が見づらいですか?」
俺の質問に、リーフェリオン様は一瞬不思議そうな顔をして、それから素直に「ああ」と答えた。
「朝と夜では夜の方が見づらいでしょうか?」
「そうだな。夕方頃から……、調子が悪いと午後には見づらさが増してくる」
「それはお辛いですね。少々お待ちください」
俺は軽く頭を下げると、机に置いてもらっていた段ボールから自分の鞄を取り出す。
鞄から自分の予備メガネを取り出すと、レンズが綺麗なことを確認してリーフェリオン様に差し出した。
「試しに、このメガネをかけてみていただけませんか?」
「メガネ……?」
「はい、私のかけているこれと同じ、遠視用のメガネです」
俺は、そう言って自分のメガネを指し示す。
「飛来人がつけているのを見た事はあるが、身につけた事はないな……」
「リーフェリオン様に合わせたメガネを作れば、リーフェリオン様の目は、今よりずっと楽に見ることができると思いますよ」
「ほう……メガネというのはそのような物なのか」
「残念ながら今すぐにはリーフェリオン様にピッタリの物がご用意できないので、ひとまず私の予備のメガネではありますが、試しにいかがでしょうか?」
メガネを持ったまま一歩近づけば、リーフェリオン様は少し背を丸めて俺に顔を差し出した。
俺がかけていいって事か?
チラと横目でフラウレイドさんを見ると、こくりと頷いてくれる。
俺はリーフェリオン様の耳へ、そうっとメガネの先セルをかけた。
「……ぁ……」
リーフェリオン様は小さな驚きの声を漏らして、驚いた顔のまま俺の顔を見て、それからリーフェリオン様自身の手を見つめる。
「……見える。これまでよりもずっと、ハッキリ……」
「それは良かったです」
俺は思わず、心から微笑む。
見えるって喜んでもらえるのって、すげー嬉しい。
こんな間に合わせじゃなくてさ、ちゃんと、この人専用のメガネを作ってやりたいな……。
検査セットは持ってきてるし、フレームだってフェア用にうちの店舗にしかないやつを何本か入れてたし。
レンズさえなんとかなれば、すぐにでも作ってやりたいのにな……。
そこまで考えてから、俺は気づいた。
……いや待てよ。
この世界ってまさか、レンズ以前に、メガネ……という存在そのものが、ないのか……?
だって、リーフェリオン様はさっき『飛来人がつけているのを見た事はある』って言ったよな……?
「も、もしかして……、この世界にはメガネがない……の、ですか……?」
俺の声は、自分でも笑えるくらい、震えていた。
答えるリーフェリオン様も、俺の異変に気づいてか、僅かに警戒を浮かべている。
「……ああ。少なくともこの国では見た事がない」
な……なんという、ことだ……。
メガネが三度の飯よりも好きな俺が、まさか……メガネのない世界に飛ばされてしまうとは……。
「……トーチカ……? 大丈夫か……?」
「トーチカ様、いかがなさいましたか?」
二人に声をかけられて、俺は一瞬真っ白になっていた頭を小さく振る。
「……い……、いえ、ちょっと……ショックで……」
呆然と呟いた俺に、リーフェリオン様は「疲れているなら休んだほうがいい」と言ってくれる。
ああ、リーフェリオン様は、その顔を見ていなければ声の調子はすごく優しいんだな。
俺は定まらない焦点のままで、リーフェリオン様の服の装飾を意味もなく眺めていた。
「……僭越ながら、トーチカ様はメガネがこの世界にないと、お困りになるのでしょうか?」
フラウレイドさんの言葉に、俺はハッとする。
「困る……困るよ! だって俺は、メガネを何より愛してるのに!」
思わず叫んでしまった俺に、フラウレイドさんとリーフェリオン様が顔を見合わせる。
口を開いたのはリーフェリオン様だった。
「それならば、トーチカの能力はメガネを作り出す能力ではないだろうか」
……え……?
メガネを作り出す、能力……?




