メガネと俺の後悔
「フラウは、元々私の兄の補佐官となる予定でね」
「兄……?」
リオン様に兄弟がいたなんて初耳だ。
「私には兄と弟がいたんだ。けれど、兄は8つの時に……フラウが13歳の時だね。屋敷の池に足を滑らせて、そのまま……」
……亡くなったということか。
「兄が、池に張り出した木にボールを引っ掛けてしまってね。フラウはそれを取るため、木にのぼっていたらしい。皆がフラウに注目していたんだろうね。小さな水音に気付いた者はなく、ほんの僅かな間に、兄は息を引き取っていたらしい」
リオン様は、膝の上で軽く握った右手の親指と人差し指を小さく擦り合わせながら淡々と話す。
リオン様の肩に回しっぱなしの俺に腕に伝わるリオン様の体温は、いまだに冷たい。
ヒヤリとした温度に、このままじゃリオン様の心までが冷えてしまう気がして、俺はベッドに上がると、リオン様の体を包むように背中側から抱きしめた。
「っ、ショウ……!?」
「いや、なんかリオン様の体、ずっと冷たいままなんで、温めようかと思って……」
「…………そ……そうか……。……ありがとう……」
いやいや、無理して礼を言う必要はないんだからな?
嫌だったら正直に言ってくれよ?
「嫌なら離しますから、我慢しないでくださいね?」
この人はなにかと我慢強いからなぁ……。
「いいや……。嬉しいよ。ありがとう……」
囁くような小さな声。
それと同時にリオン様の肩からホッと力が抜けて、リオン様の言葉は嘘じゃないんだと思えた。
俺は、俺の体温をリオン様に分け与えられるように、毛布の上からピッタリと体を寄せる。
つーか、毛布を間に挟まない方がもっと直接あっためられるんじゃないか?
……いやダメだな。
それはなんつーか……。
……俺の心臓がバクバクいってんのが伝わりそうだから無理だ。
いや別に下心があったわけじゃねーんだけど、リオン様がさ、すげー良い匂いなんだって!!!
俺はようやく分かってしまった。
この部屋に漂っていた良い香りは、リオン様の匂いだったんだと……。
多分、石鹸とかシャンプーとか、そういうのが花の香りなんだろうな。
そこに、リオン様自身の体臭……って言ったら臭そうなんだけどさ、全然臭くねーんだって、めちゃくちゃいい匂いなんだよ!!
それがこう混ざると、ふんわりして甘い感じの……っ、あーーーーっっっ!!
俺のしょぼい語彙じゃ形容できねーんだけど、とにかくすげーたまんねー匂いがすんだよ!!
目の前の、リオン様の首筋からさ!!!
このままリオン様の首筋に顔を突っ込んで、思いっきり息を吸い込んだら最高なんじゃねーの? とか、そんな場違いなことを考えてしまうくらいには、俺は理性を揺さぶられていた。
「兄が亡くなってすぐに、池は埋められてしまったし、木も切り倒された。今となっては確かめようもないが、もしかしたら兄も……目が悪かったのかもしれないな……」
リオン様の言葉に、茹で上がりつつあった俺の頭が一瞬で冷える。
……それって……。
リオン様のお兄さんに、もしその頃メガネをかけてやれてたら、お兄さんは今も生きてたかもしれないって……事か……。
「その場にはフラウだけでなく、兄付きの侍女もいたし、兄の護衛もいたんだ。フラウはむしろ木に登っていたのだから、兄の異変に気付くべきは彼らだったろうに。兄の死に責任を感じ、激しい後悔に心を病んでしまったのは、フラウだった……」
……そうか……。
フラウレイドさんは真面目で優しい人だもんな。
自分がああしなければ、もっとこうしていれば、と自分を責めてしまったんだな……。
その気持ちは俺にも分かるよ。
俺だって、両親の乗った車が事故った時には、そう思ったからな。
事故に遭う日の前の晩、両親は俺を誘った。
明日は遠出をするから、一緒に行かないかと。
俺は、友達と遊びに行く約束があると、その誘いを断った。
「それじゃあ仕方ないな」
「急に決めたからね。でも、たまには翔とも出かけたかったなー」
そう言って苦笑する両親に、俺は「今度はもうちょい早く誘ってくれよ、付き合うからさ」なんて気安く答えた。
その『今度』が、二度とこないなんて思ってもいなかった。
あの日、あの車に、俺が乗っていれば。
俺が一緒に行っていれば。
あの車は、あの日あの瞬間に、あの場所を通る事はなかったかもしれない。
俺が、誘いを断りさえしなければ、両親は死なずに済んだかもしれない。
……どうしたって、そんな風に思うよな。
周りの奴からすりゃ、そんなことねーだろって感じなんだけどさ。
失ってしまった人が大事な人だったら、その大事な分だけ。
『どうして』って気持ちも大きくて、溢れちまうもんな。
少しでも理由が欲しくて、自分のせいかもって、そんな風に考えちまうの。
俺には分かるよ。
「……ショウ……?」
「ああ、えーと……。フラウレイドさんの気持ち、分かるなあって思ってました」
「そうか……。ショウも大変な思いをしてきたんだね……」
『辛い』と言わないところが、なんだかリオン様らしいな、なんて思っていたら、リオン様の手が、労わるようにそっと俺の腕に触れた。
リオン様の前をがっしり囲い込んでいる俺の腕に触れたリオン様の指は、扉の前でその手を掴んだ時よりも、少し温かくなっている。
よしよし、この調子でもっとポカポカになってくれよ。
「リオン様は、その時何歳だったんですか?」
「私は当時5つだったよ」
5つかぁ……。
5歳で兄を失ったリオン様と、13歳で主人を失ったフラウレイドさんと、17歳で両親を失った俺。
その辛さを比べるなんて事はできない。
俺はただその事実を、そうなんだな、と受け止めた。
「フラウは長年ウィルトゥーズ公爵家に仕え続けている伯爵家の長男でね。生まれてすぐからウィルトゥーズ公爵家の次期当主の補佐官となるべく教育を受けて育っていたんだ」
感情を乗せる事なく淡々と話すリオン様の指が、無意識なのか俺の腕をすりすりと撫でる。
俺はその温かさを、優しい感触を、できる限り意識しないように努めた。
「私には当時、顔合わせをしたばかりの補佐官候補がいたんだけどね。兄が亡くなった事によって、私が繰り上げで次期当主となり、フラウが私につくことになったんだ」
そこまで言って、リオン様はピタ、と動きを止めた。
後ろからリオン様の横顔を覗き込むと、リオン様のラベンダー色の瞳は、ここではないどこかを見つめているように思えた。
「私に補佐官交代の挨拶をしに来たときのフラウは、ひどく痩せこけていてね……。頬もこけ、目も落ちくぼんでいて、虚ろな瞳で私を見ていて……、子ども心に、恐怖を感じたのを覚えているよ」
けど、あのドリュエリオン様が、よくそんな状態のフラウレイドさんを大事な息子につけたな……。
「けれど、そんなフラウの瞳が、父の一言で生き返るのを私は見てしまったんだ。父が『これからはリーフェリオンがウィルトゥーズの公爵家の跡取りとなる。リーフェリオンをよろしく頼んだよ、フラウレイド』と告げた途端、フラウは使命を宿した瞳で私を力強く見つめた。あまりの迫力と鋭さに、私は怖くなって父の後ろに隠れてしまったんだよ」
クスクスと小さく笑うリオン様。
5歳のリオン様かぁ……。きっと可愛かったんだろうなぁ。
グラ兄も小さい頃のリオン様は本当に可愛かったっつってたもんな。
そんなリオン様なら、きっと怯えて隠れる様子も可愛かったんだろうなぁ。
「……そんな訳でね、フラウにとって、私の身を守る事は生きる理由にも等しいんだ。うっかり私がフラウより先に亡くなる事があれば、フラウは私の後を追ってしまうだろう」
苦笑混じりに、さらりと告げられたリオン様の言葉は、あまりにも重かった。
「私の肩にかかっているのは、フラウの命だけではない。この屋敷で働くすべての者、その家族、沢山の領民達……。それを分かっていながら…………私は……」
俺の腕の中で、リオン様がぎゅっと身を縮めた。
ああ、この人は悔やんでるんだ。
自分の行動を反省してる。
俺がグーグー寝てる間も、リオン様はずっとこんな後悔に身を灼かれていたんだろうか。
それで、横になっていることもできずに、夜風にあたっていたんだろうか。
……一人きりで……?




