メガネと水球
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それは、コルトがほんの三日の弟子入り期間を経て、明日には森に帰ろうと言っていた日の、夕食のひとときだった。
いつもよりも豪華な食卓はコルトの送別会を兼ねていて、俺達は美味しい料理に舌鼓を打ちつつも、コルトとの別れを惜しんでいた。
あの木の鈴を返そうとした俺に、コルトは「それは師匠が持っていてください」と言った。
「師匠が困った時には、いつでもボクを呼んでくださいね」
そう言われて、俺は「ありがとう」と木の鈴を仕舞い直した。
食後のお茶を飲み終えて、皆が名残惜しい気持ちを残しつつも立ち上がった、その時。
ちゃぷん。と、どこか遠くで水音が聞こえた気がした。
「何か来るぞ!」
不意にグラ兄が叫んで槍を構える。
どこから!?
何が来るって!?
何にどう身構えればいいんだ!?
「師匠ッ!」
コルトが必死の形相で俺に手を差し伸べる。
その手を掴もうと思った時には、俺は全身を水に包まれていた。
何だこれ、水の球……って、最近見たな!?
もがいても、水球は俺の体の中心に固定されてるみたいに、欠片も俺から離れる気配がない。
手足の感触は確かに水中なのに、息はできるってどういうことだ!?
ドンッと鋭い衝撃と共に、グラ兄の槍の持ち手側が水球へと差し込まれた。
「トーチカ、捕まれッ!」
俺は水球の中でその槍を掴んだ。
けれど、槍は出入りできても俺の体は水球の膜から外に出られない。
「くそっ、引っ張り出せねぇのかよっ!」
そうするうちに無色透明だった水が、どろりと暗く濁ってゆく。
闇のような色に紛れて、皆の姿が、その顔が次第に見えなくなる。
一人きりにされてしまう、そんな予感は確信に近い。
あ……。
俺はまた……、一人になってしまうのか。
気づいた瞬間、恐怖が全身を襲った。
嫌だ……。
皆と離れたくないっ。
皆がいてくれたから、こんな世界でも、俺は……っ。
震え出す全身に息が出来なくなってくる。
「ショウ!」
その時、ドボンと大きな水音がして、俺の入っていた水球が大きく揺れた。
何も見えない暗闇の中で、温かな何かが俺の手に触れる。
「ちょっ、リーフェ!?」
「リーフェリオン様!」
「いけません! お戻りくださいっ!」
いくつかの悲痛な叫び声は、なぜかずっとずっと遠くに聞こえた……。
ふっと気づけば、俺は真っ暗で広い場所に立っていた。
「どこだここ……」
呟いてから、俺は自分が普通に喋れたことに安堵する。
確かに水に取り込まれていたはずなのに、俺の身体も髪も濡れている感じはないし、水が滴ることもなかった。
ずり下がったメガネを両手で上げようとして、片手が何かに掴まれていることに気づいた。
俺の左手首はリオン様にガッチリと握り込まれていた。
「リオン様……」
俺の隣でぼんやりと立っていたリオン様が、俺の言葉にハッと肩を揺らした。
「ショウ……、良かった、無事で……」
俺を見るなりそんな事を言ってくるリオン様は良い人過ぎるな。
次いで、俺の手を握っていることに気づいたらしく、慌てたようにパッと離す。
「す、すまない、勝手に触れてしまった……」
「俺を助けようとしてくれたんですよね? すごく嬉しかったです」
あの暗闇で、俺を一人にしないでくれたリオン様に、俺がどれほど救われたか。
あの一瞬感じた温もりで、俺は息を吸う事ができた。
「ありがとうございます、リオン様……」
感謝を込めて微笑むと、少し頬を染めたリオン様が、俺を安心させるように優しく微笑み返してくれた。
「ショウの助けになれたなら、よかったよ」
「……でも、俺のせいでリオン様まで巻き込んでしまってすみません」
俺の言葉に、リオン様はようやく周囲を見まわした。
「ここは一体……」
リオン様でも見覚えのないところだとしたら、やっぱそうなんだろうな。
「ショウは私の後ろに……」
そう言ってリオン様は俺の一歩前に出てくれる。
けれど、上げ直したメガネでよく見れば、リオン様の肩は小さく震えていた。
それはそうか。
初めての場所にいきなり迷い込んだんだもんな。
年上だって言っても3つしか変わらないんだし、むしろ立場的にはリオン様の方が守られるべきなんだよな。
「大丈夫ですよリオン様」
俺が言うと、リオン様は驚いたように瞬いて肩越しに俺を振り返る。
ああ、リオン様もメガネがずれてるじゃないか。
俺はリオン様のメガネをそっと持ち上げた。
「ぁ……。ありが、とう……」
照れるリオン様がなんだか可愛くて、癒されるな。
「確かにここは広くて暗くて不気味な感じですけど、俺、なんとなく心当たりがありますから」
「え?」
俺が包まれたあの水は、磯の香りがしたんだよ。
だから……、ここは多分、海の中のどこかなんじゃないだろうか。
だとしたら、俺は恩返しをされる可能性はあっても、酷い目に遭わされる謂れはない。
「リオン様は俺の後ろにいてください」
俺がそう言ってリオン様の一歩前に出ると、リオン様は慌てて俺を後ろに庇い直そうとする。
「そんな、ショウこそ私の後ろに……」
「いやいや、リオン様の方が守られないといけない人ですからね?」
「わ、私は……、ショウを守るべき立場なのだ……」
何だこれ、リオン様が健気で可愛いんだが……?
ぴるぴる震えながら俺を守ろうとするリオン様って、可愛過ぎないか……?
「トーチカ様……っ」
凛と響いた涼やかな声に振り返れば、タツノオトシゴ……ではなく中学生ほどの見た目の少年がこちらへと駆け寄っていた。
人の姿ではあったけど、ひらひらとしたしっぽは健在だし、高そうな縫製の服は全身真っ黒で、瞳だけが青い。
この少年はきっとカルール王子だな。
「お久しぶりです……、先日は本当に……、ありがとう、ございました……」
うん、このポツポツ途切れる喋りは間違いないな。
「やっぱり君だったんだな、カルール王子」
「すみません……、強引にお呼び立てしてしまい……。私は……ちゃんと、使いを出すべきだと……、言ったのですが、父が……」
カルール王子は、父が無理な呼び出しをしてしまった事を繰り返し謝りながら、王の待つ玉座の間とやらに俺達を案内してくれた。
さっきのだだっ広い場所は、転送の間とかいう場所だったらしい。
玉座の間とやらに入ると、そこには圧倒的な存在感の玉座があった。
そういやあの城では宰相様の執務室とか応接室にしか通された事ないけど、あの城にもあんのかな、こんなどデカい玉座が……。
俺達は、カルール王子に倣ってその後ろで膝を付く。
「表を上げろ、楽にして構わん」
言われて顔を上げると、玉座に座る男は冷たい瞳で俺たちを見下ろしていた。
まーたなんか、いかにも強キャラって感じのビジュアルだなぁ。
モデルかってくらいに端正に整ったクールな顔は二十歳そこそこにしか見えないんだが、ソスさんの事もあるし、こういう人達は見た目と年齢は関係ないと思っておくほうが良さそうだな。
カルール王子と同じ漆黒の色をした髪はどこまでもまっすぐ長く床につくほどで、頭には大きな角が一対生えている。爪もやたらと長くて人外感があるな。
服は上のシャツだけが白だが、肩からかけているマントというよりストールか?質感としてはマントっぽい硬そうな布だが……。それと、長く足元が広がったズボンは夜の海みたいな紺色だ。ストールには金糸で細かい刺繍がされている。
そんな中で、瞳だけが薄青く透き通っていて氷みたいに見えた。
「よく来た、人間よ」
いや、よく来たって……。
無理矢理攫われてきたんだが?
「我は大海を司る海の王、オンブロンド。此度は我が子が世話になった。褒美を取らせよう。何なりと申してみよ」
こっちは海の王様だって最初から聞いてはいたが、それにしても態度がでかいな。
お礼をしようとする人間の態度じゃねーだろ。
いや、人間じゃなかったか。
俺はグラ兄の言葉を思い出して、ここで憤るのは意味がないか。と思い直す。
そうだな。価値観がそもそも違うって言ってたもんな。
しかし、何なりとって言われてもなぁ。
欲しいもの……。
俺の欲しいもの、なぁ……。
いっぱいあるぞ?
眼鏡屋を開くための土地、建物、内装に、フレームに、検査器具に、ああ、レジとかもいるか、あとはスタッフさん……。
うーん……。
けどなんか、俺の欲しいものって、どれも海に住んでるっぽいこの人に要求したところで無理なんじゃないか?
「……我ではお前の力になれぬと申すか」
えっ、いや、えっ!? 言ったっけ!?
「ならば、お前が我が力を必要とするその時に、我を呼ぶが良い」
オンブロンド王の言葉に応えるように、カルール王子がシルクの布に包むようにして、細い巻貝のような物を俺に捧げる。
「あの……これを……。私達の力が必要な時は……、これを、吹いてください……」
これって……木鈴みたいなもんなのかな。
「こんな大事そうなもん、俺がもらって、本当にいいのか?」
「はい……、もちろんです……」
「そっか、ありがとう。ありがたく使わせてもらうよ」
俺は感謝を込めて微笑んで、その巻貝のような笛(?)を受け取る。
「あの……、ご用がなくても……、呼んでいただけたら……嬉しいです……」
少し恥ずかしそうに俯くカルール王子がめちゃくちゃ可愛い。
コルトのようなストレートなわんこっぽい懐きっぷりももちろん可愛いんだが、カルール王子の、この、内気な少年がもじもじと恥じらいつつも、俺に心を寄せてくれてる感じ……。
うん、これはこれで、比べることのできない別の良さがあるな。
オンブロンド王は「はぁぁ」と大きなため息を吐くと、億劫そうに手を振った。
しっしっと追い払うような仕草だ。
「もう良い、下がれ」
オンブロンド王がそう言うと、隣に立っていた秘書のような人が、オンブロンド王にサッと縦型の巻物みたいな書類を差し出す。
次に会う人の情報なんだろうか。
オンブロンド王は眉間をグッと指でつまんで……、疲れ目か?
書類を受け取った片手をぐうっと伸ばした。
……あ……、あれは……。
間違いない、老眼だ!!
「カルール王子のお父さんって、今何歳なんだ?」
「えーと……せんはっぴゃくと……えーと……にじゅう……? さんじゅう……?」
「うん、分かった」
もう俺の知ってる老眼の予測範囲内に年齢が全く収まってないってことはよく分かった。
見れば、オンブロンド王は腕を一杯まで伸ばしてもまだ焦点が合わないのか、眉を顰めて頭を後ろに引こうとしている。
俺は、あの氷色の瞳に字をくっきりと映すべく、口を開いた。
「あの、オンブロンド王様、もしよければ私に、書類仕事用のメガネを作らせてもらえませんか?」




