メガネと俺の帰る場所
『あ……。父様が……呼んでる……』
「そんじゃ早く家に帰った方がいいな」
『は、はい……。この御恩は、必ず……』
「いいっていいって。気をつけて帰るんだよ」
カルール王子は俺を何度も振り返りながらぺこぺこ頭を下げて、ぴるぴると手っぽいヒレを振って海に帰っていった。
その間も、海面は少しずつ不自然なうねりを大きくしつつあったが、カルール王子が水球ごとぽちゃんと海水の中に入った次の瞬間、何事もなかったかのように元通りの波打ち際の姿を取り戻した。
その不自然な光景に、背筋を冷たいものが流れる。
……これって……、もしあの子があのまま海に戻れてなかったら、この海岸はどうなってたんだろうな……。
同じことを考えているのか、俺達は無言のままでリーフェリオン様のところへ戻った。
***
城に帰る馬車の中で、俺達はリーフェリオン様にカルール王子とのやりとりを話した。
リーフェリオン様もフラウレイドさんも海が異常な姿を見せるのを目の当たりにしていたので、一体何事かと随分心配をかけてしまったようだ。
だが、俺達から話を聞き終えたリーフェリオン様はさらに困った様子で頭を抱えてしまった。
「海の王の……第八の子と言ったのか……」
「そうだったよな?」
グラ兄とヴァルさんを見ると、二人とも渋い顔で頷く。
「海の王は、第七子まで全て女子だったはずだろう……」
「だよなぁ」
リーフェリオン様の呟きにグラ兄が同意すると、ヴァルさんも頷いて言った。
「ああ。第八子誕生の際には、国王も来賓として呼ばれていたほどだ」
その話の流れだと、海の王は世襲制で、女子には継承権がないって事か……?
「つまりあの子が第一王子……だったのか……?」
俺の言葉に、全員が頷く。
そりゃ待望の第一王子が海から飛び出したまま帰ってこないとなれば、海だって荒れる…………のか?
いや、俺にはちょっとよくわからん感覚ではあるが。
「海の王子だけでなく、その前にトーチカが助けていたのは森の民だっただろう」
リーフェリオン様はため息でもつくかのように呟いて、久々に皺を寄せた眉間を指先で撫でるようにしている。
……森の民ってなんだ? コルト君みたいな獣人の事か……?
「あー……やっぱあの花はそうだよなぁ」
グラ兄の言葉にヴァルさんも黙って頷いている。
花って、コルト君のツノに咲いてたちっちゃい花の事か?
リーフェリオン様は何かを思い出すように、開いた掌をゆっくり閉じながら言う。
「木鈴を手にしていただけでなく、人に渡せるほどの権限を持っていたのだ。……彼もかなり立場のある者で間違いないだろう」
「木鈴ってこれの事ですか?」
俺がポケットから布で包まれた木の鈴を取り出そうとすると、リーフェリオン様の手がそっと俺の手を止めた。
「トーチカ、それは他の人には決して見せてはいけないよ。とても貴重で、大きな意味を持つ物なんだ」
「は、はい……」
何だかよくわからないが、俺はとても重要なアイテムを託されてしまったらしい。
「いやー、なんつーか、トーチカはすげーな」
グラ兄の言葉に、ヴァルさんがうんうんと深く頷いている。
「朝からちょろっと海を見に行っただけで、一気に森の民と海の王子に恩を売れるとか、普通ありえねーよな」
グラ兄がケラケラ笑い出す。
一方で、リーフェリオン様はすっかり頭を抱えてしまった。
「私は……父上になんと報告すれば良いのか……」
「どーせ明日会う約束がしてあんだからさ、今更焦ったって結果が変わるようなもんでもねーだろ。明日でいいって」
「そ、そうか……、そうだな。そうかも知れない……」
「それよか潮風で体ベタベタになったろ? 城には飛来人用のでっかい風呂があるしさ、飛来人ってでっかい風呂が好きなんだろ? なぁ、皆で入りに行かねーか?」
「僕はお前ほど暇じゃない。戻れば仕事だ」
「私もこの後は、人と会う予定がある」
「ふぅん? じゃあ俺がトーチカの裸を独り占めしていいんだな?」
「グラディレオ!? なっ……、な、……っ、何を…………!?」
「トーチカさんを不埒な目で見るなら、今ここでグラディを潰すぞ?」
「ちょっ、怖っ!? ヴァルの目がマジなんだが!?」
「冗談のつもりなど欠片もない」
俯いた俺の頭の中では、さっきのカルール王子の言葉が浮かんでいた。
父様が呼んでると、あの子は言った。
だから、帰ると……。
コルト君も、帰ってお祖父さんにメガネの話をすると言っていた。
彼らには、帰る場所が……、帰りを待っていてくれる人達がいるんだな……。
「……いいよな、帰る家があるって。帰りを待っててくれる人がいるって、羨ましいよ……」
騒がしい馬車の中で、俺は心の声を漏らしていた事に気付いていなかった。
不意にシンと静かになった車内に、俺は顔を上げる。
俺はなぜか、三人から心配そうに見つめられていた。
もしかして俺、なんか話しかけられてたか?
「トーチカ、お前……」
「トーチカさん……」
「トーチカ……」
「ああ、ごめん。ちょっと考え事してて、話聞いてなかった」
苦笑して言うも、三人はどこか痛みを堪えるような顔をしている。
なんだ……?
「私の……」
口を開いたリーフェリオン様が、何かを願うような瞳で俺を見つめた。
「ウィルトゥーズ公爵家の屋敷が、トーチカにとって帰るべき場所になれると、嬉しい」
ん? 三人は何の話をしてたんだ?
一瞬そんなことを考えてから、俺は自分こそが失言をしていたんだとようやく気づいた。
「……っ!」
思わず両手で口を押さえる。
いやもう間に合ってねーって!!
既に聞かれた後だって!!!
顔が、これでもかというくらい熱くなってきた。
なんだよ俺、なんて言ったよ!?
あああ覚えてねぇよっっっ!!
三人の顔を見ていられなくて、俺は顔を伏せて言った。
「……ごめ……、ごめんなさい……。なんか俺……言った……かも、知んないけど、忘れてくれていいんで……」
羨ましいとか、そんなガキっぽい事、まさか俺、言ってねーよな……?
グラ兄が、ため息混じりに言う。
「おいトーチカ……、そんな風に言わなくてもいーじゃねーかよ」
「トーチカさん……」
ヴァルさんもどこか困ったような声だ。
一方で、リーフェリオン様は優しく言った。
「私は忘れないよ。トーチカが本当に欲しいものを口にしてくれるのは珍しいからね。むしろ、トーチカの心に触れる事ができて嬉しいと思っているくらいだ」
優しく労わるような声につられて顔を上げると、リーフェリオン様はシルバーフレームに包まれたラベンダー色の瞳で美しく微笑んでいた。
何度見ても慣れないレベルで顔が良いな……。
思わず、口からその名が勝手にこぼれてしまう。
「リーフェリオン様……」
「さっきも言ったように、トーチカが私の元にいてくれる間は、ウィルトゥーズ公爵家がトーチカにとって帰るべき場所となれるよう全力で努めよう。だからどうか、トーチカはあの屋敷を自分の家だと思って帰ってきてほしい」
真剣な瞳が、リーフェリオン様がどれほど本気でそうしようとしてくれているのかを俺に伝えてくる。
「ありがとうございます、リーフェリオン様」
俺の返事に、リーフェリオン様は悲しげに眉を下げた。
「私のことも、もっと親しく呼んでもらえないだろうか……」
いや、公爵家のご子息に対して下の名前に『様』なら十分親しく呼ばせてもらってる気がするけどな。
「グラディレオやヴァルミリオ様には、敬語を使わないだろう……?」
何だか苦しそうな顔をしているリーフェリオン様をどうしたものかと思う間に、グラ兄がふきだした。




