メガネに映る、遠い水平線
トンと地面に下ろされて、俺はリーフェリオン様に駆け寄る。
「リーフェリオン様、メガネに違和感がありますか?」
「あ……、ああいや、すまない。つい癖が出たんだろう……」
そうだろうか?
メガネをかけて以降、リーフェリオン様が人を睨むことはなかった気がするんだけどな……。
「んー?」
と、首を傾げながら俺の肩に腕を回してきたのはグラ兄だ。
俺の肩をグラ兄がぐっと抱き寄せると、リーフェリオン様の眉間に先ほど解けていたはずの皺が寄った。
パッとグラ兄の体が離れる。
すると眉間の皺もするりと解けた。
と思ったら、今度はグラ兄が俺を片腕に抱き上げる。
一体何なんだよ!?
また降ろされたと思ったら、今度は俺の両手をグラ兄が両手で包んだ。
ブンブンと上下に振られて、それからパッと離される。
「あー、分かった。オレは分かったぞーっ。そーかそーか、リーフェがついになぁ……」
グラ兄は何やら納得しきりに頷いているが、一体何が分かったんだ?
周りを見れば、リーフェリオン様は困惑しているし、フラウレイドさんはすっかり頭を抱えてしまっているし、ヴァルさんは元々半分の瞳をさらに面倒そうに細めている。
「グラ兄、何の話?」
俺が尋ねると、グラ兄は明るく笑って言った。
「ははっ、こっちの話だ。トーチカは気にすんな。今はまだ、な」
「んんん?」
それって、そのうち俺にも教えてやるよって事か?
まあ、グラ兄がそう言うならそれでいいんだろう。
俺は何だかんだ言って、グラ兄をそれなりに信頼していた。
それに、俺には今、もっと気になる事がある。
「なあグラ兄、海って見に行けないか?」
「ん? トーチカは海が好きなのか?」
聞き返されて、俺の胸に海の思い出が蘇る。
歩いて行けるほど近くはなかったが、海は家から車で二十分ほどの距離にあった。
子どもの頃は、父の運転する車で母と一緒に何度も行った。
潮干狩りに、海水浴、花火に、釣りに、初日の出まで。
中学にもなれば友達と自転車で行って、冬だってのに砂浜を走り回って転んで髪の中まで砂まみれになって、靴ん中ジャリッジャリのまま帰ったこともある。
……母さんカンカンに怒ってたな。
家中が砂だらけだって。
「いいよなぁ、海……。俺、大好きだよ」
胸に溢れる幸せな海の記憶と共に、俺はそう答えた。
しん。と一瞬全員が言葉を失う。
ん? 何でだ?
なんか俺、変なこと言ったか……?
見上げるとグラ兄は嬉しそうにニコニコしている。
一方でリーフェリオン様は見る間に赤くなっていって、両手で顔を覆ってしまった。
フラウレイドさんは温かい微笑みをたたえているし、ヴァルさんはいつも半分の瞳をまん丸にしていた。
そんな中で、グラ兄がうんうんと頷きながらリーフェリオン様の肩を励ますように叩く。
「わからんでもない、今の笑顔は無邪気過ぎたな」
「……っ」
リーフェリオン様からは、息の詰まるような音だけが聞こえた。
「んじゃオレが連れてってやろーか?」
グラ兄の言葉に俺は食いつく。
「いいのか!?」
「おうよ」
「だが、水辺はモンスターもいる。トーチカを危険な目に遭わせたくない」
そう言ったのは、まだ片手で口元を覆うようにしているリーフェリオン様だ。
モンスター……??
「え……? ここって、そういうのがいる世界なんだ……?」
思わず漏らした俺の声に、グラ兄が「森にも出るぞー」と気安く答える。
マジか……。
怖いな異世界……。
「それなら僕も行こう。トーチカさんの護衛として」
手を挙げてくれたのはヴァルさんだ。
「すぐそこの海岸だぜ? 大魔導士ヴァルミリオ様が来るほどの場所じゃねーだろ。海に入ろうって事でもなし」
……それって、海に入ろうとするとさらに危険度が上がるってことか?
よしわかった。海は見るだけにする。入らないぞ。
「トーチカさん、いけませんか?」
ヴァルさんが何だか悲しげに俺を見る。
「え? いいよ。むしろヴァルさんが来てくれるなんて心強いよ、ありがとう」
頼もしい大魔導士がついてきてくれるなんて申し出、俺には断る理由なんて一つもない。
俺がにっこり微笑んで答えたら、細い黒ぶちメガネの奥で赤い瞳が嬉しそうに細められた。
ヴァルさんのメガネは俺達のとは違って、鼻あてのとこをサドルブリッジにしたんだよな。
俺達のメガネでは、楕円形のシリコンやプラパーツの鼻あてが左右に一つずつついているが、サドルブリッジではそれが鼻の上を通った横一直線のパーツになっている。
レンズの中に鼻あてが入らない分鼻周りがすっきり見えて、ヴァルさんのどこか和風な趣深い様相にもよく似合っていた。
「海辺のモンスターくらい、オレひとりで十分いけるけどなぁ……」
何だか不服そうな呟きに、俺は苦笑しつつグラ兄を振り返る。
「何拗ねてんだよ、グラ兄の腕を疑ってるわけじゃないって。それに俺はいつだってグラ兄を頼りにしてんだろ?」
俺の言葉で、グラ兄は「……そっか、そうだな!」と簡単に元気になる。
こういうウジウジしないところが、グラ兄は付き合いやすくて助かるな。
「トーチカさん、僕の事もたくさん頼ってくださいね。僕は、数回の護衛程度では返せないほどの恩が貴方にあります」
「いや、俺に恩返しなんて、しなくて良いんだけどな……」
「貴方がそう思っても、僕の気が済まないので」
うん。この人頑固だよな。
こうと決めたら絶対譲らないタイプの人だ。
柔軟性という点では、あのサーティラの方がマシなのかも知れないな。
「ただその……行くのは、明後日でも構いませんか?」
ああそうだよな、急に言われても予定が詰まってるんだろう。
「いいよ。って、いいかな?」
「おうよ、俺の予定なんてしばらくはトーチカの護衛しかねーしな」
ケラケラ笑ってグラ兄が答えた。
ふっと、視線を感じて顔を上げると、リーフェリオン様のラベンダー色の瞳がシルバーフレームの向こうから俺をじっと見つめている。
リーフェリオン様は、いつもより少しだけ低い声で言った。
「……私も一緒に行こう」
***
今日は、リーフェリオン様の父親であるドリュエリオン・ウィルトゥーズ公爵に会いに行くってことで、俺達は城の奥の方まで来ていた。
この辺りは重役の人しか来れない区域らしくて、警備も厳重だった……んだが、いざ中に入ると、警備兵の数も減って、やたらと広くて……。
つまり……、俺は今道に迷っているんだが、さっきから道を尋ねられそうな人影すら見当たらずにいる。
幸い「せっかくだから美しい庭園を見てから行こうか」とリーフェリオン様に誘われたおかげで、ウィルトゥーズ公爵との約束の時間よりはずいぶん早く奥城には着いている。
だから後は、はぐれた皆と無事合流できれば、少なくとも約束の時間に遅刻はしないと思うんだが……。
俺はキョロキョロ遠くを見回しながら曲がり角を曲がろうとして、不意にドムッと腹に衝撃を受けてよろめいた。
なんだ!?
視線を下ろすと、俺の目の前でペションと男の子が尻餅をついた。
両手で本を広げたままの格好の少年が、ハッと顔色を変えて俺を見上げる。
しかしその目は左右のうち片方しか、俺を見つめていなかった。
ん?
片目が内側に寄ったままのこれは、内斜視だな。
少年は慌てたように視線を下ろして「よそ見をしていました、ごめんなさい」と謝る。
その割に少年は本を閉じることなく、むしろ本で顔を隠すようにして俺の横を通り過ぎようとする。
俺は思わず、その肩を掴んでいた。




