メガネの恩恵と恩人への思い <リーフェリオン視点>
<リーフェリオン視点>
私は、自分の感情に戸惑っていた。
どうしてそんな風に思ってしまったのか、自分で自分が恥ずかしい。
トーチカは自由と自立を望んでいる。
私に頼って生活することを、彼が心苦しく思っていると知っていたのに。
それなのに……、私は、トーチカがまだ私のそばにいてくれる事を、嬉しいと思ってしまった……。
少なくともあと3か月は、トーチカは私の屋敷にいてくれる。
そう思った時、胸に湧き上がったのは確かな喜びだった。
自分が彼に、こんな身勝手な感情を抱くだなんて、思ってもいなかった。
私は、まだグラディレオとじゃれ合っているトーチカをフラウレイドに任せると、応接室を出て執務室へ向かった。
なんとなく、これ以上あの場にいたくないと思ってしまった。
それは、どうしてなのか……。
長い廊下を歩きながら、自身の心に目を向ける。
グラディレオは、私よりも後からトーチカと知り合ったのに、すぐに私よりも気安く言葉を交わすようになった。
グラディレオは元から気さくで明るく、温かい人だ。
家柄もあり、十分に信頼のおける人物でもある。
だからこそ、こちらに来たばかりで頼る人のないトーチカの護衛兼話し相手にと、忙しい事を承知の上で頼み込んだ。
そんなグラディレオに、トーチカがあのように心を開いて屈託のない笑顔を向けるのは、喜ばしい事だ。
……そのはずなのに、どうして私はこんな気持ちになってしまうのか。
トーチカは大切な恩人だ。
彼の幸せを最優先とするべきだ。
私は確かにそう思っている。
それなのに、なぜ……。
あのような彼の明るい笑顔が見たいと、願っていたはずなのに。
それを目の前で見る事ができたのに、どうしてこんな……。
私は、やりきれない思いが胸の中央あたりに溜まってくる感覚に、息を吐く。
執務室に戻ると、バルコニーに続く扉を開けた。
どうようもない息苦しさに外の風にあたるも、気分は晴れそうにない。
フラウレイドなら、この感情の名前が分かるだろうか。
執務室に彼が来たら、その時に尋ねてみよう。
今は、急なサーティラ様の来訪でずれ込んだ書類仕事を片付けてしまわなくては……。
机に向かい、積まれた書類に目を通す。
しかし、せっかくトーチカに良くしてもらった視界の中でも、私の目は文字の上を滑ってしまう。
……ダメだ……、トーチカの事が頭から離れない。
私はどうしてこんなにも、彼の事が気になるのだろうか。
まだ出会って10日ほどの彼の事が、朝から晩まで、ともすれば夢の中でまで、気になって気になって仕方がない。
トーチカは、出会ったときから、逃げることなく私と向き合おうとしてくれていた。
初めて会った相手で、私の顔に恐れず会話してくれた人は初めてだった。
いや、彼は私に恐れを感じていなかったわけではない。
それは分かっている。
私の視線に揺れた細い肩と、いささか青白い顔色に、俯きがちな視線……。
彼もやはり私に気圧されているのだと、はっきり分かった。
……だからこそ、不思議だった。
どうして彼は私を怖いと感じながらも、微笑んでくれたのだろうか。
私に婚約を申し込んでくれた人ですら、この顔を前に、逃げ出してしまったのに……。
私はこれまでに、この顔のせいで三度婚約を破棄されている。
婚約にたどり着く前に流れた件も含めれば、両手では足りないほどだ。
こんな状況では、次はよほど生活に困窮したご家庭の令嬢に頼むしかないと思っていた。
脅してしまうようで申し訳ないと、一方的な関係で相手を幸せにできるのだろうかと、そんな私の悩みは、彼のおかげですべて消えた。
トーチカは、初対面の私のためにと、初めて使うはずの能力で、こんなに素晴らしいメガネを生み出してくれた。
トーチカが生み出してくれたメガネのおかげで、私は人を睨まずに見る事ができるようになった。
私に長く仕えてくれる者達は、皆、我が事のように喜んでくれた。
「これで次のご婚約は、ご成婚間違いありませんね」
フラウレイドにそう言われて、なぜか胸がヒヤリとした。
……これも分からないところだ。
一体どうして、私はそれを嬉しいと思わなかったのだろうか。
家の為に早く後継を残さねばと、ずっと結婚相手を得る事を願っていたはずなのに。
それが叶うだろうと言われて、なぜあんな気持ちになってしまったのか。
私ももう25歳だ。
相手を見つけたところで、公爵家子息という立場上すぐに結婚というわけにもいかない。
婚約期間を考えれば、少しでも急いだほうが良いと分かっているはずなのに……。
なぜか、これから生涯を共に歩むはずの人をすぐに探そうという気になれなかった。
……はぁ。とため息をついてかぶりを振る。
こんなことをいつまでもグルグル考えている場合ではないというのに。
私が満足に家の仕事すらできないようでは、トーチカの面倒を見る事すらできないではないか。
そう考えると、なんだか少し頭が冷えた気がする。
そうだ。私はこの屋敷でトーチカに不自由ない生活を送ってもらうためにも、この書類の山を早急に片付ける必要があるのだ。
もう一度ペンに手を伸ばしかけて、私は気付く。
ここまでをずっと俯いたまま歩いていたからか、私の視界には銀色に輝くフレームが入り込んでいた。
これは、トーチカ曰く「メガネがズレている」という状態らしい。
私は、トーチカに教えられたとおりに両手でツルとフレームの境をつまむと、正しい位置へとかけ直す。
すると視界が一段とクッキリして、なんだかトーチカに励まされたような気がしてしまう。
ああ、メガネというのは良いものだな。
いつでも、トーチカの気配が微かに傍にいてくれるような感覚だ。
あの日、メガネを構えた彼の指がそっと私の髪に触れ、耳の後ろのかけ心地を確認するように、優しく耳に触れた。
それを思い出すだけで、私はどうしようもなく体中が熱くなってしまう。
彼は、私やグラディレオだけでなく厩舎番のディクスにまで、その能力を惜しみなく使い、それ以上に細かに心を砕いてくれた。
あんなに素晴らしい人に出会ったのは、生まれて初めてだ。
彼がもし、当家に残ることを望んでくれたなら、どんな条件だって呑みたいと願ってしまうほどに……。
ああ……。
……そうか。
分かった。
私は、彼を手放したくないと思っているのか……。
気付いてしまえば、それは酷く単純な独占欲だった。
残り3か月だけでなく、その先も、私の手の届くところにいてほしい。
どうやら心の底からそう願っているらしい自分に、愕然とする。
なんて身勝手な願いを、私は持ってしまったのだろう……。
こんな一方的な感情で、恩人である彼が自由を制限される不幸を、喜んでしまったなんて……。
私はそんなにも、自分勝手な人間だったのか……。
信じられないような思いに、ペンを持つ手が小さく震える。
一体どうして……。
彼を手放したくないと願ってしまうのは、彼がこの世で唯一の存在だからだろうか。
私の、皆に恐れられる原因である目つきの悪さを解消し、ぼやけていた世界をクッキリ鮮やかに変えてくれた。
それは飛来人である彼にのみできることで、彼の代わりはこの世界のどこにもいない。
だから私は、彼に独占欲を向けてしまうのだろうか。
彼の能力が、私の生活に必須であるから……?
ああ……、私はなんて恩知らずな……、厚顔無恥な人間であるのか。
こんな強欲な感情は、彼には決して知られないようにしなくては……。
私は、強く決意を握りしめると、彼への思いに厳重に蓋をして封をする。
どうか、3か月後に彼が私の元を去る時、彼を笑顔で送り出せますように……。
彼が、彼の望み通りの生活を手に入れられますように……。
その為なら、どれほど胸が苦しくても、私は彼の為に全力を尽くそう。
それが、彼に恩を返すことのできる、唯一の方法だから……。
私は彼を閉じ込めたくはない。
彼には、幸せに暮らしてほしいのだ。
……私は繰り返し、自分にそう言い聞かせた。




