第25話 ボイスアラーム:鈍感携太:召し上がれ
いつものアラームとは違う、高めの声が意識の底に届いた。
『携太。ねえ、携太ってば』
ミントだ。
『起きてー! 携太ー!』
続いて、遠慮のない声がかぶさる。チョコだ。
携太は布団に顔を埋めたまま、うめいた。
(……何時だ……)
『約束があるのに、まだ寝てていいの?』
ミントの声に、はっと目が覚めた。
約束──クリスフォードさん。朝に訪ねると言ったはずだ。
携太は勢いよく上体を起こした。窓から差し込む光が、やけに高い角度で部屋を照らしている。
時計を見る。
午前十一時過ぎ。
(朝どころか、もう昼前じゃないか……!)
慌ててベッドから飛び降り──足がもつれた。靴を履いたまま寝ていたことに、今さら気づく。
洗面台の鏡に映った自分の顔を見て、携太は動きを止めた。
ひどい顔だった。目の下にくまができ、髪はあちこちに跳ね、頬には枕の跡がくっきりと残っている。
(……これはさすがに、人前に出られないぞ)
冷たい水で顔を洗い、髪を手で整える。タオルで顔を拭きながら、ふと気がついた。
髭が生えていない。
三十歳の男が丸一日以上放置しているのだから、本来なら顎にざらつきがあってもおかしくない。だが鏡に映る顎は、まるで剃ったばかりのようにすべすべだった。
(そういえば──こっちに来てから、一度も髭が生えていないな)
異世界に来てから何日も経つのに、髭を剃ったことがない。それでいて、まったく伸びていない。
理由はわからない。だが、面倒がひとつ減ったのは確かだった。
(まあ……ありがたいことだ)
深く考えている暇はない。急いで着替えを済ませる。
『早く行かないと、お昼になっちゃうよ?』
チョコが急かす。
(もうお昼だよ)
心の中でツッコみながら、携太は部屋を出た。
◆
階段を降りると、食堂スペースにエレナがいた。
テーブルの上に、湯気の立つ料理が並んでいる。パンとスープ、それに小さなサラダ。丁寧に盛り付けられた食事が、誰かを待つようにそこにあった。
エレナは携太の足音に気づいて振り向いたが、すぐに目をそらした。
「あ……おはようございます、携太さん」
声が少し上ずっている。
(住所だと分からないからと貰った地図……持ってるよな、よし)
「おはよう、エレナ。……おかげでぐっすり眠れたよ」
エレナの肩が、びくっと跳ねた。
「えっ……! そ、それは……よかったです……」
エレナが頬を染めながら、テーブルの方を示した。
「あの……よかったら、お昼ごはん、食べませんか? 朝のうちに準備してたんですけど、携太さんがなかなか起きなかったので、お昼ごはんとして……」
携太の足が止まった。テーブルの上の料理に目がいく。
エレナの目が、わずかに輝いた。
(朝から作ってくれてたのか)
ありがたい。だが、今は急がなければ。
「ごめん、今日ちょっと約束があって。急がないといけないんだ」
エレナの目から、光が消えた。
「……そう、ですか」
笑顔を作ろうとしていた。でも、口元がわずかに引きつっている。
「帰ってきたら、ちゃんといろいろと話すから」
携太は靴を履き直しながら言った。城壁外のこと。癒月草のこと。クリスフォードとの取引のこと。話すことは山ほどある。
だが今は、まず約束を果たさなければ。
カウンターの奥から、バルトが現れた。メガネを拭きながら、娘とテーブルの上の料理を一瞥する。
エレナの表情。手つかずの皿。
バルトは全部わかった。
「携太さん」
「はい?」
「エレナが朝から魔道具でトーストしてくれたパンがあるんだ。せめてそれだけでも持っていきなよ。歩きながらでも食べられるから」
何気ない口調だった。だがバルトは「エレナが」と、わざと主語を入れた。
携太は足を止めた。
気遣いの意味を、正しくは理解していなかった。だが──朝から自分のために準備してくれたものを、何ひとつ手をつけずに出ていくのは、さすがに心が咎めた。
「……そうですね。ありがとう。もらっていくよ」
エレナが、ぱっと顔を上げた。
「あ、待ってください! 包みますから!」
小走りでカウンターの裏に回り、布にトーストを包んで戻ってくる。少し不恰好だが、丁寧に端を折り込んでいるのがわかった。
「はい。……気をつけて」
小さな声だった。
「ありがとう、エレナ。行ってきます」
携太はトーストの包みを受け取り、安眠亭を出て行った。
扉が閉まる。
◆
足音が遠ざかっていく。
エレナは扉を見つめたまま、少しだけ俯いた。
テーブルの上には、手をつけられなかった料理が並んでいる。スープはまだ温かい。サラダの野菜は、朝のうちに切っておいたものだった。
「……片付けよっか」
つぶやいて、皿に手を伸ばした。
「エレナ」
バルトの声がした。
メガネをかけ直しながら、食堂のほうをちらりと見て、何でもないように言った。
「お父さん、朝あんまり食べてなくてさ。……それ、お昼ごはんとして食べちゃっていいかな」
エレナの手が止まった。
バルトはエレナを見ていなかった。カウンターの帳簿に目を落としたまま、ページをめくっている。
「……うん」
エレナは小さく頷いた。
そしてもう一度、今度は少しだけ声を震わせて。
「……お父さん、ありがとう」
バルトはページをめくる手を止めなかった。
ただ、ほんの少しだけ、メガネの奥の目を細めた。
◆
通りに出た携太は、歩きながら布の包みを開いた。
こんがりと焼き色のついたトースト。その上に、とろけたチーズと薄切りの野菜がのっている。布の中でまだ温もりが残っていた。
ひと口、齧った。
「うまっ!!」
思わず声に出た。カリッとしたパンの食感に、チーズの塩気と野菜の甘みが重なる。これは、ただのトーストじゃない。
(……これ、また作ってもらおう)
足早に、クリスフォードの家へと向かった。




