後篇
今までの優しかった村長は、もうどこにもいませんでした。
娘の目の前にいるのは、欲望の虜となった一人の不愉快な男でした。
「どうしてお前がうちの息子の嫁などなれたと思うんだ?うちとはまったく格も違うあんな貧乏な家の子が。泉の女神に願いをかなえてもらうことができるお前だからこそ、息子と結婚できたんだ。そのことをゆめゆめ忘れてはいけないよ」
その言葉に娘は妙に納得をしました。
なぜって、少しでも夫に振り向いてもらおうと努力をしていても夫は娘を見ることをしないからです。
いつも仮面を被ったみたいに無表情で、娘の作る料理を食べても褒めてはくれませんでしたし、家を整理整頓して綺麗に飾っても見向きもしませんでしたから。
けれども娘は夫を愛していましたので、事実を知って大変悲しくなりました。
「息子もお前みたいな綺麗でもない娘を嫁になんぞ取りたくはなかったんだろうが、なんでも女神にかなえてもらえると知ってやっと結婚することにしたんだ。息子に礼でもいっておきなさい。息子の願いをかなえることができるんだったら、息子もお前を少しは好いてくれるだろうよ。
さあ今からお前はわしの願いを叶えるんだ。
そのためにいろいろ物を買い与えて裕福な生活を与えてやったんだからな!」
娘は夫の父親である村長の言うことなど聞くものかと思っていましたが、最後の一言に付け加えられた意味を知って愕然としました。
娘の両親にどれだけのものが村長から贈られたかということを。
自分のことだけならなんとかできたかもしれません。
けれども親に贈られたあまりのものの多さに、娘は返すあても、両親からそのものを返してもらうということもできませんでした。
娘は村長に腕を掴まれて、無理やり泉へと向かわされました。
そうして泉の前に投げ出されると「さあ!」といって小突かれながら望みをかなえるべく急かされました。
泣く泣く娘は願いました。
「泉の女神さま。どうか願いを叶えてください」
泉の底で娘の願いを受け取った女神は、水流に乗せて透明な泡を一つ吹きあげました。
そうしてその泡は村長の前でぱちんとはじけると、その小さなはじけた粒が村長の体の中に入っていきました。
するとどうでしょう。
村長は腰をシャキッと伸ばして、足をぐいぐいと前に出し、身体をあちこちに動かしては一つ一つに歓声をあげました。
そうです。村長の願いは、身体の節々の痛みがなくなることだったのです。
村長は信じられないものを見るように、泉と娘を交互に見比べました。
そうしてもう一度娘に願いを言いました。
「水がめ百杯分の金砂がほしい」
「女神様は一日一回しか叶いません」
とっさに娘は嘘をつきました。そうしないと村長の強欲さが増え続けるように思ったからです。
「そんなはずはない!お前とお前の親が話していたのを聞いたんだからな。何回でも叶うといっていたじゃないか!」
たった一回親に言ったあのときに、村長は話を盗み聞きしていたということが分かりました。けれども全部を聞いたわけではないはずだろうと娘は強気になって言いました。
「いいえ。一日一回なのです、お義父さま。ですからもう今日は何を願っても叶いません」
ちらと泉のほうを見ると、泉の中ほどで水紋が現れました。それはまるで女神が娘を元気づけているようにも思われました。
「くそっ。仕方がない。ではお前は明日から毎日ここにきて、わしの願いを叶えてもらう。そのつもりでいなさい」
村長は来たときよりも元気に歩き、娘は足取りが重く、家路についたのでした。
それから毎日、村長と一緒に森の泉に出かけては村長の願いをかなえるべく泉の女神に祈る日々が始まりました。
娘のおかげでどんどんと裕福になる村長はだんだんとその裕福さを象徴するように肥えていきましたが、娘はもともと細い体をさらに細くさせていきました。
夫である村長の息子は、村長が願いを妻に叶えてもらっているのをただただじっと見ているだけではありませんでした。
もう十分望みを叶えてもらっただろう父親に今度は夫である自分が願いを叶えてもらう番だと言い張りました。
そうしてその時から今度は夫の願いを毎日叶えなければならなくなったのです。
愛している夫ですから、自分にできることならばなんでもしてあげたいと思う娘でしたが、けれどもそれは自分の力を使って成し遂げたいものであって、泉の女神に願わなければならないものとは違いました。
けれども夫はそれを許しません。
知識欲の塊の夫は、世界中の本を欲しがり、世界中の民族のありとあらゆる道具を欲しがり、そして世界中の言葉を話せるようにもなりました。
それでも夫は娘に望みを願うことをやめません。
そして娘が逃げ出さないように必ず一緒に行動するようになったのです。
そんなこととはつゆ知らず、娘の両親は娘が婿に大事にされていると勘違いをし続け、幸せのうちにこの世を去りました。
娘は愛する両親を亡くし途方にくれましたが、そんな時間を村長と夫は娘には与えてくれませんでした。
両親の葬儀が終わるとそのまま泉に連れて行き、今日の望みを叶えさせました。
そうしてあくる日もあくる日も、泉に連れ出し望みを叶えます。
とうとう、娘は倒れました。
針金のようになった娘は、文字通り身も心もくたくたになり壊れてしまったのです。
熱に浮かされ立つこともままならない娘を、夫はおぶさり泉に連れて行きます。
そうしてその日に叶うたった一つの願い事を泉の女神に願わしたのです。
ある日、娘は初めて夫の願いを女神に伝えず、両親の薬を願ったあの日以来初めて自分の願いを女神に伝えました。
「それでも私は夫を愛している。夫のやさしさが欲しいのです」
ぽたりと一滴、娘の涙が泉に溶け込んでいきました。
その涙を、泉の底で女神はどんな気持ちで受け取ったのでしょうか。
それはほんの一瞬の出来事でした。
ざばっと水が浮き上がり、一本の矢となって、娘の後ろにいる村長の息子の胸に深々と突き刺さりました。
ゆっくりと娘に倒れ込む夫は、どうして自分がこうなってしまったのかを瞬時に悟りました。
それは娘が泉の女神に自分を殺すように願ったに他ならないからです。
村長の息子は最後の力を振り絞って、自分に刺さった矢を抜きました。そして娘の胸を貫こうとした時、その矢はぱしゃんと音を立てて水に戻りました。その水を握りつぶすように拳を作り、夫は息絶えました。
娘の愛する夫は最後まで娘の気持ちを理解しませんでした。
今何が起こったのか、娘は全く理解できませんでした。
自分が女神に願ったのは、夫の優しさであって夫の死ではなかったからです。
「どうして……」
泉に向かって投げかけた言葉に、泉の女神が水面に現れ答えました。
「娘よ。そなたの夫のやさしさは、その死を持ってしか手に入らぬのよ。そなたがどんなに心壊れるほどに尽くそうと、その男とその男の親に、そなたの想いは伝わらぬ。そしてわらわもそなたの願いによって穢されてしまった。もうこの泉は清らかではいられぬ。今後数百年に渡って澱み続けるだろう。じゃから、そなたの願いももう聞きとけることはできぬ。そなたの一生と申しておったがそれが叶わぬのは信条に反するが、それもそなたの願いの一部なのだからしかたはあるまいて。……さらば、哀れな娘よ」
透き通った水音がはねたあと、今まで美しく透明だった水面が底のほうからどんどんと汚れていき、あっという間におどろおどろしい澱んだ水へと変わってしまいました。
そんなつもりではなかったのに。
腕の中に眠っている夫をそっと横たえて最後に小さくキスをすると、娘は森の奥へと向かいました。
その日から娘を見かけたものは誰もいないということです。
このお話はこれでおしまいです。
いかがでしたでしょうか?
娘はどうすればよかったのでしょうか?
そのことを考えてみたくて書いたお話です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました