第9話 アイドルとして聞いてません
個室に入ってから、美月は向かい側へ座ってよかったと思った。横に座ったら、聞く前に逃げ道がなくなる。
四人用の卓には小さな網があり、排気の音が頭上で低く続いていた。高城が店員へ注文を伝え、美月はメニューの同じ場所を見つめる。
「食べられないもの、ない?」
「辛いものは、あんまり」
「じゃあ、これは別皿で」
店員が出ていき、引き戸が閉まった。高城はおしぼりを畳み、美月の前へ水差しを寄せる。
「何があったの」
さっき自分が、食べながらでいいと言ったから聞いてくれている。それなのに、いざ問われると資料の話へ戻りたくなった。
「奈緒さんと、飲みに行くんですか」
仕事の話に逃げるより先に、聞きたいことが出た。
高城が一度、瞬きをした。
「小坂さん?」
「はい。今日、廊下で話してたので」
「来週の?」
「そうです」
引き戸が開き、飲み物と小皿が運ばれた。美月は店員へ礼を言い、手を膝へ戻した。仕事で何度もしてきたはずの返事が、今は奇妙に遠い。
戸が閉まると、高城は首を傾げた。
「行くけど。それで、何か気になる?」
肯定の方だけが先に耳へ入った。美月はグラスへ手を伸ばし、水を一口飲む。
「いえ。普通に、予定の確認です」
「相沢が、俺の?」
「……変ですか」
「仕事なら、水野さんに聞くと思って」
その通りだった。担当者の予定を全部知らないのは普通だし、自分が確認しなくても仕事は進む。
高城は美月の顔を見て、何か言いかけた。そのとき肉の皿が来たので、いったん口を閉じる。店員が網の注意を説明し、また二人になった。
「焼いていい?」
高城がトングを持った。美月は頷いた。熱い網に肉が載る音が、考えすぎる頭に少しだけ余白を作る。
「仕事の予定を聞きたいんじゃ、ないです」
高城はトングを動かす手を止めなかった。けれど、次の一枚を置かず、美月へ視線を戻した。
「うん」
「誰とでも、仕事の後、こうやってご飯に行くんですか」
「誰とでもじゃない。都合と相手による」
「そうですか」
終わりにするには早かった。美月は網を見た。肉の端が色を変えているのに、自分は何も焼けていない。
高城が一枚を裏返してから言った。
「それ、嫉妬してるって聞いていいの」
美月は顔を上げた。笑われると思ったが、高城はからかう口元ではなかった。
「そうだったら、困りますか」
今度は、相手の方がすぐに答えなかった。
排気の音が続く。美月は待った。いつも一言足りない人なのだから、こちらが先に答えを置けば、また欲しい言葉がないまま終わる。
「困る」
高城が言った。
美月は膝の指を伸ばした。立ち上がらずにいられるよう、足を床へつける。
「アイドルだから、ですか」
「それもある。俺は担当だから」
「私に恋人ができると、仕事で困るってことですか」
「今は、俺への嫉妬の話じゃなかった?」
美月は、はい、と小さく答えた。傷つかない方へ言葉を動かすと、質問まで別のものになってしまう。
高城は焼けた肉を美月の皿へ置き、自分の分を取り、それからトングを置いた。
「食べながらでいいって言ったけど、先に話そうか」
「私、変なこと聞いてますよね」
「変とは思ってない」
「じゃあ、私に好きな人がいたら、高城さんはどう思いますか」
高城が水を飲もうとした手を止めた。さっきまではこちらの顔をよく見ていたのに、今度はグラスへ目を落とす。
「それ、誰かいるって話?」
「いたら、って話です」
「相手による、としか」
「じゃあ、私と同じ年くらいで、仕事の邪魔をしない人だったら」
美月はその仮定を、自分で少し嫌になった。そんな誰かの顔は浮かばない。向かいの人がどう答えるかだけ、聞きたい。
高城はグラスを置いた。
「仕事の相談なら、相手の年齢だけで何か言わない」
「アイドルとして聞いてません」
言い切ると、高城が美月を見た。
いつものように言い返さず、網の火を少し弱くする。美月は網から顔を上げた。
「私が、高城さんじゃない人を好きだったら。担当者としてじゃなくて、どう思うんですか」
高城は肘を卓から下ろした。
「嫌だと思う」
美月は自分の聞き方を、一度頭の中で確認した。今の答えを、仕事の心配へ戻す余地はないはずだった。
「それは……」
「女性として好きかってことなら、好きだよ」
美月はグラスの水面を見た。何かが大きく変わった音はしなかった。隣の部屋から小さな笑い声がして、遠くで皿を運ぶ音がする。自分の席だけが、まだ次の一口へ進めなかった。
「そんな、簡単に」
「簡単じゃないから、言わなかった」
高城の声が、さっきより低かった。
「担当になって三か月で、二十二の相手にこれを言うのは、軽く済ませられない。断りにくい立場にもしたくない」
「私、断る話をしてないです」
「うん。でも、話す必要はある」
美月は頷いた。好きだと言われた途端、今までの仕事も、これからの仕事も都合よく無関係になるわけではない。それは分かる。
けれど、美月が何も言わないまま高城に決めてもらうのも、違うと思った。
「何も聞かない方がよかった、っていうのは嫌です」
「聞いたことを責めてない」
「困るって、言いました」
高城は息を吐き、言い直した。
「お前だから困る。どうでもいい相手だったら、ここで距離を置くって言えば済むから」
美月は口を開きかけて、閉じた。お前、と呼ばれたことに抗議する予定などなかったのに、その一言まで普段と違って聞こえた。
網の上は空になっていた。火がついているだけの場所を見ながら、美月はやっと自分の番へ戻ってきた。
「私も、好きです」
声は小さかったが、聞こえなかったふりをされる距離ではない。
「高城さんが、好きです。奈緒さんとご飯行くって聞いて、嫌でした。何も知らないのに、勝手に嫌で。今日、取材の最初まで、変な答えをしてしまって」
「仕事には、戻せた?」
「戻しました。水野さんにも謝りました。そこは、ちゃんとします」
高城が頷いた。美月は、好きと言った直後まで仕事の確認をするのかと思ったが、それを確かめない人を好きになったわけでもなかった。
「私、仕事では手加減してほしくないです。でも、今は、私の話として聞いてほしい」
「聞いてる」
高城はそう言ってから、こちらへ少し身を寄せた。
「好意があるって答えたのは、仕事を続ける条件を出したいからじゃない。そこは分ける。俺の立場の方を整理しなきゃいけない」
美月は、はい、と答えた。高城は箸を取らず、ほかに気になることはないかと尋ねた。
「……お肉、冷めますね」
高城が皿へ目を落とした。焼けた最初の一枚は、二人ともまだ食べていなかった。
「もう冷めてると思う」
「高城さんの説明が長いから」
「足りないって、いつも言うのに」
美月は箸を持ち、冷めた肉を食べた。味はちゃんと分かった。高城も自分の皿から食べ始め、それから次の肉を網へ載せた。
今度は美月がトングを受け取った。話す方に手を全部取られたくなかった。
「私、こういうの慣れてないので、上手く聞けないことがあります」
「今日は、だいぶ聞けてると思う」
「聞かないと、答えないので」
高城は否定しなかった。次の皿を美月へ回すときだけ、分かりにくくして悪かった、と言った。
最後の野菜を網へ置くと、高城が少し火を戻した。美月は焦がさないよう、ゆっくり裏返した。今まで言えなかったことを全部話したくなったが、今日取材で聞かれた質問のようには整理できていない。
「これ、今言っておいた方がいいこと、ほかにありますか」
「試験みたいに考えなくていい」
「考えてないです。分からないだけで」
「俺も、すぐ全部分かるわけじゃないよ」
美月はその返事を聞き、野菜を皿へ取った。
その後は、全部を決める会話にはならなかった。今夜は互いの気持ちを確かめたところで止め、仕事上の相談は落ち着いた時間に話す。高城が会計をまとめようとしたので、美月は自分も出すと言い、半分を払った。
店員が戸を開ける前、高城が美月の椅子の背へ目を向けた。
「バッグ、忘れてる」
「忘れてません。今取ります」
取りに戻り、二人で廊下へ出た。食事の間に何度も好きという言葉を使ったのに、受付へ向かうときの二人の間は、来たときと同じくらい空いていた。
階段を下りながら、美月は今日の会話を順に確かめた。好きだとは言われた。自分も言った。仕事のことも、ちゃんと考えると言っていた。
それなのに、一つ、大事な言葉がない。
外へ出て、夜風が頬に当たったところで、美月は高城のシャツの袖を軽くつまんだ。
「あの。まだ、終わってないです」




