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第10話 感じの悪い恋人

 高城は階段の下で止まった。

 美月はつまんでいた袖を離した。店の入口にはまだ人が出入りしている。話すなら端へ寄った方がいいと思い、看板から少し離れた壁際へ移った。


「何が、終わってない?」


 高城が隣へ来て聞いた。美月は自分のバッグを両手で持った。どんな質問にも落ち着いて返すための台本が、今夜に限っては一枚もない。


「私たちって、何なんですか」


 高城の眉がわずかに上がった。


「さっき、話したと思うけど」


「好きとは言いました。言ってもらいました。でも、何になるかの話はしてません」


 口にすると、自分の方が随分せっかちに聞こえた。今夜すべてを決めなくていいと、食事中は思っていたはずだった。けれど、このまま別れた後、明日の返事をどんな気持ちで待てばいいのか分からない。

 高城は店の前の人の流れを見てから、美月へ向き直った。


「関係を決めないまま、会おうとしてるんじゃないよ」


「それを、言ってほしいです」


 今度は言えた。

 高城は短く頷いた。


「俺と、付き合ってください」


 敬語だった。

 美月は高城を見たまま、返事をすることを忘れそうになった。さっきまで一言足りないと言っていたのは自分なのに、揃えて渡されると、それを受け取る手が見つからない。


「……はい」


 ようやく声にした。


「私も、高城さんと付き合いたいです」


 高城の肩が、目に見えて下がった。緊張していたのかもしれない。自分だけが一方的に勇気を使っているのではなかったと思うと、美月もバッグの持ち手を緩められた。


「今の返事、遅いから少し焦った」


「普段の高城さんに比べたら、早い方です」


「比較対象、それ?」


 美月は頷いた。こんなときまで可愛く受け取れないのは仕方がない。高城は困った顔をしたが、申し込みを撤回する様子はなかった。


「じゃあ、恋人ですか」


「そうなるね」


「私の彼氏?」


「うん」


 確認してから、美月は口元を押さえた。言葉にした方が恥ずかしい。それでも一度聞いてしまえば、別れた後で勝手に意味を変えなくて済む。


「最初、ほんと嫌いでした」


 高城は少し顎を引いた。


「今、言う?」


「今なら言っていいかなって」


「前から、わりと言ってたと思う」


「言い方が悪いとは言いました。嫌いとは言ってません」


 店から出てきた人が脇を通ったので、美月は壁へ近づいた。高城も半歩寄り、通り道を空ける。通りへ出る角の向こうに、駅の明かりが見えた。


「写真、同じ顔だって言われた日、帰って何回も見ました」


「うん」


「絶対、間違ってるところを探そうと思って」


「見つかった?」


「言い方以外は、あんまり」


 高城の口元が緩んだので、美月は先に続きを言った。


「今も結構嫌いです」


「結構か」


「でも、好きです」


 美月は高城の顔を見上げた。初対面では分からなかったが、黙っている間にも、その目は少しずつ表情を変える。


「……今のは、ずるいね」


 高城が言った。美月は返そうとして、距離が近いことに気づいた。

 高城の手が、美月の腕の外側へ軽く触れた。引き寄せるほどの力はない。美月がそちらへ身体を向けると、彼は一度止まった。


「いい?」


 何を、と聞かなくても分かった。美月は頷いたが、高城がまだ待つので、小さく、はい、と答えた。

 触れたのは短い時間だった。

 唇が離れた後、排気口の低い音が急に耳へ戻ってきた。さっきから鳴っていたはずなのに、聞こえていなかった。

 高城は手を離し、美月の顔を確かめるように見た。


「大丈夫?」


「……確認が、仕事みたいです」


「しないよりいいと思って」


 それはそうだった。美月は言い返せず、バッグを片手へ持ち替えた。もう片方の手を下ろしたままにしていると、高城の指が近くにある。

 触っていい関係なのだと分かるまで、また少し時間がかかった。


「もう一回、って言ったら、面倒ですか」


 高城がこちらを見た。


「そういうのは、面倒って言わない」


 美月が指先を伸ばしかけたとき、角の向こうから足音がした。


「こっち近道? あ、さっきの店、ここだ」


 二人連れの一人が足を止め、スマートフォンを横に構えた。こちらの背後にある店の看板へ向けている。高城が通路側へ半歩離れ、美月も看板の正面から退いた。

 細い路地は、二人で立てば半分埋まった。美月は手を伸ばしかけたままの指を、バッグの持ち手へ戻した。


「今度、ここ来ようよ」


 写真を撮った人は、連れに画面を見せながら駅の方へ歩いていった。レンズを向けられる前の数秒が、急に気になった。撮られていたら、どんな顔で隣に立っていただろう。

 高城も、二人連れが曲がった角を見た。


「ごめん。俺が先に、場所を考えるべきだった」


「……さっきまで、店の中と同じつもりでした」


 美月は彼を見上げ、もう一度近づく代わりに、足元を確かめた。


「さっき頼んだのは、取り消しませんけど」


「うん。場所を選んで、また」


「忘れないでくださいね」


「忘れないよ」


 その返事で、今は我慢できた。高城が駅の方を示し、美月も頷いた。

 角を出る前に髪を整えようとして、指が耳飾りに触れた。高城は手を出さずに待ち、美月が直し終えると、一人分の幅を空けて歩き始めた。


 大通りはまだ人が多かった。二人は仕事帰りと同じくらい距離を空けて並んだ。さっきまでは遠いと思った幅なのに、今は間に置かれた空気まで違って感じる。


「帰り、電車で大丈夫?」


 高城が駅の時計を見た。


「まだ早いですし。乗り換えも一回なので」


「送るなら、途中まで同じだけど」


「どこまでですか」


 路線を聞くと、本当に途中の駅までは一緒だった。美月は少し迷った。ずっと一緒にいたいと思うのと、今日聞いたことを一人で確かめたいと思うのが、同時にあった。


「今日は、ここでいいです。家着いたら、連絡していいですか」


「もちろん。俺も帰ったら連絡する」


 そこへ、迷わず返事があった。美月は一度頷いた後、また質問した。


「何の連絡ですか」


「家に着いたって」


「それ以外にも、何かあっていいです」


「要求が増えた」


「まだ、序盤です」


 高城が立ち止まり、美月も止まった。駅の入口の横で、店を探す人たちがスマートフォンを見比べている。二人も道の端へ寄った。


「今日のこと、後から無理だったことにしないでくださいね」


 美月は声を落とした。冗談の後なら、真剣なことも言えると思っていたが、言い終わると少し怖くなった。

 高城はその問いを笑わなかった。


「しない。仕事の整理は、明日からちゃんと話す。でも、それを理由に今日の返事をなかったことにはしない」


「はい」


「相沢も、気持ちが変わったときは言って。俺に合わせて、断れなくなる必要はないから」


 美月は、変わりません、と言いたくなった。けれど、断れることも今もらっているのだと思い、うん、と受け取った。

 そのうえで、今の気持ちを付け足す。


「今日は、好きになってよかったです」


 高城は視線を一度外し、駅の入口を見た。すぐに言い返してこないのを、今夜は自分の勝ちにしておこうと思った。


 改札へ入る前、高城が明日の集合時間を確かめようとしたので、美月は水野から来ていると答えた。


「業務連絡は、もう見ました」


「はい」


「その返事、急に丁寧ですね」


「今、注意されたから」


 美月は笑い、改札へカードをかざした。向こう側で振り返ると、高城はまだ立っていた。手を振ってよいか迷い、小さく片手を上げる。高城も同じくらいの高さで返した。


 電車ではドアの脇に立った。窓へ映る顔が、どう見ても落ち着いていない。美月はスマートフォンの黒い画面で前髪を確かめるふりをし、そのまま連絡欄を開いた。

 明日の持ち物の通知が先に目へ入る。恋人になった相手の名前が、業務の連絡にも普通に並んでいた。どちらも同じ人なのだと、画面の中でもう一度確かめた。

 まだ家に着いていないのに、何か送りたい。

 ありがとうございました、では食事のお礼になってしまう。楽しかったです、だけでは今夜を上手く収めすぎている。

 一駅考えて、結局何も送らなかった。


 家ではいつも通り鍵を掛け、靴を揃えた。洗面台で手を洗い、バッグから財布と資料を出す。恋人ができても、使ったハンカチは洗濯かごへ入れなければならない。

 そこでようやく落ち着いたので、机に座って送った。


『家に着きました。今日は誘ってよかったです』


 返信を待つ間に風呂の湯を入れようと思った。立ち上がる前に、画面が光る。


『俺も着いた。誘ってくれてありがとう。おやすみ』


 足りない言葉がないか探す癖で、美月は二度読んだ。今日は、ちゃんと書かれていた。

 もう一つ聞きたいことも、もう一度呼びたい名前もある。でも、それは次に会う理由に残しておける。


『おやすみなさい。また明日』


 送信してから、美月は口元へ手をやり、笑ってしまった。

 風呂の湯を入れるつもりだったことを思い出し、スマートフォンを机へ置いた。

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