第8話 面倒くさい日
「じゃあ、来週の夜、空けておいてくださいね」
小坂奈緒の声は、事務所の廊下の角を曲がる前に聞こえた。
美月は足を止めなかった。台本の差し替えを受け取るため、受付から制作室へ行くところだった。角を曲がると、奈緒がスマートフォンを持ち、高城へ画面を見せている。
「店、こっちに変わったので」
「分かった。時間、後で送って」
高城が答えた。その声に特別なものはなかった。いつもの、短くて、相手が分かるだけで終わる返事だった。
だからこそ、奈緒とはそれだけで足りるのだと思った。
「おはようございます」
美月が挨拶すると、奈緒は顔を上げた。
「あ、美月さん。ドラマ、お疲れさまでした。反応、よかったですね」
「ありがとうございました。初日、本当に助かりました」
「またご一緒できるといいですね。今日は企画の資料を持ってきていて」
奈緒は腕に抱えた薄い封筒を示した。美月は、またお願いします、と頭を下げた。仕事中に世話になった相手へ、それ以外に何を言う必要もない。
高城は制作室のドアを押さえ、美月へ先に入るよう促した。
「差し替え、机の上にある。水野さん、今電話」
「はい」
奈緒と高城は廊下に残った。美月は一人で制作室へ入り、指定の封筒を開いた。午後の取材用資料が二枚。グループの今後の目標と、個人で挑戦したいことを確認される。
もう一度芝居をやりたい。それは決まっていた。書く内容に困っていないのに、美月は同じ見出しを二度読んだ。
来週の夜。店が変わった。
それだけの会話から、何が分かるのだろう。仕事相手と食事をするのは珍しいことではない。奈緒は高城より少し若いだろうが、美月よりずっと落ち着いていて、あの説明不足に困らないように見えた。
自分には関係のない話だ。
美月はページを閉じた。閉じても、頭の中の会話は止まらなかった。
午後、取材用の会議室には、都和と美月が座った。水野は入口側の壁際にいて、記者は小さな録音機を机の中央へ置いている。
前半のグループの話は、都和が中心になって答えた。美月も追加で加入した当時の話をする。覚えていたはずの面白い出来事は出さず、助けてもらったこと、早く追いつきたいと思ったことを、順番に言った。
「個人では、お芝居にも挑戦されましたね。撮影中に印象に残ったことは?」
美月は姿勢を正した。
「皆さんに大変よくしていただいて、勉強になりました」
「たとえば、演じ方で変わったことはありましたか」
「そうですね。現場ならではの学びが、いろいろありました」
自分の答えが何も言っていないのは、言い終わる前に分かった。記者のペンが止まり、次の質問へ移る気配がする。
さっきから、自分の言葉を出すと、ほかのことまで顔に出そうで怖かった。そんな理由で、この人の取材時間を使っていいはずがない。
「すみません。今の、具体的に言い直してもいいですか」
記者が、もちろん、と頷く。美月は録音機を一度見てから、相手へ視線を戻した。
「台詞を覚えるのと、相手に返すのは違うんだなって思いました。台本では笑わないと思っていたところで相手が笑うと、最初、返せなくなって」
机の下で足を床へつけ直す。今はカップも砂糖もないが、自分の知っている現場なら話せる。
「それで、どうされたんですか」
「一回、相手が何をしてるか見るように言われました。カップをいじっていて、笑ってるけど本当は平気じゃないのかもしれない、と分かったら、次の言葉が出しやすくなりました」
記者のペンが動き出した。都和が、最近トークでも相手を見る時間が増えたと添えてくれた。美月は都和へ礼を言い、もう一度芝居をやりたいという話まで、自分の言葉でつないだ。
取材が終わると、記者は撮影時の具体的な話が聞けてよかったと言ってくれた。美月は頭を下げ、見送りの後で水野へ向き直った。
「最初、すみませんでした。準備不足ではないんですけど、集中できてなくて」
言い訳に聞こえると思い、言い足すのを止めた。
水野は資料を揃え、机の上を一度確かめた。
「途中で戻せたのはよかった。次は最初から話せるように、取材前に少し落ち着く時間、取ろうか」
「はい。自分でも、そうします」
都和はこの後別の打ち合わせがあるため、先に会議室を出た。美月がバッグへ資料をしまっていると、水野が、体調は悪くない、と確かめた。
「大丈夫です。頭の中が、うるさいだけで」
「仕事のこと?」
「いえ。自分のことで」
水野はそれ以上を尋ねず、疲れがあるなら今日は帰って休んでいいと言った。美月は礼を言ったが、帰っても奈緒の声を思い返すだけだと分かっていた。
会議室を出る前に、都和へも連絡した。途中から助けてもらったことへの礼と、次は初めから具体的に話すという短い文を送る。返信には、撮影の話は自分も初めて聞けたので面白かった、とあった。
美月はそれを読み、少し息を吐いた。
奈緒は仕事で美月を助けてくれた人だった。廊下でも普通に声を掛けてくれた。その人へ何か腹を立てる理由はない。
美月は自分が聞いた会話を、手帳の端へ短く書こうとしてやめた。写真のことも台本のことも、分からなければ本人に聞いてきたのに。
ただ今度は、答え次第で自分が傷つく。その可能性のせいで、いつもできる質問が、できなくなっている。
手帳を閉じ、取材資料の方だけをクリアファイルへ戻した。
廊下の自動販売機で水を買った。高城に感想を聞くときは、聞きたいと言えば済んだ。会う理由はいつでも仕事の中にあった。
ただ、食事をしてほしいと思った場合は、何と言えばいいのだろう。
ドラマの打ち上げがどうなったのかを聞きたい。奈緒と二人で会うのか知りたい。知ったところで、駄目だと言う立場ではない。それでも、知らずにいる方がもう難しかった。
「何、怖い顔してるの」
自販機の横から声を掛けられ、美月はボトルを握り直した。高城が空の紙コップを捨てにきたところだった。
「してません」
「水、嫌いだった?」
「水は好きです」
「なら、よかった」
高城はそのまま制作室へ戻ろうとした。自分には毎回面倒な説明をさせるのに、こういうときは簡単に終わる。
美月は一歩、後を追った。
「高城さん、今日、仕事は何時までですか」
「あと一時間くらい。何か確認?」
「確認というか……ご飯に、行きませんか」
言った後、ボトルの冷たさが急にはっきりした。高城が立ち止まる。美月は今さら資料を聞きたいふりには戻さず、相手を見た。
「二人で。今日、予定がなければ」
「行くよ」
早かった。
「……行くんですか」
「誘ったの、相沢だけど」
「そうですけど、少しは考えるのかと」
「考えて断ってほしかった?」
「違います」
ボトルをバッグへ入れようとして、ファスナーが閉まっていることに気づいた。高城が見ているので、何でもない動作のように開け直す。
「何が食べたい?」
「えっと、ちゃんと食べるもの」
「だいぶ候補あるね」
「焼肉とか」
自分でもどうして焼肉と言ったか分からなかった。前に水野から個室の店の話を聞いたのを、思い出したのかもしれない。高城は、店を探すから一度仕事へ戻ると言った。
「水野さんには、帰る時間を伝えておいて」
「はい」
「待つ場所、ここでいい? 受付の先のソファ」
美月が頷くと、高城は制作室へ入った。会話が終わるまで、奈緒の名前は一度も出なかった。
美月は壁際でスマートフォンを出し、水野へ今夜の予定を送った。高城と仕事後に食事をすることだけを、短く伝える。返信は、了解、帰りの足は自分で確認してね、だった。
待っている間に、取材の答えを手帳へ残した。最初に言葉が出なかったことも、言い直せたことも書く。
書き終えると、一時間は思ったほど長く残っていなかった。
高城が鞄を持って現れ、美月は立ち上がった。
「個室、空いてた。駅の反対側だけど、歩ける?」
「歩けます」
外へ出ると、昼の熱がまだ道に残っていた。高城と並ぶとき、美月は半歩ほど距離を空けた。いつもの仕事帰りの位置と変わらない。
何を最初に聞くか考えていたのに、角を曲がるたび、店が近づくことばかり意識した。
「今日、何かあった?」
高城に聞かれ、美月は少し迷った。
「ありました。でも、食べながらでいいです」
声にすると、引き返したい気持ちは少し減った。
「分かった」
今度は答えを用意していた方がいい。なのに、短くしたい一言ほど、どの順番にすれば言えるのか分からなかった。




