第7話 褒めるなら具体的に
台詞は、全部入っていた。
それなのに相手役が少し笑って言うと、美月は返すタイミングを失った。読んできた台本では、笑う場面だと思っていなかったからだ。
「ごめんなさい。もう一度、お願いします」
セットの小さな事務机を挟んで、美月は頭を下げた。初めて台詞のある役をもらった短編ドラマ、その撮影初日のことだった。
主人公の同僚で、出るのは三場面。役名も台詞もある。テスト映像の結果を水野から聞いた夜は、台本を受け取る前から手帳に撮影日を書いていた。
今は、その日付をもっと後へずらせたらと思っている。
「こちらは、台詞を決めた調子で言わなくて大丈夫です」
監督がモニターの向こうから近づいてきた。高城は初日の打ち合わせに顔を出していたが、今は別の現場へ行っている。美月の後ろには水野がいる。助けを求める目を向ける代わりに、美月は監督の説明を聞いた。
「相手が、本当に困ってるのか誤魔化してるのか、一回見てから返してもらえますか」
「はい。間は、長くなりませんか」
「見て、返す分は待てます。決めてた顔を出そうとして止まる方が、今は気になります」
相手役の女性が、自分も少し言い方を変えてみると申し出てくれた。美月は椅子へ座り直した。机の上のファイルを開く動作は同じ。台詞が来る場所も同じ。分かっていなければならないことは、準備してある。
次のテイクでは、相手の指がマグカップをいじっているのに気づいた。笑っているが、目はこちらを見ない。
「全然、平気だって」
その台詞を聞き、美月は予定していた微笑みをやめた。
「平気な人、そんなに砂糖入れないです」
台本通りの言葉だった。ただ、カップを見てから顔へ戻る順番になった。
相手役が砂糖の袋を見下ろし、困ったように口を緩める。美月も今度は、台詞の後に来たその顔を待てた。
「カット。今のでいきましょう」
美月は返事をする前に息を吐いた。水野が後ろで親指を上げてくれた。初めて、三場面のうちの一つを、全部記憶したままではなく、実際に通り過ぎた気がした。
休憩では、制作スタッフの小坂奈緒が次の撮影場所を案内してくれた。机と廊下の場面は同じ建物でも階が違う。美月は私物を置く場所を聞き、衣装のまま移動してよいことを確認した。
「台本、書き込みすごいですね」
奈緒が覗き込まず、閉じた台本の付箋を見て言った。
「不安だと増えるんです」
「それでちゃんと準備してきてるの、現場は助かります。さっきみたいに変えられるなら、持っていて困るものじゃないですよ」
美月は礼を言った。監督に言われたことを忘れないうちに書き足そうとして、奈緒に呼ばれ、まず次の場所へ歩いた。
撮影を終えた夜、水野の車で事務所へ戻った。次の仕事から帰ってきた柚葉が、玄関でダンスシューズの袋を持ち直している。
「ドラマ、どうだった?」
「最初、全然返せなかった。台詞は覚えてるのに」
「ああ、分かる。私も先生が音の取り方変えると、一瞬足が止まる」
柚葉は笑い、今日はダンス企画のテスト収録だったと教えてくれた。振付を間違えないことだけでは足りず、別の人が前へ出たら自分の幅を狭くしたり、後ろの人が見えるよう位置を変えたりする。
「前に教えてくれたの、そういうことだったんだね」
「うん。踊れる場所は確保して、でも皆の場所も残す感じ」
美月は頷き、相手役がカップをいじっていた指を思い出した。
柚葉が荷物を抱えて水野の車へ向かい、美月は事務所へ入った。高城の机には誰もいなかった。報告したいと思っていたことを、いったん業務の連絡欄へ短く送る。
撮影終了しました。最初の場面は撮り直しましたが、全場面を終えました。
返事は帰りの電車の中で来た。
『お疲れさま。放送楽しみにしてる』
美月は二度読んだ。楽しみと言われるだけで、撮り直した時間が急に別のものになるのは困る。放送でがっかりされる方が、今はもっと困ると思った。
それから二週間ほど後の夜、美月は家で膝にクッションを抱えていた。
ドラマが始まって十七分。自分の出番が近い。台本を横へ置いたが、字幕の一字ごとに覚えてきた台詞が戻ってきてしまう。
画面の中で、相手役がカップを回した。
「全然、平気だって」
自分の顔が映る。砂糖の袋へ目を落として、返すまで。撮影していたときより、ずっと短い時間だった。
言葉の後に、相手が困った顔になる。次のカットへ移っても、美月はしばらくクッションから手を離せなかった。
役としてそこにいたように見えた。自分がぎこちないと思う角度もあったけれど、全部が緊張したアイドルの顔ではなかった。
放送が終わると、グループの連絡欄に絵里香が感想を送ってきた。砂糖何本入ってたの、という質問から始まっている。都和は三場面それぞれの違いに触れ、芹佳は相手の顔を見て返したところがよかったと言ってくれた。柚葉からは、最後の振り向き方が好き、と届く。
美月は順に返した。撮影中にもらった助言がどこに出ているかを、自分で説明できるのが嬉しかった。
高城からは、何も来なかった。
翌日、音合わせのために事務所へ行った。美月は声を出す準備を終えた後、制作室の入口へ向かった。高城は机で、ライブ映像の確認をしている。美月が扉を軽く叩くと、イヤホンを外した。
「五分くらい、いいですか」
「いいよ」
「昨日のドラマ、見ました?」
「見た」
高城が画面を一時停止した。美月は入口の内側の椅子へ座った。机の上には別の仕事の資料が並んでいて、撮影の話を長く続ける余裕はないかもしれない。だから先に聞く。
「どうでしたか」
「良かった」
美月は頷きかけて、止めた。
「褒めるなら、具体的に」
高城は美月を見て、椅子を少し回した。
「一場面め。相手の台詞が終わっても、すぐ返さなかったところ。カップ見て、顔見てから言ってた。砂糖を指摘する台詞に、理由があった」
美月はクッションを抱えていた手を思い出した。自分がよかったと思ったところと、重なっている。
「最初は、すぐ返してしまったんです」
「うん」
「言う顔まで決めてきてて。笑って言われたら、分からなくなって」
「そこを変えられたんだね」
美月は膝の上で指を組んだ。台本へ何行も書いたことを、一息でまとめられてしまった。その短さが、今日は嫌ではなかった。
「頑張ったんです、あれ」
「知ってる」
たった四文字だった。
高城は褒める顔もせず、今見たものを答える声で言う。美月は返事の場所を見失った。
「……水野さんから?」
「撮影初日の報告も聞いたし、相沢から来たメッセージも読んだ」
「それだけで、頑張ったって分かるんですか」
「最後に、映像見たから」
机の向こうでプリンターが動き始めた。美月は音に少し助けられた。顔が熱い理由を、今ここで説明する必要がなくなる。
「ほかの二場面は?」
「廊下の方は、振り向いてから喋るまでがちょっと速い。でも最後の机の場面は、前を受けた変化があった」
「廊下、私も気になりました」
「次、やるときに使えるね」
高城はプリンターへ立った。美月も椅子から立ち、席を使わせてもらった礼を言った。聞きたいことは聞けたのに、もう少しここへ座っていたかった。
「また、やりたいです。芝居」
「水野さんにも言って。日程とレッスン、見てもらおう」
「はい。仕事にしたいです、って言います」
高城が頷き、出てきた紙を揃えた。美月が椅子を戻すと、高城の手が止まった。
「もう行く?」
「五分って言ったので」
「まだ、なってないけど」
美月は椅子の背から手を離さず、高城を見た。
「じゃあ、一つだけ。昨日、自分が映るところで、クッション抱えて見てたんです」
「三場面、全部?」
「全部です。出番じゃないところでも」
高城が笑った。美月は余計な報告だったかと思ったが、彼は紙を机へ置き、続きを待っていた。
「終わってから、腕が疲れてました」
「力、入りすぎ」
「見る方も、初めてだったので」
高城はまだ笑っていた。美月は時計を確かめ、今度こそ礼を言って制作室を出た。
廊下の壁へ一度肩を預ける。通りかかった絵里香に見つかり、どうしたのと顔を覗き込まれた。
「昨日の感想、もう一回聞いてた」
「私も言おうか。砂糖の袋、全部で四本あった」
「数えたの?」
「画面止めた」
美月は笑い、絵里香と練習室へ戻った。姿勢を整えて声を出すと、いつもより息が長く続いた。芝居の後だからかもしれないし、昨日ちゃんと眠れたからかもしれない。
音合わせの終わりに、水野へ次も芝居をやりたいと伝えた。放送されたからすぐに別の役が来るわけではないが、レッスンは続けられる。次回は台詞を言う前だけでなく、言った後に相手を見る課題にすると決まった。
美月は日程を手帳へ書いた。昨日の放送で終わったものと、これから練習できるものを、別々の欄に残した。
夜、感想を送ってくれた人へのお礼を書いた。役名で呼んでくれた人もいて、次の仕事へつなげたいと思った。読み返した後、スマートフォンを机に置く。
皆の言葉はちゃんと嬉しい。どの場面を気に入ってくれたのかも、忘れたくない。
けれど歯を磨いている間、繰り返し戻ってくる声は一つだった。
知ってる。
美月は鏡の中の自分へ、そうですか、と返す練習をした。今さら練習したところで、次に同じ声で言われたら、また同じところで止まる気がした。




