第5話 コーヒーくらい取ってください
コーヒーが、あと十センチ遠かった。
美月は机の端へ伸ばした手を引っ込めた。片方の肩には衣装を留め直すクリップ、膝には次の出番の進行表がある。立ち上がれば取れるが、立ち上がらないで取ってほしい日もあった。
反対側では高城が、ライブで使う映像の確認表へ何かを書いている。
「高城さん、コーヒーくらい取ってください」
「くらいなら、自分で取れるんじゃない」
「手が届きません」
「椅子動かせば」
「動くと肩が崩れるので。留めてもらったばかりです」
高城が顔を上げ、ようやくクリップを見た。机の向こうに置かれた紙コップへ手を伸ばし、そのうち一つを美月の前へ滑らせる。
「そういうのは先に言って」
「頼んだら取ってくれる方が早くないですか」
「先に言っても早い」
隣の鏡の前から、衣装担当者が戻ってきた。クリップを外して縫い留める間、美月は姿勢を保ち、高城も確認表へ目を戻した。
五月後半、小さな音楽番組の収録だった。リュミエールの出番はトークと一曲。先に歌のカメラリハーサルを終えたが、前の出演者の準備で二十分空いている。ほかの四人は隣の待機室で番組側の説明を受けていた。
「はい、これで大丈夫。動かしてみて」
美月は衣装担当者へ礼を言い、肩を回した。引っ張られる感じはない。立ち上がって腕を下ろし、鏡でも確かめてから椅子へ戻った。
高城のペンが、確認表の一箇所で止まっている。
「何か、変わったんですか」
「二番の照明。柚葉の移動先が暗かったから、一拍早く切り替えられるか確認してる」
「私、次の位置に入るとき、柚葉と手を合わせるんですけど」
「そこは今のまま。動きは変えない」
高城は机へ小さな図を描いた。美月が手を合わせた後に抜ける道と、柚葉が向きを変える位置を、別の矢印で示す。
それなら直前に振付を変えずに済む。美月が頷くと、高城は図をスマートフォンで撮り、番組側への確認事項へ戻った。
「そこ、皆にも見せてもらっていいですか」
「もちろん。返事来たら一緒に確認する」
美月は紙コップへ目を落とし、まだ飲まずに机へ置いた。礼を言った方がいいと思ったが、最初の頼み方があれだったので、なぜか言い出しにくい。
「ありがとうございます。コーヒー」
「どういたしまして」
「言えるんですね」
「何が」
「そのくらい素直なこと」
高城が確認表の角を揃えた。
「取ってって言われて取っただけで、そんなに褒められるとは」
「褒めてるわけでは」
「知ってる」
美月は紙コップの蓋を指で押した。こうやって言い返しても、機嫌が悪くならない。最初の撮影から一月半経って、やっと分かってきたことだった。
敬語を崩さないままでも、言っていいことは少しずつ増えている。高城が三十五歳だと聞いたときは、十三歳も上の人と何を話すのかと思った。今は、そんな心配より、どこまで言えば一言多い返事を引き出せるかが気になっていた。
「修司さんは、いつもブラックなんですか」
高城のペン先が、紙の上で斜めに止まった。
美月は自分のコップを見たまま、何でもない質問をした顔を作る。スタッフ一覧に載っていた下の名前を、前から一度呼んでみたかった。別に意味はない。ないことにしたい。
「職場では高城さんで」
「職場以外ならいいんですか」
「今、その話してない」
「じゃあ、コーヒーの話に戻ります。いつもブラックですか、高城さん」
わざと丁寧に言うと、高城はペンを置いてこちらを見た。
「そう。相沢は?」
「日によります」
「それは幅広いね」
美月はそこで笑いかけたが、控室の入口に人影が映り、姿勢を正した。番組スタッフがリハーサル映像の確認を頼みにきたのだった。
高城は立ち上がり、美月へ十分以内には戻ると言った。美月は、分かりました、と普段の声で返す。
扉が閉まってから、美月は紙コップを両手で包んだ。
しばらくして、水野が美月を呼びにきた。待機室へ移ると、柚葉が新しい照明の説明を受けていた。高城の図がタブレットに表示され、曲のどこで切り替わるかを番組担当者が指で示している。
「あ、さっきの」
美月が言うと、柚葉が顔を上げた。
「私、暗くなるから急いで抜けなきゃって思ってた。変わるなら、音までちゃんと待てる」
高城は、照明が間に合わなかったときの動きは元のままでいい、と付け加えた。変わったことだけでなく、変わらないことも確かめてから、五人はスタジオへ向かった。
本番では柚葉の腕がきれいに伸びた。美月も手を合わせる瞬間、相手が焦らずこちらを見るのが分かった。ひとつの見え方が変わると、隣の人の呼吸まで違う。
最後の音が切れ、五人で頭を下げた。歌いながらコーヒーのことを考えずに済んだのはよかったと、終わってから思った。
着替えを終えた美月は、水野に残ってほしいと呼ばれ、最初の控室へ戻った。高城が机の前に座っている。紙コップは脇へ寄せられ、その場所へ一枚の企画書が置かれていた。
「単独の仕事の打診。まだ確定じゃないから、条件を見てほしい」
水野が紙を美月の方へ向けた。配信を中心にした短編ドラマの企画で、台詞のある役の募集がある。主演ではなく、主人公と数場面を共にする同僚役。芝居を見てもらうため、短いテスト映像が必要だった。
美月は最初のページを読み直した。
「これ、私でいいんですか」
「そこを、これから見てもらう話」
高城の返事に、思わず顔を上げた。
「あ、すみません。決まったみたいな聞き方でした」
「候補に出すのは、いいと思う。やりたかったでしょ、芝居」
美月は紙を持ち直した。演技のレッスンを増やしたいとは、水野に言っていた。高城へ直接話したのは、二週間前、収録の移動前だったはずだ。
「あれ、ただ、昔の映画の話をしただけじゃ」
「その後、自分も演じる方をやりたいって言った」
「言いましたけど」
「歌だけじゃなくて、誰かの会話の中にいる仕事がしてみたい、って」
細かいところまでその通りだったので、美月は企画書の文字へ視線を戻した。何気なく言ったことが、仕事として机の上に載っている。
大きな役でもないし、まだ選ばれてもいない。それでも、選ばれる前の場所まで誰かが話を持っていってくれたのだ。
「相沢の今の映像も送って、テストを見たいって返事が来た。そこから先は本人の仕事」
「はい」
声を出したら、胸のところの詰まりがほどけた。
「でも、もし受からなくても、皆の練習を抜くんですよね」
水野がカレンダーの印を一つ示した。
「テストは全体練習の後。レッスンを一時間足す分は、元の予定と合わせて調整する。美月が全部、誰にも影響しないようにするのは無理だから、そこは相談して決めよう」
「はい。先に都和さんにも話します」
美月は空いている時間を埋める手を止めた。受けると言った途端、準備を増やすことしか考えていなかった。高城は企画書の端へ、選考で見たいものを制作側へ聞く、と書いている。
「うまく見せようとする前に、何の役か読んで。自分だけ出てる場面じゃないから」
「それは、前の収録の話ですか」
「次の仕事にも使える話」
美月は自分のメモにも、相手は何をしている場面か、と書いた。
水野が、テストまでの日程とレッスンの調整について説明した。グループ練習を抜く必要がある時間は、先に全員へ共有する。台詞を読んでもらえる相手も、レッスン担当へ相談できる。美月はカレンダーを開き、大学の講義がもうない平日の欄を見た。
「やります。テスト、受けたいです」
水野が頷き、企画書の控えを渡してくれた。高城は、最初の課題台詞が届いたらレッスン担当と読んでみて、と言う。
「最初から自然にやれとか、言わないですか」
「今、言ってほしいの?」
「いえ、結構です」
美月は紙をクリアファイルへ入れた。角が折れないように、二回確かめる。高城がそれを見ていても、今日は几帳面だと思われることは気にならなかった。
水野が事務所へ電話するため、入口の外へ出た。高城はさっきの確認表をケースへ収め、美月は残していたコーヒーをようやく飲んだ。
舌に苦みが広がる。
「……ブラックだ」
「コーヒーだからね」
「今日は甘いのがよかったです」
「知らない」
即答だった。美月はコップを見下ろした。たしかに、日によるとしか答えていない。さっきの自分が、こんなに早く不利な証言になるとは思わなかった。
苦いのが飲めないわけではなかった。美月はコップを持ち直した。
「次は言います」
「そうして」
高城は持っていくごみがないかと机を見た。美月はまだ飲むとコップを手元へ寄せ、代わりに使い終わった付箋を丸めて渡した。
名前を一度呼んだときより、芝居をやりたいと言った言葉をそのまま返されたときの方が、ずっと恥ずかしかった。
そんなことまで伝える必要はない。美月は企画書の入ったファイルをバッグのいちばん平らな場所へ入れ、もう一口、苦いコーヒーを飲んだ。




