第38話 私の言葉で
台本の余白は、まだ白かった。
美月は一月のスタジオの控室で、最後のページを開いた。準レギュラーとして参加する生活トーク番組の初回。自分の役割は、司会の横でゲストの話を聞き、視聴者に近い立場から短く問いを返すことだった。
見出しは細かく書いてある。名前、作品の呼び方、触ってはいけない展示物。確認が必要な事実には赤い印をつけた。
だが、質問への返事の全文は書いていない。
十二月の打ち合わせで、森岡と番組の担当者から、用意した感想を先に言いすぎないでほしいと頼まれた。美月は分かりましたと答え、最初は感想の文章を減らすことから始めた。
減らしても、頭の中で続きを作ってしまう。そこで練習では、資料を見ずに短い話を聞き、何が気になったかを後から尋ねる形にした。
知っている話でも、相手の言い方が違うと、聞きたいところは変わる。準備した質問を捨てるのではなく、今の話へ近いものを選べるようにする。その作業を何度か繰り返した。
初回のゲストは、古い道具を直しながら木の小物を作る職人だった。美月は紹介の映像を見て、作品名と作業の順を調べた。聞いてみたいことは五つ。その全部を今日使わなければいけないとは、思わないようにした。
控室の扉が開き、水野が呼びに来た。森岡も廊下で待っている。
「変更が一つあります。実演で使う道具の一部が届かなくて、先に完成したものを見る流れになりました」
美月は台本の該当ページを開いた。実演を見るつもりで書いた質問が二つある。
「最初に手順を教えてもらう部分は、なくなるんですね」
「はい。司会の方から紹介して、手元のものを見ながら話します。質問の数を揃えなくて大丈夫です」
美月は鉛筆で小さな矢印を書いた。
スタジオでは、司会と先輩の出演者が先に立ち位置を確かめていた。美月は挨拶し、自分の椅子とテーブルの位置を確認する。ゲストの持ってくる作品は、中央の台へ置かれる。触れる場合は本人の説明を受けてから。カメラが近づくときは、作品の前へ手を出さない。
座った美月の右側に司会、左前方にゲストの席があった。少し身体を向ければ、相手の手元も顔も見える。
床の目印を最後に確かめ、台本を脇へ置いた。
マイクの確認を終えた後、ゲストがスタジオへ来た。美月は席を立ち、名前と今日の役割を短く伝えた。相手は持ってきた箱の袋をスタッフへ渡しながら、よろしく、と笑った。
美月はそこで、資料を全部見ましたと長く説明しそうになり、やめた。
「箱の表面、実物を見るのを楽しみにしていました」
そう伝えると、相手は、写真と光の出方が違うかもしれません、と答えた。
美月は照明の下へ置かれた箱を見た。思っていたより薄い色だ。画面で調べたものと同じはずなのに、自分が立つ角度で傷の見え方が変わる。
本番で触ってもよいかと先に尋ね、蓋の部分は説明があるまで持たない方がよいと教えてもらった。美月は頷き、手元を空けて席へ戻った。
司会がゲストへ確認をしている間、美月は台本の五つの質問をもう一度見る。どれを使うかを今全部決めるのではなく、相手が話したとき、近いものへ手を伸ばす準備だけを残した。
床の先のカメラに赤い灯りがつく。美月は膝の手を一度ほどき、顔を上げた。
収録が始まると、挨拶の後に短い紹介映像が流れた。美月はモニターを見ながら、何を言おうかより、ゲストが自分の仕事をどう見るかを待った。
映像が終わり、職人が少し照れて笑った。
「きれいに映してもらうと、普段より立派に見えますね」
司会が、実際に立派なお仕事です、と返し、作品の話へ移る。木で作られた小さな蓋つきの箱が、台の上へ置かれた。
美月は四月の花の写真を思い出しかけたが、その記憶を話す場所ではない。今ここへ置かれた箱を見る。
職人は、材料に昔の引き出しの板を使ったのだと説明した。傷は残っているが、新しい箱として使えるようにしたという。
美月は事前に考えた、どれくらい時間がかかるのかという質問を思い出した。ところが相手は、傷の場所を指しながら、ここを残すか迷った、と言った。
美月はそちらへ目を向けた。
「残す方にしたのは、どうしてですか」
職人は手を止め、箱の表面を見た。
「元の人が長く使っていたところだから。なくすと、新しい板で作るのと変わらなくなる気がして」
美月は頷いた。用意した返事より先に、展示で見た古い包み紙のことが浮かぶ。ものの正しさを説明したいのではなく、いま聞いた気持ちへ自分の言葉を返したかった。
「使っていた時間も、箱の中身みたいに残るんですね」
職人は美月を見て、それはいい言い方ですね、と笑った。
司会がそこから、作り直す前の持ち主の話へつないだ。美月は嬉しくなったが、自分の言い方の説明を足さなかった。
中盤、進行がもう一度変わった。箱の蓋の仕組みを見せる予定だったが、細かな部分を撮る準備に時間がかかり、先に別の作品へ移る合図が出た。
司会が話題を変え、美月も次の資料を思い出した。ところが、ゲストが取り出したものは、事前の写真とは色が違っていた。
「これは、……」
美月は言葉を止めた。名前を間違えるより、聞けばよい。けれど一瞬、自分が知らないものを出された怖さで口が動かなかった。
司会が、資料と少し違いますね、と気づいて拾う。
「はい。実は昨日、こっちへ替えました」
職人が笑った。美月は息を吐き、相手の顔へ視線を戻した。
「すみません。最初に見せていただいたものと違っていて、何と呼べばいいか迷いました。これも、同じ作り方なんですか」
ゲストは首を振り、前の作品との違いを説明した。美月はその言葉を聞き、資料で覚えていたのは表面に塗るものの違いだったと思い出す。
全部を自分一人で戻したわけではない。司会が拾ってくれた。それを受けて、自分も次の問いへ戻れた。
後半は先輩の出演者が、ものを捨てられない話をした。美月は自分の電池の箱を思い出したが、今は相手の話がどこへ向かうかを聞いた。
壊れたものを全部直せばよいわけではなく、置く場所と使う予定も考えなければならない、とゲストが答える。
「使うつもりがあるかを、一回確かめるんですね」
美月が言うと、ゲストは、そうですね、と頷いた。美月はそこで、何でも取っておく自分を笑い話へ変えずに済ませた。
最後の挨拶へ移るとき、美月は作品へもう一度目を向けた。傷の残った小さな箱。最初に調べてきたことだけでは、今の見え方にはならなかった。
司会に短い感想を求められ、美月は、長く使われたものを見るとき、傷があるかより、どう使われてきたかを聞いてみたくなりました、と答えた。
思ったより長くなったので、そこで止める。
司会が頷き、番組は次のコーナーへ進んだ。
収録を終えた後、スタッフへ挨拶した。大きな拍手がいつまでも続くような終わりではなく、次のセットの準備が始まっている。
担当ディレクターは美月へ、箱の傷を聞いたところはよかった、と言った。
「次も、この感じで。分からなくなったところは、今日みたいに一回聞き直して大丈夫です。ただ、問いの前の説明はもう少し短くできそう」
美月は頷いた。次も、と言われたことが嬉しかった。初回で全部完成したという評価ではなく、次の仕事へ持っていける言葉だった。
控室へ戻り、森岡と水野に短く振り返った。美月は、最初に用意した質問は二つしか使わなかったと話した。
「でも、使わなかったから無駄だったとは思わないです。違う作品が出てきたとき、どこが違うかは分かったので」
森岡は頷き、止まったところへ戻れた理由を尋ねた。美月は司会が拾ってくれたことと、分からないと言ってよいと前に確認したことを挙げた。
次は説明を短くする。話す前に一回相手を見る。ノートに二つだけ書いて閉じると、水野が帰りの時間を確かめた。
着替えを終え、スタジオを出た。高城は今日の現場にいない。評価を聞くために黒いシャツを探すこともなかった。
美月は自分の言葉で話せた場面を、一つずつ思い出した。
建物の入口を出る前、私的な連絡を開く。先に自分の帰る時刻を確かめてから、短く送った。
『終わりました。会えますか』
返事を待つ間、美月は台本の入った鞄を持ち直した。余白はまだ少し残っている。今日聞いたことを後でそこへ書くつもりだった。
帰る先には、仕事の感想だけをくれる人ではなく、初回が終わった自分に会いたいと言ってくれた人がいた。




