第37話 高城さんの失敗
高城は、美月の知らない人の名前を言わなかった。
前に担当していた別のグループの、一人のメンバー。美月も、誰なのかとは聞かなかった。
机の上には、さっきの話で少し冷めた茶がある。
「仕事ができる人だった。急に何か変わっても対応できたし、周りが困ると手を出してくれた」
高城はゆっくり話し始めた。
「忙しくなってからも、大丈夫だと言われて、それをそのまま受け取ってた。仕事はできていたから、無理をしてるかどうかまで見なかった」
美月は膝へ手を置いた。大丈夫という言葉を、自分も何度も使っている。疲れていても仕事ができる日があるし、本当に問題ないときもある。同じ言葉だからといって、全部同じ状態ではない。
「ある日、休養したいと言われた。そのときまで、そこまでの負担だと思ってなかった」
高城は美月を見ず、机の木目へ視線を置いていた。美月は、大変でしたね、とすぐに言いそうになったが、それでは聞いてほしいところより先へ行ってしまうと思って待った。
「その人は、今は回復して、別の仕事を続けてる。取り返しがつかないことになった、という話ではない。ただ、そこまで行く前に、仕事の量や休み方を相談できる時間はあった」
美月は頷いた。よかった、という言葉が出そうになり、まだ止めた。回復したから、高城の見落としもなくなったわけではない。
「本人が大丈夫だと言っていたから、俺には分からない、で終わらせたくはない。実際には、言いにくくなる仕事の組み方をした部分もあったと思ってる」
高城はそこまで話してから、一度息を吐いた。
美月は黙ってカップを持ち、飲んだ。
「それで、私にも、疲れてないか何度も聞いてたんですね」
少し待ってから聞くと、高城は頷いた。
「同じことをしたくなかった。仕事を見ている立場じゃなくなったら、余計に、どれくらい無理が出てるか分からなくなって」
「うん」
「だから、俺と会う時間を減らせば、少なくとも一つは楽になると思った」
美月は机の端へ置いた自分の手帳を見た。さっき二人で決めた通話の日に、小さな丸がついている。
「それで、私に聞く前に、会わない方がいいって決めようとしたんですね」
高城は、そうだね、と答えた。
美月は言葉を選んだ。
「知らなかったです。それは、今日話してもらって、初めて分かりました」
「うん」
「でも、前の人の負担を確かめなかったことと、私の会いたいを聞かないことは、同じように、一人で決めてると思います」
高城が顔を上げた。
美月は、言い方がきつくなっていないかと思い、一度息を整えた。
「私の言葉が、いつでも正しいとは言いません。自分でも疲れが分からないときはあるので。でも、最初から、私は無理をしてるかもしれないから会わない、って決まったら、相談できないです」
高城は黙って頷いた。美月は手帳を机の中央へ少し寄せる。
「今は、仕事を管理してくれるのは水野さんです。森岡さんも、準備の量を確認してくれています。私も、寝る時間が足りなければ言います。そこを、修司さん一人で見なければならないわけではないと思う」
高城は手帳へ目を落とした。
「そうだね。担当を離れたのに、俺が見ていないと危ないと思ってた部分もある」
「私も、何でも分かってる人だと思ってました」
美月はそう言い、自分の思い込みへ少し笑った。
「写真のことも、トークのことも、最初に気づくのは修司さんだったので。私のことなら、私よりよく分かるのかなって」
「そんなことは、ないよ」
「今は、分かりました。飲み物、何が欲しいかも聞かないと分からなかったので」
高城の口元が緩んだ。美月もそこで初めて少し楽になった。
「過去のことを、忘れていいとは思わないです。でも、私を前の人と同じにしないでください」
美月が言うと、高城は頷いた。
「しない。美月へ聞く。仕事のことは、今の担当へ任せるところも任せる」
「はい。私も、全部大丈夫で終わらせないようにします」
高城が、ありがとう、と言った。
少し間が空いてから、美月は、今の話は誰にも言わない方がいいかと確かめた。高城は、本人が特定されるような話にはしたくないと答えた。
「分かりました。私の仕事の相談に、前の人の話を使わないです」
美月が言うと、高城は、そうしてもらえると助かる、と返した。
美月はもう一つだけ、今後疲れたときに自分がどう言えば伝わるかを聞いた。
「ただ、大丈夫かどうか聞かれると、反射で大丈夫って言う日はあると思います。私もまだ、上手くないので」
高城は少し考え、今日どう過ごしたいかを聞く方がよいかもしれない、と言った。
「一人で休みたいのか、短く話したいのか。一緒にいて静かにしたいのか。その方が、答えやすい?」
「はい。それなら、今の希望を言えます。疲れていることを認めたら全部取り上げられる、みたいには思わずに済むので」
高城は頷いた。
話している途中で、美月は、この会話にすぐ完璧な結論をつけなくてもよいと思った。今日決めても、次に疲れた日は別のことを望むかもしれない。
高城へそう伝えると、彼も、また聞けばいいね、と答えた。
美月はそれに頷いた。
茶を淹れ直すため、高城が立ち上がった。美月も手伝おうとしたが、今日は座っていてと言われたので待った。
台所でカップを温め直す音がする。美月は本棚のポストカードへ目を向け、いつからそこへ置いたのかを尋ねた。
「先月。部屋の本を少し減らして、場所が空いたから」
「減らせたんですね」
「少しだけ」
高城が戻り、カップを置いた。さっきまでの話と同じ人が、当たり前の生活の話をしている。
「話してくれて、ありがとうございました」
美月が言うと、高城は、聞いてくれてありがとう、と返した。
その後は二人で少し黙って茶を飲んだ。美月はノートを出さなかった。
帰る時間が近づき、美月は手帳を鞄へ収めた。高城が自分のカップを置き、こちらへ身体を向ける。
「初回が終わったら、会いたい」
自分から聞く前に言われたので、美月は動きを止めた。
「仕事の感想を聞くためじゃなくても?」
「うん。会いたいから。終わった日の美月に」
美月は鞄を机の横へ戻し、一度ちゃんと彼を見た。
「私も、会いたいです。終わって、時間が分かったら連絡します」
「待ってる。ただ、無理なら別の日にしよう」
「そのときは、一緒に決めましょう」
高城が頷いた。
美月は近づき、彼の肩へ額を短く寄せた。高城が手を背へ添える。
顔を離すと、高城は、気をつけて帰って、と言った。美月は、はい、と答えた。今夜はその心配を、勝手に予定を決める言葉とは分けて受け取れた。
玄関の外へ出ると、冷たい空気が頬へ触れた。美月はコートのボタンを留め、帰り道の前に水野から来ていた明日の時刻を確かめる。
画面を閉じ、駅へ向かった。




