第35話 私、今から会いたいです
相談することが、何もなかった。
美月は仕事帰りのタクシーの窓へ目を向け、スマートフォンを一度閉じた。十二月に入り、夜のガラスへ映る自分のコートが、前より厚くなっている。
今日は長い撮影だったが、困っていることはない。仕事で聞くべきことは現場で聞き、次の確認は水野と森岡へ送った。高城へ渡す資料も、見てもらいたい映像もなかった。
ただ、会いたい。
約束している木曜までは、まだ二日ある。先に会えないかと頼むのは、決めた予定まで守れない人のようだろうか。
美月はそこまで考え、何を守るつもりなのかと自分へ問い直した。仕事を邪魔しなければ、会いたい日を一日しか作ってはいけないわけではない。
『私、今から会いたいです。相談はないです。ただ、会いたい』
送信すると、車が信号で止まった。窓の外には、家へ帰る人たちがいる。自分もこのまま家へ帰れば、夕飯を食べて眠れる。それでも一度言った方が、断られた後まで勝手に寂しくならずに済む気がした。
返事は数分後だった。
『会いたい。俺の家でよければ、着いてから三十分くらいは会える。移動は難しいけど』
美月は水野からの業務の連絡を確認し、今夜これ以上の仕事がないことを確かめた。タクシーは予定していた駅で降り、自分で運賃を払った。現場から乗った車の中で、元担当の住む建物まで行き先を変える気にはなれなかった。
駅の端へ寄って高城へ着く見込みの時刻を送り、夕飯は食べたかと尋ねた。
『まだ。遅くなったから、後で何か食べる』
美月は駅前で温かいスープと小さなご飯ものを二つ買った。自分も空腹だった。驚かせる料理を作る時間はないし、三十分の全部を準備に使いたくはなかった。
高城の建物では、入口の呼び鈴を押してから、通話口へ名字だけを告げた。扉が開くまで、食事の袋を両手で持って待つ。エレベーターで上がり、部屋の前でようやく息をついた。
高城は玄関で少し遅れて応じた。私服へ着替えているが、目元に疲れが残っている。
「お邪魔します。修司さん、今日は、何を飲みたいですか」
美月は靴を脱ぎながら先に聞いた。
高城が意外そうな顔をしたので、袋を持ち上げる。
「食事は買ってきました。飲み物は家のものでよければ、私が用意します」
「温かいの。コーヒーじゃなくて、茶があれば」
「分かりました。どこですか」
高城は棚の位置を示し、自分も動こうとした。美月は袋を机へ置き、手を洗ってくるから座っていてと頼んだ。
彼が椅子へ座るのを見てから、湯を沸かす。家の全部の物の位置を覚えているわけではないので、カップの場所はもう一度聞いた。
言わなくても分かるようになりたい気持ちはある。それでも、今日欲しい飲み物まで覚えたつもりで当てるより、聞いた方が確実だった。
テーブルへ食事を広げると、高城が礼を言った。美月は自分も食べたいからだと答え、スープの蓋を開ける。
「熱いです。今度は、私が先に言います」
「ありがとう」
湯気が二人の間へ上がった。高城は少しずつ飲み、それからご飯へ手を伸ばした。美月も自分の分を食べる。
特別な会話がなくても、隣で食べると食事の速さが少し変わる。相手がまだ熱そうにしているのを見て、自分も急がず待てた。
「修司さん、今日、かなり疲れてますね」
美月が言うと、高城は一度目を上げた。
「分かる?」
「手が、いつもより止まってるので」
「午後から、確認が多かった」
高城は細部を言わず、何度も違う場所へ連絡する仕事だったと話した。美月は、どの案件かを聞かず、今日はまだ何かする必要があるのかだけ確かめた。
「急ぎは終わってる。明日の早い時間に、また確認する」
「なら、今日は食べましょう」
美月が言うと、高城は少し口元を緩めた。相手へ何か役に立つことを言おうとするより、今、目の前の食事を一緒に終える方がよさそうだった。
食事の途中、高城が袋の中のスプーンを探していたので、美月は自分のそばへあるものを渡した。彼が礼を言い、スープの底に残った野菜をすくう。
何か話した方がいいのだろうか。美月は今日の撮影の話を一つ思い出しかけたが、今は相手の手がゆっくり動くのを見ていたかった。
「今日は、喋らない方がいいですか」
聞くと、高城は首を振った。
「どっちでも。美月が話したいなら、聞きたい」
「私は、今は食べてるところを見てるだけでもいいです」
高城は少し口元を緩めた。美月も自分のご飯を食べ、空いた容器の蓋を重ねた。
高城が茶へ手を伸ばし、美月にも温度はちょうどよいかと尋ねた。美月は、はい、と答え、少し甘い菓子も持ってくればよかったと言った。
「次、いるか聞くよ」
「今日は、なくていいです。食事があるので」
返事をすると、高城は分かったと頷いた。
美月は容器をまとめる前に、スープをもう一口飲んだ。高城も最後まで食べ、机の上が少しずつ空いていった。
食べ終えた容器をまとめ、湯を少し足した茶を机へ置く。三十分のうち、半分以上が過ぎていた。美月は残りの時間を時計で区切りたくなくて、スマートフォンを伏せた。
高城が隣へ少し椅子を寄せる。
「肩、借りてもいい?」
美月は一度、高城の顔を見た。自分から触れに行くことはあっても、そう頼まれたことはなかった。
「はい。どうぞ」
高城は身体を傾け、美月の肩へ頭の側面を預けた。全部の重さを掛けるわけではないが、思ったより確かに重かった。
美月は背筋を少し整え、動かずに座った。
「重くない?」
「大丈夫です。でも、私、背は低いので、首がつらくなったら言ってください」
「うん」
声がすぐ近くにあった。美月は手を迷わせてから、彼の腕へ置いた。高城の手がその上へ重なる。
美月は腕へ置いた手を動かさず、窓際の本棚を眺めた。
「今月、もう三十六なんですよね」
美月が小さく言った。高城は、なったね、と返した。誕生日には短く会って祝ったが、今日はそれとは別の普通の日だった。
「三十六歳の人が、ちゃんと頼めましたね」
「年齢、関係ある?」
「私より十三年、長く生きてるので。頼むのも上手いかと思ったら、そうでもなかったです」
高城が短く笑い、肩の重さが一度動いた。美月は自分まで少しくすぐったくなった。
「今のは、褒めてる?」
「はい。頼んでくれて嬉しかったので」
高城は、ありがとう、と返した。美月は窓際の本棚を見た。そこに菓子の缶のポストカードが、小さく立て掛けてある。以前は本へ挟んであると言っていたものだった。
飾ったことを、わざわざ報告していないらしい。美月も今は言わずに、その絵を眺めた。
しばらくして、高城が顔を上げた。美月は肩を一度回し、平気だと笑った。三十分が近いことはどちらも分かっていたが、急に追い出すような動きにはならなかった。
「今日は、来てくれてありがとう」
「私が来たかったので。相談がなくても、いいんですね」
「もちろん」
美月は頷いた。
帰る支度をする前、仕事の話を一つだけ伝えた。水野と森岡を通して、年明けから始まる連続番組の準レギュラー出演が決まった。ゲストの話を受ける役で、初回の準備が今月から始まる。
公開前の企画書や台本を見せることはせず、自分の予定が少し変わることと、本人の希望がかなったことだけを話した。
「大きな仕事です。私には」
高城は背筋を伸ばした。
「おめでとう。よかったね」
美月は、ありがとうございます、と答えた。今度はその一言だけで嬉しかった。自分でも、選ばれた理由を森岡から聞き、やりたいと返事をしている。
高城が頷いた後、少し視線を下げた。
「練習と、グループの仕事もある中で?」
「はい。水野さんが時間を調整してくれてます。無理が出そうなところは、準備の打ち合わせで相談します」
「睡眠、削らないようにね」
美月は、気をつけます、と答えた。心配してくれるのは分かる。だが、今までより高城の質問が速く重なるのも気になった。
「今、嬉しい方を、もう少し聞きたいです」
高城が顔を上げた。
「嬉しいよ。美月が、自分で話す仕事を続けられるのは」
美月は頷いた。その言葉の後にも、心配している顔は残っていた。今夜の疲れもあるのだろうと思い、それ以上は問い詰めなかった。
玄関で靴を履き、木曜の約束はそのままかと確かめる。高城が、会いたい、と答えたので、美月も同じ言葉を返した。
外へ出ると、三十分前より少し空気が冷えていた。美月はコートの襟を寄せ、スマートフォンへ帰りの時刻を表示した。
今日の相談事項は、最後まで何もなかった。それでも会えてよかった。その一文を、帰ったら送るつもりだった。




