第31話 次の担当者
森岡の名前が、連絡先の一番上へ来た。
美月は配られた引き継ぎ資料を見て、自分の手帳と照らした。十一月一日から、グループ制作の窓口が変わる。企画の相談は森岡、日程や日々の現場の確認は水野。個人の評価と起用は、八月から決めた分担を続ける。
事務所の会議室には五人のメンバーと水野、森岡、高城がいた。机が長いので、高城は思ったより遠くに座っている。
「今日から、こちらの企画と制作を担当します。進行中のものは共有を受けていますが、本人たちからも確認したいことがあります」
森岡は一人ずつ顔を見た。最初から全部分かっているとは言わず、今日決めることと、後で確認することを分ける。
次の公演の演出案は引き継ぐ。ただし確定していない部分は本人たちとも相談する。すでに予約されている稽古の時間は変えない。
美月は、変わることより先に変わらないことを聞けて、少し呼吸が楽になった。
高城は今の制作資料を開き、音源と映像の受け渡しを確認した。森岡はメンバーへ話す必要のない細部は後で確認すると答え、まず五人の次の仕事の話へ戻した。
都和が全体の打ち合わせの頻度を聞き、芹佳が歌のアレンジの相談先を確かめる。柚葉は新曲で試した動線を次の公演でも使うか尋ねた。
美月も、自分の単独番組の振り返りがどこへ共有されるかを聞いた。
「水野さんから私へ。次の提案の材料にはしますが、本人の振り返りも聞きたいので、今週のうちに短く時間を取りましょう」
森岡は答え、その場で候補の時間を示した。美月は手帳へ印をつける。
高城が一度こちらへ目を向けた。何か言ってくれるかと思ったが、森岡と話す美月の声を遮らなかった。
会議の最後に、高城が五人へ挨拶した。
「途中のものを残して渡す部分もあるけど、必要な情報は森岡へ引き継いでます。今後の相談は、今説明した窓口へ。今まで、ありがとうございました」
あまりに普通の言葉だった。退職でも、遠くへ引っ越すのでもない。同じ事務所の別の仕事をする人になる。それなのに、美月は自分の資料の端へ視線を落とした。
絵里香が、返事の短さに慣れるまで大変でした、と言ったので、場の空気が少し緩んだ。
「そこは、次は困らないと思う」
高城が森岡を見る。森岡は、長すぎるときは止めてください、と五人へ言い、都和が笑った。
美月も顔を上げ、ありがとうございました、と仕事の礼を言った。私的な意味まで声へ載せないよう、今までしてもらった具体的なことを一つだけ続けた。
「話を渡す場所を、考えるようになりました。次の現場でも使います」
高城は短く頷いた。
「うん。使って」
それだけで、会議は終わった。
高城が資料を抱えて出ていき、美月はその後ろ姿が見えなくなるまで入口を見ていた。
次の練習へ向かう前、美月は都和に少しだけ話せないかと頼んだ。ほかの三人は先に着替えへ行き、水野は森岡と次の予定を確認している。
都和は空いた小さな部屋へ一緒に入り、入口から離れた椅子へ座った。美月は向かいへ座り、何から話すかを考えた。
「今日の担当変更のことで、私から、伝えておきたいことがあります」
都和の表情が真面目になった。美月は手を握らず、膝へ開いて置いた。
「私、高城さんと、お付き合いしています」
言った後、相手が答えるまで待った。都和は一度瞬きをし、そうなんだ、と静かに言った。
「お弁当の日、少し気になってた。でも、私から誰かに確かめることでもないと思って」
美月はあの日、入口にいた都和へ顔を上げられなかったことを思い出した。
「水野さんは?」
「知っています。部長にも八月に報告しています。個人の評価からは、そのときに外れてもらっています」
「じゃあ、新曲の選考も?」
「高城さんは採点も決定もしてません。結果が確定してから、制作を組むために聞いてます」
都和は頷いた。美月は、そこを最初に確認してくれる人でよかったと思った。驚かれないために、話したのではなかったからだ。
「今日の変更は、それだけが理由ではないんですけど、仕事を分ける整理も含まれています。私のことだけを隠したまま、都和さんに全部、前と同じように見てほしいというのは違うと思って」
都和は少し考えた。
「話してくれてありがとう。私が何か、する必要はある?」
「普段の予定を隠したり、他の人へ説明を合わせたりしてほしいわけではないです。仕事の窓口は水野さんなので、そこでお願いします。私の動きで困ることがあったら、言ってほしいです」
都和は、分かった、と答えたが、すぐには表情を緩めなかった。
「正直、もう少し早く話してほしかった。外の噂で知っていたら、私、練習で相談したことまで考え直したと思う」
「……ごめんなさい」
「五人でいるときは、今までどおり困ったことを言い合いたい。それを遠慮するようになるのは、嫌だから」
「はい。私も、言ってほしいです」
美月は都和を見て答えた。
「全員に私から話す予定は、今はありません。都和さんにも、秘密を全部背負ってほしいわけではなくて」
「うん。仕事で必要な確認があれば、水野さんへ聞く。私だけでどうにかしようとはしないよ」
都和は線を引くように、手元のメモを閉じた。それから少し表情を緩めた。
「美月は、今、ちゃんと嬉しいの?」
仕事とは違う問いだと分かり、美月は一瞬答えを迷った。
「嬉しいです。喧嘩もしますけど」
「そこは、するだろうね」
美月は声を出して笑った。都和は詳しい喧嘩の内容を聞こうとせず、ただ頷いた。
「仕事も、続けたいです。私、まだセンターにもなりたいので」
「うん。それは、知ってる」
同じ四文字でも、都和の声は違って聞こえた。美月は礼を言い、二人で練習室へ戻った。
その日の練習には、森岡が途中から入った。高城はいない。森岡は最初に全員の動きを一度見てから、振付師へ質問した。本人の話を遮らず、まだ分からない箇所は分からないまま確認している。
美月は新曲の隣の位置へ立ち、足の向きを確かめた。誰が見ているかより先に、今日の自分の課題がある。
曲が終わると、森岡は五人へ、前の公演でそれぞれ何が見せ場だったと思うかを聞いた。美月は自分の腕の動きと、その前の目線について話した。柚葉も同じ場所を挙げ、二人で改善した経緯を説明する。
森岡はその場で別の形へ変えず、今の意図を受け取ったうえで次の会議へ持ち帰った。
仕事は、普通に進んだ。
練習の後、森岡は美月へ、先週の番組の振り返りをいつ渡せるか確かめた。美月は自分のノートを見て、もう書いてある分は今日渡せると答えた。
「ただ、番組の方からの確認は、まだ水野さんを通して届くところです。自分の感想だけで書いたところがあります」
「それで大丈夫です。別々に残しておけば、後でどこが違うかも確認できます」
森岡はその場で高城へ答えを求めず、美月から受け取った。美月も、前の担当に聞いた方が早いですかとは言わなかった。
美月は、現場が変わったときに使えた準備と、使えなかった返事を分けて話した。森岡は三つだけ質問し、次の打ち合わせでは、その中のどれを続けたいか聞きたいと言った。
美月は手帳の予定へ、持っていくノート、と付け足した。
会話が終わると、森岡は次の準備のために部屋を出た。美月は次の打ち合わせの欄へ、今日の質問を三つ書き留めた。
練習室へ戻ると、絵里香が床のテープを片づけていた。ほかの三人は着替えに行ったらしい。美月も隣にしゃがみ、使い終わった短い一本を剥がす。
「森岡さんと、何話してたの?」
「自分の番組の振り返り。次も、時間取ってくれるって」
「私も、話したいことまとめとこうかな」
絵里香は剥がしたテープを丸めた。美月が次の端を探していると、少し声を落として聞いた。
「高城さんがいなくなるの、担当が替わるから寂しいだけ?」
テープの端が爪に引っかかった。
皆も寂しいでしょ、と返しかけた。絵里香は皆の話を聞いていない。美月は引き上げたテープを、切れないようゆっくり剥がした。
「どうして、そう思ったの」
「前に告知撮ったとき、高城さんが呼んだら、すぐそっち向いたでしょ。今日も、会議終わってから入口見てたから」
美月は入口へ顔を向けなかった。床に残った四角い印を、一つずつ目でたどる。
「仕事だけじゃ、ない」
絵里香は手を止めた。
「でも、詳しいことは、今は話さないでおきたい。ごめん」
「うん。急に聞いたの、私だから」
絵里香は立ち上がり、丸めたテープを捨てた。美月の分も受け取ろうと手を出す。
「打ち合わせが変わるのが不安なのか、会えなくなるのが寂しいのか、分からなかったから」
「……今日は、寂しい方」
「そっか」
美月はテープを渡した。絵里香は続きを聞かず、ごみ箱へ落とす。
「今日、駅まで一緒に帰る?」
「うん。着替え、待っててくれる?」
「私もまだ。先に終わった方が待つので」
美月は頷き、床へ残した荷物を持った。
夕方、着替えを終えた美月は、制作室の前を通った。いつもの机には別の資料が並び、高城は奥の部屋で打ち合わせをしていた。
声を掛ける用事はない。仕事の確認なら森岡へ済ませた。今日、全員で話したことをもう一度聞いてもらう必要もない。
美月は一度立ち止まりかけ、入口を通り過ぎた。
駅で絵里香と別れ、電車に乗ると、急に寂しくなった。
会えなくなったわけではない。今週、食事へ行く予定もある。それでも、何かを持って部屋へ行けば顔を見られた時間が、今までどれほどあったかを思い出した。
美月は連絡欄を開いた。
『今日もお疲れさま』
打ってから、今度は自分で続けた。
『仕事の相談ではないです。今日、ちゃんと言いたかったので』
高城から、少しして返事が来た。
『お疲れさま、美月。練習終わった?』
終わりました、と返す。中身を聞き出す質問ではなく、自分が今どこにいるかを確かめる言葉だった。
美月は窓の向こうへ目を向け、次の停車駅で座席が空いても、もう少し立っていようと思った。
担当者ではなくなった人の名前を、私的な連絡の中で呼んだ。修司さん、と打っただけで、それに続けたい言葉が一つずつ出てきた。




