第29話 修司さんがいない現場
車の窓へ雨粒が当たったとき、まだ誰も中止とは言わなかった。
美月は膝の上の進行表を見た。直売所で季節の野菜を選び、屋外で店の人に話を聞く。その後、屋内の調理場所へ移って、用意した段取りのメモを使う。
最初の予定時刻の横に、鉛筆で十五分の遅れが書き込まれていた。
次に二十分、と増えた。
「外の撮影は難しいですね」
助手席の制作スタッフが電話を切り、後ろへ顔を向けた。水野が予定を確認する。雨だけでなく風も強く、機材を出す時間を確保できないらしい。
美月は車窓から、道端の旗が大きくはためくのを見た。楽しそうに野菜を持って歩く絵を、台本どおりに撮れる日ではなかった。
車は先に調理場所のある建物へ向かった。入口に荷物を下ろし、美月は用意された控室へ入る。濡れた靴の底を拭き、台本が濡れていないことを確かめた。
今日一緒に出る料理研究家の女性も、ほどなく到着した。美月が挨拶すると、彼女は、野菜が来れば作れるからね、と穏やかに笑った。
美月も頷いたが、今日の食材の三分の一ほどは、まだ直売所にある。進行表を開き、調理を始める時刻を確かめた。
現場のディレクターが、水野と美月のところへ来た。
「外の買い物は中止にします。店の方に材料をまとめてもらって、こちらで受け取れるか調整しています。待ち時間が出るので、短いトークを先に撮れないかと思って」
美月は進行表を開いた。用意してきた話題は三つ。そのうち一つは店で実物を見ながら話す予定だったが、残りは机の上でも使える。
「長さは、どのくらいですか」
「三分から五分くらい。全部使うかは後で決めます」
「先生と、一緒にお話しする形で大丈夫でしょうか」
「はい。座って、お二人で」
美月は頷いた。自分が今、番組全体をどうにかしなければならないのではない。頼まれた短い部分を、ここにいる人と作ればいい。
水野へ、自分のメモを使う導入から話したいと伝えた。水野はディレクターと確認し、個人の部屋や私生活の写真へ話を戻す必要はないことも確かめた。
撮影用のテーブルへ移ると、まだ食材は全部揃っていなかった。美月は椅子へ座り、手元へメモを置いた。相手の先生は左隣で、二人の間には空のまな板がある。
カメラが正面へ入り、音声担当者がマイクを整えた。
美月は深呼吸し、最初の一言を確認した。暗記してきた文章をそのまま言おうとすると、「買い物をしてきました」が入ってしまう。していないことを予定のまま話してはいけない。
「今日は、準備だけはしてきました」
試しに言うと、ディレクターが頷いた。
「そこからでお願いします。雨の状況は別に説明を入れるので」
本番の合図が出た。
美月は自分のメモを持ち上げ、先生へ見せた。
「私、段取りを作るのは好きなんです。でも、作った段取りのせいで忙しくなることがあって」
「どういうふうに?」
「四つ同時に始めたら、全部同じ時間に呼ばれました」
先生が声を出して笑った。
「料理が呼ぶのね」
「はい。鍋と、フライパンと、電子レンジが」
「もう一つは?」
「私の頭です。何からやるんですかって」
カメラの向こうで小さな笑いが起きた。美月はもう一言足したくなったが、先生がメモへ指を伸ばしたので止まった。
「これ、冷たいまま出せるものは?」
「サラダと、この副菜です」
「じゃあ、その二つを先に作る。温かいものは、後で」
美月は、昨日家で書き直してきた同じ答えを、先に知っている顔で返さないようにした。
「冷たいものも、同じ時間に完成させた方がちゃんとして見えると思ってました」
「食べるときに美味しいなら、完成した時間は違っても大丈夫」
「食べる人、そこまで時計見てないですもんね」
先生が頷いた。美月は一度、机の上の紙を置いた。大きく見せ続けるより、話している人の顔が見える方がよかった。
途中、先生が自分も若い頃は品数を増やして失敗したと話し始めた。美月は、同じですね、と入りたくなったが、その後にまだ話がある気配を見て待った。
先生は、来客に手伝ってもらいながら食べた日の方をよく覚えている、と続けた。
美月は家の台所でパンを切る高城を思い出したが、その人の話へは変えず、今聞いたことへ返した。
「完成してから来てもらうより、一緒にいる時間が増えますね」
「そう。人を呼んだ日に、一人でずっと台所へ立っていたら、会いに来た人が寂しいでしょう」
美月は、そこは考えが足りませんでした、と素直に答えた。先生の声の調子が柔らかかったので、反省の発表のようにせずに済んだ。
四分ほどでディレクターが手を上げ、一度止まった。
「今のところ、使えそうです。食材が来るまで、買い物で困った話も一つ撮れますか」
美月は水野を見て確認した。事前に送っていた話題の一つなら問題がなく、担当者もそれを求めている。美月は頷き、店の場所や私物が分かる細部を入れずに、食材を買いすぎた話をした。
前なら、袋の色から説明していた。今日は、冷蔵庫へ入らなくて並べ直した、と結末を先に話す。先生が何を買ったのかと聞いたところで、必要な部分だけ足した。
食材が届くと、予定どおりの料理の撮影へ移った。外で選ぶはずだった野菜の説明は、先生が現物を見せながら補ってくれた。美月も事前に調べた名前を間違えずに言えたが、知らない種類は知っているふりをせず尋ねた。
包丁を持っている間に台詞を求められると、手を止めてから答えた。現場の段取りも一人で決めず、その都度、撮影担当者へ確かめる。
料理の場面では、美月は自分のメモを作業台の乾いた端へ置いた。食材を切る順番だけでなく、器を洗う時間も一つの欄にしてある。
先生はそれを見て、今日は先に出せる器を全部出してみようと頼んだ。美月は指示された大きさを確かめ、調理用と食べる用を別々に並べる。
「こんなに出しておくと、場所がなくなりませんか」
「今、しまったままでも、途中で出す場所は必要でしょう。先に分かっていれば、置き方を変えられる」
美月は台の上を見た。皿を一列にする代わりに、すぐ使わないものを重ねて端へ寄せる。手を動かせる広さが残った。
煮る間に洗えるものを一つ洗い、次の作業の前にまな板を拭く。止まっている時間に見えたところへ、別の短い用事を入れられた。
先生が、自分で味を見て決めてみて、と言った。美月は一口取り、少し薄いと思った。だが家で一度足しすぎたことがあるので、別の皿へ少し取ってから調味料を試す。
「先に、こっちで確かめたんですね」
先生に聞かれ、美月は頷いた。
「全部へ入れて戻せなくなったことがあるので。今日は、まず一口ぶんで」
先生はその工夫は使えると言い、美月は味を確かめてから鍋へ少しだけ足した。
出来上がった料理を二人で食べるカットでは、美月はすぐ美味しいと言った後、どこが変わったのかを一つ話した。待つ時間に焦らず済んだので、味を見る場所を飛ばさなかった。
先生は、それなら次も作れる、と答えた。美月は撮影が終わっても、メモを捨てずに持ち帰るつもりで、濡れない場所へ置き直した。
撮影後、ディレクターが水野と美月へ、待ち時間のトークが導入に使えそうだと言った。
「メモを見せる理由が分かりました。買い物をしてからより、先に困り方が見えるので」
美月は、ありがとうございます、と答えた。
帰りの車で、水野が、今日はどうだった、と聞いた。美月は窓の雨粒を見た後、膝のメモへ視線を戻した。
「自分では、よかったと思います」
言ってから、少し驚いた。誰かの返事を先にもらっていない。
「最初、全部変わると思って慌てました。でも、何を頼まれてるか聞けたので。話す長さも、先生が入る場所も、途中で見えました」
水野は頷き、次回に向けた確認は放送を見てからしようと言った。美月も、料理をしながらカメラへ向くところはまだ硬かったと思う、と自分の課題を一つ残した。
事務所へ戻る前に、高城へ私的なメッセージを送った。
『今日、自分では良かったと思う』
いつものですますをつける前に、送信していた。書き直す必要はない気がした。
美月はスマートフォンを鞄へ戻し、濡れずに残った段取りのメモを、薄いファイルへしまった。




