第26話 知らなかったで済ませないで
朝になっても、結果は変わっていなかった。
美月は目覚ましを止め、ベッドで今日の予定を確かめた。午後から練習。その前に洗濯をし、ご飯を食べる時間がある。画面を閉じてから、顔を洗いに立った。
泣いた目元は少し腫れていた。冷たいタオルを当て、湯を沸かす。昨日食べられなかったご飯の残りを温めた。
高城へ連絡する文は、食べてから考えた。
『昨日は帰ってもらって、すみません。今日の練習の後、話せますか』
返事は、昼前に来た。高城も夕方まで仕事があり、その後なら会えるという。場所は静かに話せる小さな店にした。昨日と同じ部屋で続きをするより、いったん場所を変えた方が話せそうだった。
午後の練習では、美月は柚葉の隣へ入った。新しい位置から前へ向くと、見える鏡の範囲が違う。自分が何をできるかより、ここに立っていること自体を意識してしまう。
足を動かし始めたところで、講師に一度止められた。
「位置はそこ。昨日の印じゃなくて、新しい方」
美月は謝り、半足分だけ戻った。今は気持ちを全部解決するより、立つ場所を一つずつ確かめる方が先だった。
休憩では、水野から今日の練習が終わった後に面談の時間が必要か聞かれた。美月は、選考の説明は今のところ聞けたので大丈夫だと答えた。
「後で、技術の確認は先生にしたいです」
「分かった。今日、少し時間を取れるか聞いておく」
その返事を聞いてから、美月は次の動きへ戻った。まだ疲れが残っているので、全体練習の後は長く居残らず、確認事項だけをノートへ残した。
確認の終わりに、講師は明日の練習で取り上げる部分を指した。美月は、今日の自分が聞いても変えられることがあると分かり、短い質問を一つだけした。
「隣へ入ると、中央を見るタイミングを迷います。先に顔を向けると、自分の手が遅れるので」
講師は実際に動いて見せ、美月にもゆっくり試すよう頼んだ。相手を見てから動くのではなく、動きの中で視線を渡せる瞬間を作る。美月が一度やると、今の距離なら腕を急がなくてよいと言われた。
すぐ上手くできたわけではなかったが、明日することは具体的になった。美月はその場で一行だけノートへ残し、礼を言った。
帰り際、柚葉が歌の音源を確認していた。美月は邪魔をしないよう横を通り、また明日と声を掛けた。相手も顔を上げ、明日よろしく、と返した。
美月は靴を履き替えた。左右を揃えた練習靴を袋へ入れる。明日も同じ場所へ持ってくるため、鞄の底へきちんと収めた。
夕方、店へ行くと高城は先に着いていた。美月が席へ近づくと、立ち上がりかけて、すぐに座り直した。美月も向かいへ座り、水を一口飲んだ。
昨日の続きを話すための沈黙は、予想したより長かった。
「先に、言いたいです」
美月はグラスから手を離した。
「私、落選を覆してほしかったんじゃないです。柚葉より私の方がよかったって、修司さんに言ってもらいたかったわけでもないです」
「うん」
「昨日、来てもらったのは、悔しかったって話したかったからです。仕事の理由はもう聞いていて、その後も、自分で考えます。でも昨日の夜は、まだそういう話をしたくなかった」
高城は頷き、すぐには言葉を返さなかった。美月は、今なら聞いてもらえていると分かり、続けた。
「前の映像のときと違って、昨日は慰めてほしいって伝わると思ってました。分かってると言われたのに、説明が続いたから、余計に嫌になりました」
高城は机の上の手を一度組み直した。
「昨日は、分かってた。助言を求めてないことも」
美月は顔を上げた。知らなかったと言われたら、もう一度説明しようと思っていた。知っていたのなら、なぜと思う気持ちは残った。
高城はそこを、美月に聞かせる前に自分から言った。
「泣かれたときに、何を言えばいいか分からなかった。隣で聞いていればいいと思っても、何もしないでいることに耐えられなくて、俺が言いやすい分析へ逃げた」
美月は口を閉じた。向かいの人が、言葉を省略せずに話している。
「美月のためになる話をしてるつもりで、自分が困ってる時間を埋めた。だから、いらないって言われた後も、説明を続けた。ごめん」
美月はすぐに返事をせず、昨日の顔を思い出した。何かを言いかけては閉じた口。役に立つことを言わなければ、と言った声。
説明を聞くと、何も変わらなかった昨日にも理由はできた。けれど、その理由で傷つかなかったことにはならない。
「分からないなら、分からないって言ってほしかったです」
「うん。次は、先に聞く。慰め方が分からなくても、勝手に仕事の話へ変えない」
「私も、今は聞くだけでいいって言います。でも、言うまで待つだけには、しないでほしい」
「分かった」
高城は今度こそ一度で答えた。美月は頷き、膝へ置いた手を緩めた。
「私も、正しい説明をすればいいんですかって言ったの、きつかったです。何を言っても責めるみたいになりました。ごめんなさい」
「帰ってほしいって言ったのは、悪くないと思ってる。あれ以上続けても、昨日はだめだった」
美月は、はい、と答えた。
店員が来たので、食べられそうなものを頼んだ。美月は温かい汁のある定食を選び、高城も同じものにした。注文が終わると、戸が閉まり、また二人になった。
「今、昨日の続き、話してもいいですか」
美月が尋ねると、高城は頷いた。
「うん。聞く」
美月は、結果を聞いたときに手を強く握っていたことを話した。おめでとうと言えた後も、柚葉の顔を見るのが少しつらかったこと。高城が演出で柚葉を中心に考えているのを見て、分かっているのに寂しくなったこと。
そこまで言ってから、高城を見た。
彼は自分の仕事が正しい理由を説明しなかった。机の上に手を置き、視線を外さず聞いている。
「そう思う自分が、嫌でした」
美月の声が揺れた。
高城は、うん、とだけ答えた。美月が次の言葉を探しても、先に埋めなかった。
「柚葉に悪いことをしたいわけじゃないです。でも、自分がなりたかったので。皆で作るって分かってるのに、すぐ切り替えられなくて」
高城がゆっくり頷いた。美月は顔を下げ、ハンカチを出した。涙が出ると、また向かいの人を困らせるのではないかと思ったが、彼は急いで話し始めなかった。
美月は泣きながら、昨日のノートを開けなかったことまで話した。
途中で言葉が止まったとき、高城は水を近くへ寄せた。それから、座る場所を変えてもいいかと聞いた。
美月が頷くと、彼は横の椅子へ移った。肩を抱かず、少し離れて座る。美月の方から袖へ指を置くと、初めて手を伸ばして、指先を包んだ。
何分か、話さない時間があった。
昨日なら怖かった沈黙が、今は追い立てるものではなかった。高城が上手く慰めるための言葉を考えなくても、自分が泣き止むまで、ここにいてもらえる。
「……ありがとうございます」
美月が言うと、高城は、まだ何も言ってないけど、と小さく返した。
「今は、それでよかったです」
高城は頷いた。美月はハンカチを畳み直し、水を飲んだ。高城も自分のグラスへ手を伸ばした。
食事が運ばれてきたので、高城は向かいの席へ戻った。二人とも箸を持ち、少しずつ食べる。美月は昨日ほとんど味が分からなかったことを思い出し、今日は温かいものが美味しいと思った。
「昨日、置いていってくれたご飯、夜と朝で食べました」
「食べられてよかった」
「ちゃんと、お礼言ってなかったので。ありがとうございました」
高城は、どういたしまして、と答えた。謝罪を終えたから全部笑って済ませるのではなく、したこと一つに一つの返事が来る。そのくらいの速さが、今日はよかった。
食事の後半、美月は明日の練習の時間を確認するため、手帳を開いた。高城へ教えてもらうのではなく、水野から来た連絡と照らす。
「明日、二時からです。先生へ、今日確認できなかったところを聞きます」
高城は、うん、と答えた。
励ますために課題を増やしたり、無理に元気な顔を作らせたりしなかった。美月も、全部立ち直ったとは言わなかった。
「また、話を聞いてください」
「聞く」
「私も、修司さんが困ったら聞きます」
高城は少し間を置き、お願いする、と答えた。美月は手帳を閉じた。明日の時間を確かめたのは、自分からだった。まだ目元は少し熱かったが、店を出るときには、足元の道もちゃんと見えた。




