第25話 今日は正しいことを言わないで
水を二つのグラスへ入れるだけで、時間がかかった。
美月は冷蔵庫の扉を閉め、流しの前へ立ったまま一度目を閉じた。高城が来るまで、あと五分。部屋は散らかっていない。いつもの台本と練習のノートが机にあるだけだ。
それを見ていると、今日までの時間が、全部同じ場所に積んであるようだった。
インターホンが鳴った。美月は入口を開け、高城を部屋へ入れた。彼は小さな袋を持っていたが、何かの準備を頼むことはなく、入口の近くへ置いた。
「食事、まだだと思って。食べられそうなら、後で」
「ありがとうございます」
美月はテーブルへ案内した。いつもの向かいではなく、横の椅子へ座ってほしかったが、その一言が言えない。
高城も一度迷い、結局向かいへ座った。
「お疲れさま」
その言葉で、美月は目元を押さえた。帰りの電車では泣かなかった。顔を洗っているときも、もう大丈夫かもしれないと思った。
今になって、何を待っていたか分かった。
「悔しいです」
言うと、高城は頷いた。
「うん」
「柚葉は、すごかったです。理由も、分かります。私も見てたので」
そこを先に言わないと、相手を悪く思っているように聞こえそうだった。美月は指で目元を拭き、続けた。
「でも、自分が、あそこに立ちたかったです」
高城は黙って聞いた。美月は今日の結果を聞いたとき、ちゃんとおめでとうと言えたことまで話した。言えた自分を褒めたいのではなく、言った後でも悔しさがなくならなかったことを、知ってほしかった。
テーブルの上の水には、まだ誰も手をつけていない。
「最後の一回は、できた気がしたんです」
美月が言うと、高城は少し身を起こした。
「よくなってたのは、今日聞いた。ただ、複数回の安定を見るなら、一回の完成度だけじゃ――」
言葉の続きが分かったので、美月は顔を上げた。
「それは、水野さんから聞きました」
「うん。だから、今後は安定して出せる形を作っていけば」
「今、それはいらないです」
声が硬くなった。高城が口を閉じる。
美月はグラスへ手を伸ばしたが、持ち上げずに戻した。欲しかった言葉と違う。前にも同じようなことがあった。今日は慰めてほしいと、もっと明確に伝えるべきだったのか。
家へ来てほしい、何も用意できない。あれだけでは分からないなら、何を言えばよかったのだろう。
「今日は、正しいことを言わないでほしいです」
高城は目を伏せ、すぐに頷こうとして、途中で止まった。
「慰めてほしいのは、分かってる。でも、俺が適当に柚葉よりよかったって言うのも、違うだろうから」
美月は椅子の背から身体を離した。
「そんなこと、言ってません」
「うん。そういう意味ではなくて」
「柚葉の方がよかったのは、私も分かるって言いました。結果を変えてほしいなんて、頼んでないです」
高城は片手を机へ置いた。何か言いたそうに口を開き、美月の顔を見てから一度閉じる。
「前にも、同じ話になったね」
「なりました」
美月は頷いた。だから今日は、前より伝わると思っていた。仕事の映像を見せて感想を求めているのではない。落選した夜に、恋人へ会いたいと言った。
「前のときは、私も意見がほしいみたいに聞きました。でも今日は、そうじゃないの、分かってたんですよね」
高城は答えずに美月を見た。彼の沈黙に全部を詰め込んで理解する余裕は、今なかった。
「分かってて、まだ課題の話をするのは、どうしてですか」
高城は一度息を吸った。
「何か、役に立つことを言わないと、と思った」
「役に立たなくても、来てほしかったです」
言うと、また目が熱くなった。美月は手を膝へ戻し、指を押し合わせた。
高城は少し前へ身を寄せたが、触れてこなかった。
「俺の仕事と、今日の結果が近いから、何を言っても」
「近いから、正しい説明をしておけばいいんですか」
「そうは思ってない」
「でも、今、それしか聞こえてないです」
高城が頷きかけ、美月は先に目を逸らした。頷いた後へまた説明が続く気がした。今なら、どんな言葉にも否定から返してしまいそうだった。
それは、自分の望んだ時間ではなかった。
「ごめんなさい。今日は、帰ってほしいです」
高城の手が止まった。美月は視線を戻した。今の言葉まで、違う意味に取られたくなかった。
「別れたいって話じゃないです。今、これ以上聞くと、余計に傷つけることを言います」
高城は少し待ってから、分かった、と答えた。すぐに美月を抱き寄せたり、手を取って帰らないと主張したりしなかった。
椅子を引き、入口の袋へ目を向ける。
「食事は、置いていっていい?」
「……はい」
自分が食べることまで拒みたいわけではなかった。美月は小さく頷き、高城が袋を冷蔵庫の前へ移すのを見た。中に何があるか短く伝え、冷やすものだけは美月へ確認して入れた。
実際に帰る姿を見ると、引き留めたくもなった。だが、それを理由に帰ってほしいと言ったわけではない。試すための言葉へ変えたくなかった。
玄関では、美月も入口まで行った。高城は靴を履いてから、こちらへ向き直った。
「話を聞くために来たのに、違うことをしてしまった。ごめん」
美月は頷いた。今すぐ許す言葉も、もっと責める言葉も出さず、聞いたことだけを示した。
「今日は、帰る。落ち着いてから、また話したい」
「はい。私も、話したいです」
高城が扉を開け、出ていった。鍵の音がいつもより大きく聞こえた。美月は玄関の壁へ片手をつき、息を整えた。
会えたら泣けると思っていた。実際には泣きながら相手へ説明をし、また自分の言葉で傷ついた。
部屋へ戻ると、二つのグラスがそのままだった。高城の方の水を流し、自分の方を一口飲む。冷たすぎて喉が痛い。
スマートフォンが光ったので手を伸ばしたが、水野から明日の開始時刻の確認だった。美月は確認しましたと返した。明日の仕事を辞めるつもりはない。今夜できないことと、明日行くことは別だった。
食事の袋を開けると、温めれば食べられる小さな惣菜とご飯があった。食べる気になれず、まず冷蔵庫へ入れた。後で少し食べようと決める。高城が持ってきたから全部が嫌になる、という気持ちではなかった。
美月は椅子へ座り、涙が落ちるままにした。泣く理由が仕事だけなのか、恋人との会話なのか、いちいち分けられない。誰かへきれいに説明するために、今の気持ちを整理する必要もなかった。
しばらくしてティッシュを取り、水をもう一口飲んだ。
高城から、長い釈明は来なかった。
そのことを寂しく思いかけたが、今夜帰ってほしいと言った自分の言葉を、守ってくれているのだと考え直した。
美月も電話を掛けなかった。落選を取り消してもらうためではなく、隣で聞いてもらうために会いたかった。その一言を、明日は言えそうな気がした。
しばらくして、窓の外でバイクの音がした。美月は顔を上げ、部屋の空気が重くなっている気がして、カーテンを少し開けた。向こうの家の明かりが一つ見える。自分の仕事で誰が選ばれたかとは無関係に、同じ夜を過ごす人がいる。
美月は深く息を吸おうとして、鼻が詰まっているのに気づいた。洗面所へ行き、もう一度顔を洗った。タオルを出すとき、左の棒のことを覚えていた高城を思い出す。
優しくしてもらったことはあった。昨日より前の楽しい時間まで全部、今日の言葉だけで間違いに変えたくはなかった。
それでも、帰ってほしいと言ったことを取り消す気持ちにはならない。嫌だったことは嫌だ。良かったことを思い出すのと、今の自分を黙らせることは違う。
タオルを掛け、台所へ向かった。
持ってきてもらった食事を、温める前に小さな器へ半分だけ分けた。全部食べると決めると重いが、一口からならできそうだった。電子レンジが動く間、流しに残った自分のグラスを洗う。
冷凍庫には、高城が切ったパンもまだ少しある。美月はご飯の容器を出し、冷蔵庫を閉めた。
部屋の椅子へ戻り、机のノートを端へ寄せた。
高城へすぐに連絡しなければ関係が終わる、とは思わなかった。帰るとき、また話したいと言っていたし、自分も同じ返事をした。その言葉は、今夜つらかったこととは別に残っている。
電子レンジが鳴った。美月は椅子から立ち、自分の食べる分を取りに行った。
夜が深くなる前に、半分ほど食べた。残りを冷やす。食器を洗った後、明日の練習着を鞄へ入れた。
センターの印は、自分の場所にはついていない。恋人へ会いたいと言った夜も、うまくはいかなかった。
どちらも今夜中には直らない。美月は部屋の明かりを落とし、泣いて疲れた顔のまま横になった。




