第24話 選ばれなかった私
水野が資料を置いたとき、美月は最初に自分の手を見た。
膝の上で重ねた指が、白くなるほど押し合っている。少し緩め、机へ視線を戻した。最終確認の映像を撮ってから、四日経っていた。
四日前の最終確認では、最初に一人ずつ踊り、その後に何通りかの並びを試した。中央に入ったとき、美月は最初の音へ合わせて前を向いた。
前の人を追えばよい位置ではない。両側の動きが見えないまま、自分の動きを曲へ置かなければならなかった。鏡で五人を確かめたいと思ったが、本番では目の前に鏡はない。
美月は顔を正面へ戻し、決めた場所で止まった。次の音を待つ。後ろの足音が聞こえ、自分が次へ動けば、そこへ人が入ることが分かる。
最後の静かな部分では、歌う言葉を渡す先を遠くへ置いた。声を押しすぎず、次の息までつながった。終わった後、膝へ手をつきたくなったが、立ったまま挨拶した。
自分の番で全部を出せたかと聞かれれば、まだ分からなかった。一箇所、足を戻すのが小さくなった。けれど前へ出すぎず、次の音に戻れた。できなかったところだけ数えずに済んだのは、以前より変わったことだった。
柚葉の番は、最後まで見た。腕の伸びた先へ目が行き、そのまま次の動きが始まる。中央にいる人だけを見ているつもりが、気づくと五人の形が目に入った。
美月はそれを見ながら、やっぱり上手いと思った。自分の番が終わっても、練習で隣へ入るときはちゃんと合わせようとした。
結果は後日と告げられた。美月は鞄を持ち、帰る前にもう一度、中央の床の印を見た。今日あそこに立った感覚は、自分のものだった。
それから四日間、まだ何も知らない普通の顔で仕事をした。夜には一度だけ確認用の映像を見たが、見返しても結果は分からないと気づき、それ以降は開かなかった。
今朝、結果を伝える時間が水野から届いた。美月はその前に軽く食事を取り、時間より早く稽古場へ来た。
五人とも、いつもの稽古場の壁際に座っている。曲が流れていないので、換気の音がよく聞こえた。
「新曲のセンターは、柚葉で進めます」
水野の声は、聞き取りやすかった。美月が聞こえなかったふりをする隙はなかった。
隣の柚葉が背筋を伸ばす。都和が一度頷き、絵里香が小さく息を吸った。
美月は、柚葉の方を見た。
「おめでとう」
自分の声は、ちゃんと出た。柚葉がこちらへ顔を向け、ありがとう、と言った。驚きと緊張が混じった顔だったので、美月も口元を緩めた。
笑顔を作るのは得意だった。
水野は選考に関わった人たちから預かった理由を、五人へ伝えた。曲の強い切り替えに合う動きが安定していること。前後の立ち位置が変わっても自分の軸を保ち、全体の見え方を揃えられること。歌の課題は残るが、そこは今後の練習で補う方針だという。
美月は何度も見た足の運びを思い出し、頷いた。
「ほかの四人の配置と、見せるところも、次のリハーサルで確認します。今日の結果は、今回の曲の中心を誰にするかの判断です」
水野が言った。美月は紙の端を見た。今回、という言葉で慰められたくないと思う一方、すべての仕事で自分が下だと言われたわけではないことも、頭では分かっていた。
全体の連絡が終わると、柚葉が立ち上がり、短く話した。
「ちゃんと、曲に合うようにします。歌で足りないところも、練習するので。よろしくお願いします」
都和が、皆で作ろう、と答えた。芹佳は歌の合わせを相談し、絵里香は動きの確認を頼んだ。美月もよろしく、と言った。
言いながら、悔しかった。柚葉が悪いのではない。そのために用意された場所へ、自分が立ちたかった。
次の練習の説明に入る前、短い休憩になった。美月は水を取りに壁際へ行き、水野へ声を掛けた。
「私の、足りなかったところも、聞けますか」
水野は頷き、ほかの人の手が空いている場所から少し離れた机へ案内した。秘密の話ではないが、皆の休憩中に美月だけの評価を大きな声で読み上げる必要もなかった。
「相沢は、表情の変化と、静かな部分の目線がよかった。ただ、切り替えが続くところで、動きと呼吸が安定しない回があった。五人で配置を変えたときに、それが出やすかった、ということです」
美月は頷いた。最終の映像で、自分でも気になったところだった。前よりよくなったことと、選考で一番安定していたことは、同じではない。
「最後の回は、自分では合った気がしたんです」
「最後は、前よりよかったと聞いてる。それも含めて見たうえで、複数回の安定と曲への合い方で決めたそうです」
水野は、そこを別の言葉へ丸めなかった。美月も、じゃあ一回だけできればいいわけではないですね、と答えた。
ノートへ書こうとして、今日はまだ手が動かないと分かった。
「後で、書きます」
「うん。今日はまず受け取るだけでもいい。質問はまた預かれるから」
美月は礼を言った。水野は背中を叩いたり、今すぐ笑顔へ戻すよう頼んだりしなかった。それでも次の仕事の時間は来るので、美月はボトルを持って全員のところへ戻った。
その日の残りは、新曲の立ち位置の説明と、既存曲の短い練習だった。柚葉はセンター用の動きを別に確認し、ほかの四人もそれぞれ変わる場所を教わる。
美月の位置は、柚葉のすぐ隣だった。
遠くへ外されたわけではない。だからこそ、あと一人分だと思うと、目を向けるたびに喉が詰まった。
高城は全体の演出打ち合わせのため、夕方に来た。彼が結果を知ったのは、選考側で確定した後、水野と長谷部から制作の組み方を共有されたときだと聞いた。
採点も投票もしていない。それは最初から分けてあった。
美月は高城が振付師たちと話すのを、少し離れた場所から見た。柚葉が中央から動くとき、ほかの四人がどの方向へ目線を向けるか。ステージの明かりをどう切り替えるか。そこには自分の好きな人がいて、柚葉のセンターを形にするために仕事をしていた。
打ち合わせが終わってから、美月は近づいた。
「高城さん。演出のことで、一つ聞いてもいいですか」
高城は水野がそばにいることを確かめ、頷いた。
「柚葉が真ん中になるの、どう思いますか」
答えを変えてほしいわけではなかった。けれど、本人の口から聞かないまま、仕事の姿だけを見ているのもつらかった。
高城は少し間を置いた。
「今回の曲を柚葉中心で作ることには、賛成。強い音のところで、全体の形が安定する。そこを軸にして、静かな部分では周りの表情を見せる演出にしたい」
美月は頷いた。嫌な予感を覆す返事ではなかった。高城が好きな自分を選ばなかったのではなく、選ぶ立場から外れた後、自分とは別の結論を仕事として支持している。
分かっても、痛かった。
「私のところは、次のリハーサルで確認するんですよね」
「うん。全員で」
「分かりました。ありがとうございます」
美月はそこで会話を止めた。ここで、自分の方がよかったと言わせるのは違う。高城の仕事を、恋人への気持ちで塗り替えてほしかったわけではない。
ただ今は、仕事の返事以外の言葉も必要だった。
着替えを終える頃には、柚葉は歌の確認へ呼ばれていた。美月は先に帰ると伝えようとして、廊下で待った。柚葉が出てくると、もう一度、センターおめでとう、と言う。
「ありがとう。私、歌で迷惑かけないようにする」
「迷惑って決めなくていいと思う。必要なら、私も一緒に合わせる」
美月はまた明日と手を振った。柚葉が歌の資料を抱え直すのを見てから、帰りの階段へ向かった。
帰りの電車では、空いた席へ座らなかった。座ると、急に身体が動かなくなりそうだったからだ。鞄からスマートフォンを出し、高城の私的な連絡を開く。
今日の仕事の資料を送る必要はない。選考の理由は水野から受け取った。改善の相談は、明日以降、担当の先生へ聞ける。
今、欲しいのは別のものだった。
『今日は会えますか』
送信した。いつもなら予定の説明を付けるところだが、今日はそれ以上打てなかった。
高城からは、会える、という返事と、仕事が終わる時刻が届いた。
『家に来てほしいです。何も、用意できないですけど』
『用意しなくていい。帰ったら一度、連絡する』
美月は画面を閉じ、窓の向こうを見た。自分の顔が薄く映っている。笑顔を作っていなかった。
家へ着いたら、顔を洗って待とう。駅を出る前に水を一本買い、改札の外で鞄へしまった。歩く足はまだ少し重かったが、帰る道を選ぶのには迷わなかった。




