第23話 あの子の方がいいですか
柚葉は、自分の前の空白を広げる代わりに、横へ半歩ずれた。
そのおかげで、後ろから出てくる芹佳が、曲の切れ目に間に合った。鏡の中で五人の線が揃う。美月は自分の腕を止めた後、横目で柚葉の足を見た。
今日、もう三回めだった。
誰かの動きが詰まりかけると、柚葉が先に気づく。指示された位置を勝手に変えるのではなく、曲を止めた後、ここを少し空けてもよいかと振付師へ尋ねる。
「さっきの、これくらいずらせば、芹佳さんの最初の足が出せると思うんですけど」
柚葉が床のテープを指した。振付師は五人を止めたまま、芹佳へ同じ動きを試すよう頼む。美月も自分の位置へ戻り、変更でどこが狭くなるかを確かめた。
「相沢、こっちから来るとき、腕は大丈夫?」
講師に聞かれ、美月はゆっくり動いた。
「大丈夫です。ただ、私が先に出ると、柚葉の後ろへ近づきすぎます」
「なら、今の音の取り方で。順は変えない」
確認してから、もう一度音が出た。今度は芹佳も急がず入れた。柚葉の動きまで大きく見える。
美月は揃ったことを嬉しいと思い、その直後に、悔しいとも思った。
自分も、見ているつもりだった。腕を上げる角度、止まる音、隣へぶつからない距離。これだけ考えているのに、柚葉はその先へ手を伸ばせる。
休憩で水を飲んでいると、柚葉が近づいてきた。
「さっき、幅、教えてくれてありがとう」
「私の腕のこと?」
「うん。そこ、私から見えなかったから」
美月はボトルの蓋を閉じた。今の感謝は本当だと分かる。柚葉が何でも一人で見えているわけでもない。
それでも、自分の中の比較がすぐに止まるわけではなかった。
「柚葉って、どうして気づくの。人が動きにくそうなのとか」
「見てたら、同じところで一回詰まるから。自分の振りが合ってても、隣が遅れると全体だとずれて見えるし」
「自分のことで精一杯にならない?」
「なるよ。だから映像で見る」
柚葉は床へ座り、靴紐を結び直した。
「前の公演で、私、前へ出すぎたの覚えてる? あれから、全員の足の位置を一回見てから、自分を見るようにしてる」
美月は覚えていた。そのときは、踊りの強い人でもそういう失敗があるのだと思っただけだった。柚葉はその失敗を、次の映像を見る手順へ変えている。
「今日の映像、私もそうやって見てみる」
「うん。あと、私もサビの終わりの歌、まだ息が足りない。都和さんに聞くつもり」
柚葉は立ち上がり、都和のところへ向かった。美月はその後ろ姿を見送った。もっと近い位置へ行きたい気持ちは、まだ残っていた。
午後の選考用リハーサルでは、全員が同じ順番で中央へ出た。美月は柚葉の直後だったので、目に残った動きを真似したくなった。
しかし、同じ幅を出そうとして足が遅れた。美月はすぐに元の音へ戻し、最後まで止まらず踊った。終わると講師から、途中で戻したのはよかったが、最初に何を変えたのかと聞かれる。
「大きく見せようとして、足を出しすぎました」
「今の距離で大きく見せるなら、足の幅だけを増やさない。上の伸び方から考えて」
美月は頷いた。相手の長所を、そのまま自分の身体へ持ってこようとしていた。見比べるだけでは、直す場所を間違える。
自分の映像を見るのは、休憩の後にした。今すぐ見ると、柚葉と並べて自分の悪いところだけを数えそうだった。
控室の外でスマートフォンを開くと、高城から私的な連絡が来ていた。夜、電話できそうな時間を知らせるものだった。
美月は返信欄へ指を置いた。
『あの子の方がいいですか』
打ってから、止まった。主語も理由もない。高城へ送れば何の話かは伝わるかもしれないが、彼が答えるべき質問ではなかった。
恋人に安心させてもらいたい気持ちを、仕事で自分を上に置く言葉へ変えようとしている。
美月は文を消した。
『今日は少し、悔しいです。夜、話は聞いてほしいです』
それだけを送った。
部屋へ戻ると、水野が選考用の確認映像を用意していた。美月は自分のところだけを先に見せてもらい、何を試したかをノートと照らした。
一回めは足が出すぎていた。二回めは、上半身を伸ばした分だけ、同じ場所でも動きが大きく見える。まだサビの最後で息が上がるが、全部が小さいわけではない。
「美月は、どこが一番気になった?」
水野が尋ねた。美月は、柚葉の方が上手いこと、と答えそうになり、画面へ戻った。
「ここです。静かなところへ戻る前、息を吸うのを急いで、肩が先に上がります」
「先生へ確認したい?」
「はい。あと、自分では二回めの方が合ってる気がするので、そこも聞きたいです」
水野は確認事項をまとめた。技術的な答えは講師へつなぎ、自分が全部を教えようとはしない。その手順が、今はありがたかった。
夕方、説明を受けた美月は、練習の終わりにあと三回だけ試した。都和に歌の入りを聞いてもらい、肩を上げる代わりに、静かな部分へ入る前の息を少なくする。
一回は音を外し、二回めは動きが小さくなった。三回めで、両方が少しつながった。
「今の感覚、覚えて帰ろう」
都和が言った。美月は、もう一回やればもっと合うかもしれないと口にしかけ、やめた。今日の最初から最後まで、何回やっても足りない気持ちでいる。練習を終える目印も必要だった。
「ありがとうございました。明日、最初にもう一度試します」
鞄を持つとき、柚葉が先に帰るところだった。美月は名前を呼び、さっき教えてもらった映像の見方が役に立ったと伝えた。
柚葉は、よかった、と笑った。
美月も笑い返した。
夜の電話で、高城は何が悔しかったかを聞いた。美月は相手の能力の細かな比較ではなく、自分が誰かを真似して変えたこと、上手くいかず自分の動きへ戻したことを話した。
「今日は、途中で、自分の良かったところまで消えそうになりました」
「うん」
「でも、二回めは前より合いました。それは、自分でも分かったので、そこは残します」
高城は、その見方ができたならよかった、と答えた。美月が選ばれるかどうかの話へは進まなかった。
美月も、柚葉より自分がいいかとは聞かなかった。先に消した一文は、今なら別の答えになる。
あの子はいい。自分も、よくしていきたい。
きれいな気持ちだけで言えているわけではなかった。それでも、明日の自分へ持っていける方の言葉だった。
翌日、数日後の最終確認へ向けた短い合わせでは、美月は最初に決めた通り、自分の息と肩を確かめた。昨日できた回を再現しようとして力むと、別のところでずれる。都和が先に歌い、美月は声の終わりを聞いて入った。
一度目は間に合った。二度目は足を急いだ。美月は二度目だけを全体の答えにせず、何が違ったかをノートへ書いた。
その後、全員で並んだ。柚葉が、自分の位置を広くしたせいで絵里香の腕が近づくところがある、と振付師へ相談した。柚葉の提案も毎回すべてそのまま通るわけではなく、今度は足の位置を戻し、上半身の向きだけ変えることになった。
美月は自分が少し前へ出るタイミングを確かめ、絵里香と一度、手を出す高さを合わせた。
「今の、さっきより見えやすかった」
絵里香が言った。美月は鏡を見て、腕を下ろした。
「私も、ここなら出しやすいです」
柚葉が二人の間を確かめ、ありがとう、と頷く。美月はその返事を受け取りながら、また悔しくなった。今していることは自分にもできた。けれど、最初に気づいたのは柚葉だった。
その差を毎回大きな敗北にしていると、次の音を聞けなくなる。美月は水を飲み、鏡に映った五人を一度端から端まで見た。
まだ、誰が真ん中で曲を始めるかは決まっていない。それでも、全員が揃うべき場所は同じだ。そこを外さないことまで、選ばれないための我慢だと思いたくなかった。
最後の一回、美月は自分から、もう一度合わせてもよいかと頼んだ。講師は時計を見て、一回だけ、と答えた。
曲の終わりまで踊り、息を吐く。美月は他の四人へ、お疲れさまでしたと言った。今日したかった練習を、ちゃんと終わらせて帰れた。鞄へ入れた靴は、朝より少し重く感じたが、まだ明日も履きたいと思った。
帰宅してから、美月はノートの一番上へ、音を聞く、と短く書いた。その下へ、隣の人、と足す。
中央の位置に立っても、そこから五人の曲が聞こえるようにしたかった。




