第22話 恋人には聞けないこと
送る前の文章が、三つ続けて消えた。
美月はベッドの上で片膝を抱え、スマートフォンを見た。今日の練習で、曲の途中の動きが一度だけ合った。それを高城へ話そうとして、どこまで言ってよいのか分からなくなったのだ。
技術の質問をしなければいい。それは分かっている。だが一度できたと言えば、どうやってできたかを話したくなる。その先で、今の自分がほかのメンバーよりどう見えるかを聞いてしまいそうだった。
美月は文章を消し、代わりに、今日もお疲れさまでした、と送った。
高城からも、同じように短い返事が来た。
翌日の練習で、美月は同じ迷いを持ったまま、振付師へ質問した。入りを待つと上半身が遅れ、急ぐと足だけが先へ出る。言葉で説明しながら、どちらも実際に見せてみる。
講師は音をゆっくりにし、止まった姿勢を横から確かめた。美月の足より先に、視線が次の位置へ飛んでいるという。
「ここで、まだ前を見ていて。身体だけ先に行かせない」
美月は言われた通りに動き、一度だけ、肩を急がず足を出せた。戻してもう一度試すと同じにはならない。それでも、何を確認すればよいかが具体的になった。
美月は講師へ礼を言い、その場でノートを開いた。高城へ聞こうとしていたときより、質問の中身は細かかった。どこが怖いかではなく、何をどう動かすと困るかを言えていた。
練習の終わりに、水野へ、今日確認できたことを短く伝えた。
家へ帰った後、ノートに書いた一行を誰かへ見せたくなった。高城に送らないと決め、また今日もお疲れさまの文だけを打つ。技術の答えは得られたのに、嬉しかった気持ちまで一人で片づけるのは、思ったより寂しかった。
それが三日続いた。
電話の約束もせず、食事へ行けそうな日も聞かない。練習と仕事の間に会える時間は少なかったが、まったくないわけではない。
ただ、会って一番話したいことを話さずにいるなら、何を話すのか分からなかった。
四日めの夜、高城から、今、少し話せる、と来た。美月はまだ濡れている髪をタオルで包み、通話を受けた。
「こんばんは」
「こんばんは。今、大丈夫?」
「はい。髪を乾かす前なので、五分くらいなら」
「分かった」
それきり、少し静かになった。美月は高城が話すのを待った。仕事の確認なら水野へ回るはずだから、私的な話があるのだろう。
「最近、何かあった?」
高城の問いに、美月は曖昧な笑いを浮かべた。向こうには見えないのに、返事を柔らかく見せようとしている。
「練習は、あります」
「うん。それは分かる。忙しくて、連絡が面倒になってるなら、そう言ってくれていいんだけど」
美月は背筋を伸ばした。
「面倒ではないです」
「なら、よかった」
高城が一度息を吐いた。美月はそこで初めて、少し距離を感じているのが自分だけではなかったと分かった。
「私、どこまで話していいのか、分からなくなってます」
美月はタオルの端を持ち、ほどけないよう押さえた。
「選考のこと、私から個別に相談するのは違うじゃないですか。だから練習の話をしないようにすると、ほとんど何も残らなくて」
「今日、何してたかまで話せないってことじゃない」
「それは分かるんですけど、話し始めたら、たぶん感想を聞きたくなるので」
高城はすぐに答えなかった。美月も今度は、言い訳を足さずに待った。
「俺が何か答えを持ってると思ってる?」
「……少しは」
「採点にも決定にも入ってないし、個人ごとの選考の途中経過は聞いてない。全体の制作を組むための確定した話は確認するけど、今、美月が何点かは知らない」
美月は頷いた。仕事の線引きを聞いて分かったはずなのに、まだ高城なら何でも見えると思っていた。
「分かりました。今のは、私が勝手に期待してました」
「でも、内情を聞きたいわけじゃないんでしょ」
「はい。……できれば、今のままで大丈夫って、言ってほしくなります」
美月は正直に答えた。高城は、そこは言えない、と静かに言った。
予想していた返事なのに、少し寂しかった。恋人だからこそ安心させてほしい、という気持ちは、都合よく消えない。
「うん。でも、だから何も聞かないってことじゃないよ」
高城が続けた。
「例えば、緊張してるって言うのは、話せる。俺にできるのは、聞くこととか、一緒に休むこと。その場で選考に役立つ個別の直しを教えるのは、しない」
美月は少し考えた。
「緊張してます。すごく」
言ってみた。タオルの端から、水が首元へ落ちる。
「皆、普通に話してるのに、自分だけ、選ばれなかったらどうしようって考えてしまいます。まだ終わってないのに」
「うん」
「でも、柚葉も緊張するって言ってたので、私だけじゃないんですよね。分かってるのに、私だけ何もできてない気がする日があります」
高城は、そんなことない、と即答しなかった。美月は自分の言葉を聞きながら、どこが怖いのか少しずつ分かった。
選ばれないことも怖い。それ以上に、本気で欲しがっていたのを皆に知られるのが怖かった。目指していなければ、結果を普通の顔で受け取れるような気がする。
「なりたいって、言ってよかったんでしょうか」
美月が聞くと、高城は、そこは答えられる、と言った。
「言ってよかったと思う。なりたいから練習してるんだって、美月自身が分かってる方がいい」
美月は顔を上げた。
「そういうのを、聞きたかったのかもしれません」
「うん」
「今、分けてくれて助かりました」
美月は壁の時計を見た。約束の五分を少し過ぎている。髪を乾かす必要があると伝えると、高城は、じゃあ一度切ろう、と答えた。
切る前に、美月はもう一つだけ頼んだ。
「乾かし終わったら、また少し、話してもいいですか」
「もちろん」
返事が速かったので、美月はスマートフォンを机へ置いてから笑った。
髪が乾いてから、美月は練習用のノートを開いた。今日の技術的な疑問を二つだけ書き、明日振付師へ聞く印をつける。終わるとノートを閉じた。
高城へ写真を送ることはしなかった。
二度めの電話では、高城の方も食器を洗い終えていた。美月は、自分のノートのことを細部なしで話し、質問先は明日と決めたと伝えた。
「それで、今日は何食べたんですか」
聞くと、高城は買った惣菜と、ご飯だと答えた。料理の本はまだ全部試していないらしい。
「私も、今日は作ってません」
「練習遅かった?」
「はい。だから、お弁当です。ちゃんと食べたって言おうと思って」
「それなら、聞けてよかった」
美月はベッドへ腰を下ろし、膝へ薄い布を掛けた。仕事の話を避けるために別の話題を絞り出しているのではなく、今お互いがどうしているかを知りたかった。
「私、連絡が短いと、冷たくされた気分になるくせに、自分も同じことしてましたね」
「理由が分かったから、今はそう思わない」
「最初、どう思いました?」
高城は少し黙り、仕事で自分と話すのが負担になったかと思った、と答えた。
美月はその言葉をすぐ否定した。
「嫌になったんじゃなくて、聞きたくなりすぎるから避けてました。逆です」
「それは、聞かないと分からなかった」
美月は、そうですね、と返した。
高城が明日は何時に起きるのかと聞いた。美月は午前の練習からなので、早めに寝るつもりだと答える。
おやすみを言う前に、今度は用意せず、思ったまま頼んだ。
「頑張ってって、言ってください」
高城は美月の名前を呼んだ。
「美月。頑張って。明日、終わったらまた話そう」
美月は、はい、と答えた。技術の答えは増えていないし、順位も分からない。それでも、明日の時間へ自分で歩いていけそうだった。




