第2話 準備して何が悪い
美月の台本を見た高城は、一ページめで指を止めた。
「これ、全部覚えてきた?」
「はい。どこが使われるか分からないので」
「覚えなくていい」
収録前の打ち合わせ用の小部屋で、隣にいたメンバーの絵里香が、紙コップを持ち上げたまま「えっ」と声を漏らした。長机には番組側の資料と、二人ぶんの名札が並んでいる。水野は廊下へ出て、収録後の車の時間を確認していた。
美月は高城の手元へ身を乗り出した。
「質問をいただいてるのに、考えてこなくていいんですか」
「考えるのと暗記は違う」
「考えて、それを忘れないように覚えてます」
「司会が一言変えたら?」
「その質問に合わせて変えます」
「なら、丸ごと覚えなくていいでしょ」
高城は、三行にわたる休日の回答を指した。洗濯をして、作り置きをして、家で映画を見る。アイドルになって忙しくなったが、家を整える時間を大切にしたい。言ってはいけないこともないし、実際にしていることだ。
「これ、何の映画見たの」
「この前は、昔の冒険映画です」
「どこが好きだった?」
「好きっていうか、途中で寝たので、後半を翌日に見ました」
絵里香が紙コップを机に戻した。
「そっち聞きたい。どこで寝たの?」
「船が沈みそうなところ」
「いちばん寝ないところじゃん」
美月は台本の端を押さえた。高城が何か言う前から、言われることが分かるのが悔しい。
「寝た話ばかりするわけにもいきません」
「ばかりじゃなくて、一つそういうのがあってもいいって話」
「清楚な印象で覚えてもらってるのに」
「洗濯して作り置きして映画見た、で終わったら、話を渡すところがない」
高城は台本を返した。答えの文章には触れず、見出しの横だけを指で叩く。
「出来事は持ってて。返事の文章までは決めなくていい」
美月は台本を受け取った。正論らしい形になっている。そういうことを簡単に言える人は、何も思いつかなかったときの十秒を、自分の席で過ごさなくていい。
「頭が真っ白になったら、どうするんですか」
「ちょっと待ってください、でもいい」
「待ってもらって何も出なかったら」
絵里香が手を挙げた。
「私に振って。代わりに次、私が困ったら助けて」
美月は隣を見た。絵里香の台本にもメモはある。だが答えの全文ではなく、人名と出来事が小さく並んでいるだけだった。
「助けるほど、私、早く返せるかな」
「さっき私の映画への失礼は、ちゃんと止められたよ」
「あれは、止めたくなるから」
「じゃあ私、失礼なこと言っとく」
「言わなくていいです」
高城が長机から一歩退いた。
「失敗してもいい。終わったら、どこで困ったか一緒に見よう」
水野が戻り、あと五分でスタジオへ移動すると告げる。美月は台本を閉じたが、台詞が頭の中から消えたわけではない。どの質問へも答えられるようにしてきた。その準備を持ったまま、絵里香の隣で立った。
スタジオのセットには、緩く弧を描くソファが二つ置かれていた。二人は右側のソファの端、芸人のゲストはその隣。向かいに司会が座り、間の低いテーブルへ番組ロゴの入ったマグカップが並んでいる。
事前説明の間、美月は床の目印を確認した。立って紹介するときは黄色の線まで。カメラが近づいてもレンズへ視線を移さず、話している司会を見る。忘れないことを、一つずつ足元に置くように確かめた。
収録が始まり、自己紹介は問題なくできた。グループでの役割を聞かれ、美月は準備してきた答えを半分に短くした。メモが細かいと絵里香が横から言い、司会が「じゃあ今日も予習してきた?」と拾う。
「はい。失礼のないようにと思って」
「えらいねえ。絵里香ちゃんは?」
「私は、美月が困ったら助けるって約束してきました」
「もう助けてもらってるね、美月ちゃん」
客席から笑いが起きた。美月も頷いて笑った。膝の上の手を組み直し、司会の次の問いを待った。
「そんなきっちりした美月ちゃんでも、家では違うの? たとえば寝起き」
洗濯の話をしようとした口が止まった。台本には、寝起きという見出しはなかった。
朝は苦手だ。アラームを五分ずらして三つかけ、二つめを止めた記憶がない。昨日もカーテンを開けたところで、あまりの明るさに閉め直した。
けれど、それを説明し始める前に、司会が微笑んで言った。
「やっぱり清楚な人は、朝も優雅に起きるんでしょうね」
「清楚と寝起きは別です」
自分の声が、思ったよりはっきりスタジオへ響いた。
間があった。美月はまずいと思って姿勢を正したが、隣の芸人が膝を叩いた。
「分けて管理してんだ!」
「寝起きはどっちに分類されるの?」
司会に聞き直され、美月はもう清楚へ戻る道を見失っていた。
「人間的にです」
「いや、全員人間として聞いてるよ!」
絵里香が顔を伏せて笑い、客席の拍手が重なった。美月は自分の膝を見て、一拍遅れて笑った。用意した言葉より短い返事で、ずいぶん遠くまで来てしまった。
「具体的には、どんな人間なの」
「アラームを止めるときだけ、判断が速い人間です」
「動きが機敏なんだね」
「その後は何も動かないです」
また笑いが起きた。今度は美月にも、次に何を言えばいいのかが少し分かった。司会が絵里香へ朝の支度を聞き、話は二人の連絡のやり取りへ移った。
美月は全員の顔を順に見た。自分の話をもっと足さなくても、ここに座っていていいらしい。
後半、料理の話題になった。作り置きの話を振られたとき、美月は台本に書いた献立を答えた。手順は覚えていたので困らなかった。ただ、司会が「得意料理ってこと?」と聞いたときは、頷く前に考えた。
「失敗しない料理です。得意に入れていいなら」
「入れてあげて。俺もそういうのしか作らないから」
今度の笑いは大きくなかった。それでも共演者が自分の料理の失敗を話し始め、無理なく次へつながった。
美月は、その違いも覚えておきたかった。
収録後、スタジオの出口でスタッフに挨拶し、二人は廊下へ出た。絵里香が両手を上げる。
「今日の美月、めっちゃ面白かった」
「変じゃなかった?」
「人間的には、かなりよかった」
「それ、しばらく言うつもりでしょ」
「うん」
控室でバッグをまとめていると、高城が入ってきた。水野は絵里香と衣装の返却を確かめている。美月は台本をしまうふりをして、高城が口を開くのを待った。
「良かった」
言われると、今度は返事がすぐ出なかった。
「……どこがですか」
「寝起きの返し。質問聞いて、自分のこと答えてた」
「普段も自分のことですけど」
「そうだね。今日は、相手に返す言葉になってた」
高城は、美月がバッグへしまいかけた台本へ目を落とした。
「料理の後、ほかの人が話し始めてから二回、入ろうとしたでしょ。あそこは待っていい」
「見てたんですか」
「見てる仕事なので」
「褒めたまま終わる選択肢は」
「今日はない」
美月は台本を開きかけて、ペンだけを出した。余白に、ほかの人の話を待つ、と書く。高城の目の前で書くのも癪だったが、忘れて次に同じことをする方が嫌だった。
「でも、準備してた料理の話も使いました」
「うん。準備は要る」
「最初からそう言ってください」
「丸ごと暗記しなくていいとは言った」
「言い方の試験だったら、そっちも減点です」
高城が口元へ手をやった。笑いをこらえているのか考えているのか、美月には分からなかった。
「何点満点?」
「採点基準は非公開です」
「厳しいな」
水野が帰りの車を告げ、会話はそこで終わった。美月は台本をバッグへしまい、高城にもお疲れさまでしたと頭を下げた。
車では絵里香が先に眠った。美月は窓に映る自分へ、清楚と寝起きは別です、と口を動かしてみた。もう同じ速さでは出てこないし、今言っても特別面白くなかった。
あのとき司会が変な期待をしたから、言いたくなったのだ。
家に帰ってから、料理の容器を一つ冷蔵庫から出した。収録で話した煮物は、まだ一食分残っている。温めながら、実際に何を作ったのかを忘れずに答えられたことと、司会への返事が咄嗟に出たことを、別々に思い返した。
暗記が全部悪いわけではなかった。食材の名前を間違えずに言えたのは、書いて確かめたからだ。一方、今日いちばん笑われた言葉は、台本のどこにもない。
机へ戻り、台本に書いた回答のうち、事実の部分だけを丸で囲んだ。残りの文章を消す勇気はまだなく、線を薄く一本引くに留める。次に同じ作り方をするなら、初めから短い見出しにしてみようと思った。
次の番組の資料を机へ広げた。まず日時と持ち物を確かめ、紹介される順番に印をつける。知らない名前を調べ、最近の活動を短く書き添えた。ここは減らしたくない。
話題の下には、いつものように答えを書いた。ただ一つ、「最近、腹が立ったこと」の欄でペンが止まった。
黒いシャツの男が浮かんだが、そのままテレビで話せる理由ではなかった。
美月は見出しの横に丸だけをつけ、答えは空けた。
ペンを置いてから、もう一度その欄を見た。丸だけの余白を残し、台本を閉じた。




