第17話 今日は褒めるだけにしてください
「今日は、褒めるだけにしてください」
美月は席へ座って、最初に言った。
高城は手にしていたメニューを下ろした。向かいの皿には、まだ何も載っていない。店の奥の小さな個室で、昨日の会話の続きをするために会ったところだった。
「昨日のことを話す前に?」
「いえ。昨日、そう言えばよかったって話です」
美月は膝へ手を揃えた。仕事の後で疲れていたが、それを理由に言葉を選ばないでよくなるわけではない。練習帰りの車で何度か考え、それでも最初の言葉がこれになった。
「練習の映像、見てもらいましたよね。あれ、技術の意見を聞くつもりも、ありました」
「うん」
「でも、それより先に、今日こんなことをしたって、聞いてほしかったんです。頑張ったから、恋人には頑張ったねって言ってほしかった」
言葉にすると、かなり子供っぽく聞こえた。美月はメニューの端へ目を落としかけ、戻した。顔を見て言うために、今日の時間を頼んだのだ。
高城は一度頷き、美月が続けるのを待った。
「上手かったって、嘘をついてほしかったわけではないです。私がまだ下手なのは、自分でも分かるので」
「下手、でまとめる必要はないと思う」
高城が言い、美月は少し止まった。今の言葉へ反論するためではなく、どう答えれば伝わるかを考えた。
「……まだ、できないことがあるのは分かってます。でも、仕事の外で会ってるときまで、できないところだけで話が終わると、私そのものが駄目って言われた気分になります」
高城はメニューを机の端へ置いた。
「昨日は、意見を聞かれたから意見を返したつもりだった。どういう意味で見てほしいか、確認しなかった」
「はい」
「その後、気持ちの話になっても、俺は何を言ったかの説明を続けた。あそこは聞けばよかった」
美月は息を吸った。昨日は、そうは言ってないという返事のたびに、自分が勝手に傷ついたのが悪いと思った。今日の説明では、同じ場所を違う方から見てもらえた。
「私も、全部駄目なんですかって言ったのは、飛びすぎました。そう言われたわけじゃないのに」
「うん」
「自分から見せておいて、何も言うなみたいになったのも、違ったと思います。ごめんなさい」
高城は、ごめん、と返した。
美月は鞄から練習のノートを出しかけ、止めた。今日はそのページを採点し直す時間ではない。
「それで、今日は本当に、助言なしで聞いてほしいです」
高城が少し目を細めた。困った笑いに見えたが、首は振らなかった。
「分かった。何を頑張ったか、聞かせて」
美月はすぐには話し始められなかった。頼んだのは自分なのに、ちゃんと受け取る準備ができていない。
その間に店員が来た。二人は食事を注文し、飲み物を頼んだ。戸が閉まってから、美月は今日の練習のことを話した。
昨日の映像を見直し、二回めで変わったところをノートへ分けたこと。今日のレッスンでは、泣くことではなく、相手が言い終わるまで手を動かさないという小さな課題にしたこと。できた回とできなかった回があり、最後にようやく一度、相手の声の変わり方が分かったこと。
高城は頷いて聞いた。ここを直せば、という言葉が何度か来そうな気がしたが、来なかった。
「すみません。話、長くなりました」
「今日は時間あるよ」
「十八秒にしなくていいですか」
「収録じゃないからね」
美月はそこで笑った。
料理が来てからも、少しずつ続きを話した。相手役の人が失敗を笑わず待ってくれたことが嬉しかった。自分も相手の練習を邪魔しないよう、決めたところまでで止めるのを意識した。上手く演じたという話ではなくても、一日の中には話せることがあった。
話しているうち、今日は顔を作るのを急がなかった回で、逆に声が小さくなったことも思い出した。美月がそう言うと、高城は、それはノートへ書いたのかと尋ねた。
「書きました。次に先生へ聞きます」
「うん」
それで会話は戻った。課題が残っていても、今この席で全部を直さなくてよい。美月は、今日できた回には相手も最後まで話せたと言ってくれた、と付け足した。
高城は頷き、それが自分ではどう嬉しかったのかを聞いてくれた。美月は少し考え、待つのが単に遅くなることではなかったと分かったからだ、と答えた。自分の言葉で説明していると、練習の時間をもう一度、自分の手へ戻せる気がした。
高城は途中で一度、昨日の最初のテイクは見ていないから比較の全部はできない、と断った。その言い方が仕事の分析に戻るのかと思い、美月は箸を止めた。
けれど、続きは違った。
「でも、一場面めを撮り直した日に、何を見たか自分で説明できてた。今回も、できなかったところだけじゃなくて、次に試すことを自分で分けてる。そこは、ちゃんと積み重なってると思う」
美月は高城を見た。練習の結果をその場で上手く言い直したわけではない。今まで彼が実際に見たことをつなげて話していた。
「……そういうのが、聞きたかったです」
「うん」
「もう少し、あってもいいです」
自分で言っておいて、欲張りだと思った。高城は水を一口飲み、少し考えた。
「今日、会って話すって送ってくれたのも、よかった。俺は昨日、帰った後にどう連絡すればいいか、迷ってたから」
「そこは、修司さんからでも、よかったです」
「そうだね。次は待つだけにしない」
美月は頷いた。
「恋人には頑張ったって言ってほしいです。仕事の成果は、それでよくなったことにしないので」
「分かった」
「直すところも聞きたい日は、先に言います」
「俺も、どっちで聞けばいいか、分からなかったら聞く」
美月は、ご飯に手を戻した。
料理を食べ進める間、高城が仕事の資料をしまうときの癖の話になった。紙を揃えるのが速いと言うと、揃っていないと探す時間がかかるからだと返ってくる。美月は自分も同じような理由でメモを増やすと言い、高城は、そこは分かると頷いた。
似たところがあるのに、相手の気持ちは自動では分からない。その当たり前のことに、付き合う前より頻繁にぶつかっている。
「修司さんは、今日、何をしてたんですか」
美月は食事を少し残したところで聞いた。
高城はすぐに返事をせず、何から話すか考える顔をした。
「午前中、別の企画の映像を見て。午後はライブの音の確認。その後、外の制作会社と打ち合わせ」
「上手くいきました?」
「一つは、話が戻った」
高城は案件名や、まだ出せない内容を話さず、必要な時間が相手の想定と合わなかったのだと説明した。美月は、自分に分からない専門的なことを聞き出すのではなく、その人が一日どう過ごしたかを聞こうと思った。
「それは、疲れますね」
「うん。まあ、よくある」
「よくあるなら、疲れないわけじゃないですよね」
高城が美月を見た。美月はさっきまで自分が座っていた役を、彼にも渡すつもりで続けた。
「今は、何か考えますか。それとも、聞くだけ?」
高城は顎へ手をやり、しばらくして、聞くだけでいいと答えた。
美月は頷いた。こちらに解決できることがなくても、相手が話したいなら聞ける。返事が少なくても構わないと分かってからは、昨日よりずっと落ち着いて相手の目を見られた。
「最後に、今日の頑張りも褒めますか」
美月が聞くと、高城が小さく咳をした。
「そこまで同じにしなくていい」
「遠慮ですか。本当にいらない?」
さっき自分が全部を伝えようとしていたので、今は少しだけ丁寧に聞けた。高城はメニューの置いてある机の端を見てから、美月へ戻った。
「……会う時間、作ってよかったとは思ってる」
美月は箸を置いた。仕事の段取りを褒めるより、自分も同じように思っていると返す方がよい気がした。
「私もです。昨日のまま、次の仕事で会うのは嫌だったので」
高城が頷いた。食事の残りは、それまでよりゆっくり進んだ。
店を出てから、駅へ向かう前に少しだけ立ち止まった。美月は鞄の肩紐を直し、高城へ、今日話したことは忘れないでくださいと言った。
「頑張ったって言う話?」
「それと、修司さんも、聞いてほしいことを言う話です」
「分かった」
美月は一度頷き、今度は自分から歩き始めた。昨日しまったタブレットは家にある。今夜はもう映像を再生せず、ノートを閉じて眠れそうだった。




