第15話 好きなら分かると思うな
高城の部屋には、本当に資料が多かった。
窓際の本棚は上から下まで埋まり、低い机の脇にファイルが二列並んでいる。美月は玄関から案内され、座る前に、その列を横から眺めた。背表紙の文字は読まないようにした。
「触ってほしくないもの、ありますか」
「机の脇のは仕事の資料。開かないでもらえると」
「分かりました」
美月は本棚の手前の席へ座った。
今日はそれぞれ別の仕事を終えた後、短く会う約束だった。美月は雑誌の取材が長引き、高城も打ち合わせが続いていたらしい。外で食べるより、家で一時間ほど休もうという話になった。
「コーヒーでいい?」
台所から高城が聞いた。美月は頷いたが、向こうからは見えなかったので、はい、と声を出す。
テーブルには二つのマグカップが来た。どちらにも、黒いコーヒーが入っている。
美月は自分の前へ置かれた方を見た。
「……ありがとうございます」
高城は隣ではなく、斜め向かいの椅子へ座った。自分のカップを持ち、美月の方も見る。
「熱いから、気をつけて」
「はい」
一口飲むと、苦かった。今日の取材では、甘い飲み物を買う時間がなかった。頭が疲れていて、いつもより甘いものがほしい。
砂糖はないですか、と聞けばよかった。けれど、前にも今日は甘いのがよかったと言ったことがある。恋人なら、疲れて来た人へ少しくらい聞いてくれてもいいのではないだろうか。
そう思った瞬間、自分でも面倒な考え方だと分かった。
「どうした?」
高城が尋ねた。美月はカップを置き、取っ手から指を離した。
「別に。ブラックなんだなと思って」
「違うのがよかった?」
「今日は」
「牛乳ならある。入れる?」
高城が立とうとする。美月は反射的に首を振った。
「大丈夫です」
言った直後に、よくないと思った。本当は大丈夫ではないのに、そう言うと本当にそこで終わる。
高城は腰を下ろし、時計を見た。美月はその視線を、早く帰ってほしいのだと受け取ってしまった。
「私、来ない方がよかったですか」
高城が顔を上げた。
「どうして」
「忙しそうだし、時間も気にしてるので」
「帰りの時間、先に確認したかっただけ。遅くしないって話だったから」
美月はカップの底の小さな影を見た。筋は通っている。今日は短く会おうと決めたのだから、その時間を気にするのは普通だ。
普通のことへ、いちいち別の意味をつけている。
「飲み物も、私が欲しかったのと違ったし」
「それは聞かなかった。ごめん。でも、さっき牛乳入れるか聞いたときに、大丈夫って」
「気をつかって、そう言うときもあるじゃないですか」
高城はしばらく黙った。言い返す言葉を探しているように見えて、美月も先に口を閉じる。
今日は眠いし、足も疲れている。好きな人に会えたら、その全部が軽くなると思っていた。ところが普通に部屋へ入って普通にコーヒーをもらっただけなので、疲れだけが残っている。
「何がよかったか、言ってくれると助かる」
高城が言った。
「甘いのがよかったです」
「うん。砂糖はある」
「前にも、言いました」
「日によるとも言ってた。今日は、先に聞けばよかったね」
美月は顔を上げた。謝ってもらえば自分の正しさが決まると思ったのに、そういう気持ちにはならなかった。
「……覚えていてくれるかなって、思ったんです」
「甘いのがいい日もあるのは覚えてる。ただ、今日がどっちかは分からない」
「好きなら、分かるのかなって」
言ってから、自分でも無茶だと思った。撮影で表情を見ている人でも、飲み物の希望までは顔に出ない。高城はテーブルへ両手を置いた。
「好きだから、何がいいか聞きたい。でも、言ってもらわないと分からないことはある」
美月は頷けず、膝を見た。正しい説明だと分かると、自分の拗ね方ばかりが目立つ。
「じゃあ、最初に聞いてください」
「うん。それは、そうする」
「私も、最初に言います」
最後の方は、小さな声になった。
高城はそこで、じゃあ今は、と聞いた。美月はカップを両手で持ち、正面へ置き直す。
「甘くて、温かいのがいいです。牛乳も入れたいです」
「量は?」
「ちょっとずつ。混ぜながら決めたい」
高城は頷き、台所へ立った。美月は後を追わず、椅子で待った。砂糖の容器と牛乳が運ばれてきて、自分で量を決める。そうすると、欲しかった味へ寄せられた。
「これで、よかったです」
口へ運んだ後に言うと、高城は、よかった、と返した。仕事のときと同じ短さだが、今は何について言っているか分かった。
「修司さん、私、ひどいこと言いましたね」
「どのへん?」
「好きなら分かるって。私も、分かってないのに」
美月は斜め向かいの人の顔を見た。朝から仕事をしてきたのは同じなのに、高城が今どう過ごしたいかは一度も聞いていない。
疲れている自分を甘やかしてほしい。それだけで、相手にも疲れがあることを忘れていた。
「来ない方がよかったですか、も。時間を気にしてくれたのに、嫌な聞き方でした。ごめんなさい」
「俺も、飲み物のことだけだと思って、すぐ直せばいいと思った。疲れてた?」
「はい。取材が長くて。ちゃんと話したつもりでも、帰ると何を言ったか気になって」
高城は頷き、すぐに改善点を返さなかった。美月は甘くなったコーヒーを一口飲み、やっと背もたれへ身体を預けた。
「修司さんは、今日、どうでしたか」
「打ち合わせが三つ。内容が違うから、途中で頭を切り替えるのに時間がかかった」
「それで、今も考えてました?」
「少し。美月が来たら、いったんやめられるかと思った」
美月はカップを置いた。自分と似たような期待を、向こうも持っていたのだ。
「じゃあ、お互いに、勝手に待ってましたね」
「そうなるね」
「先に、疲れましたって言えばよかった」
高城が小さく頷いた。美月もそれに頷き返した。飲み物は少し冷めたが、飲みたい味になっていた。
少し落ち着いてから、美月は、せっかく淹れてもらったものに不満を言ったことも気になっていたと伝えた。高城は、気に入らない飲み物を無理に飲んでほしいわけではない、と答えた。
「美味しいとか、まずいじゃなくて、今日はこれが欲しいって言ってくれれば」
「それなら、言いやすいです」
相手の用意したものを否定しなければ、希望を言えないと思い込んでいたのかもしれない。美月はカップを持ち直した。次に自分が用意する番なら、同じように何がいいか聞いてみようと思った。
しばらく、本棚の端に置かれた写真集を見せてもらった。私物の本だと確かめてから開き、狭い家の中の光の入り方を見る。高城は一枚を指し、朝はあまりこういう光を見ないと言った。
「寝てるから?」
「出てるか、寝てるか」
「私もです」
生活の話を二つしたところで、高城が椅子を少し寄せた。美月は写真集を閉じる。
「今日は、静かに一緒にいてほしい」
初めて、向こうから過ごし方を頼まれた。
美月は意外で、一度聞き直しそうになったが、そのまま頷いた。
「はい。喋らなくても、機嫌が悪いと思わないでくださいね」
「分かった」
高城も自分のカップを持ち直した。二人で別の方向を向いて座り、雨ではない夜の静かな音を聞いた。冷蔵庫が低く鳴り、遠くで誰かが階段を上る。美月の足のだるさは、消えてはいないが、我慢するためのものではなくなった。
高城の肘が近くにあったので、美月は手を置いていいか尋ねた。彼が手のひらを上へ向けたので、自分の手を重ねる。握る力は強くなかった。
何分か経った後、美月は自分のカップを取り、残りを飲んだ。高城も動いたので、手は自然に離れた。
「また、こういうのでいいですか」
帰る前に聞くと、高城は、いい、と答えた。
「次は、何を飲みたいか聞く」
「私も、何も言わずに怒らないようにします」
「怒る前に、言ってくれたら」
「それを、します」
約束しても、明日から全部上手になるわけではないと思う。自分の味を決めたカップは空になり、洗うものの列へ二つ並んだ。それでも帰り際に、来なければよかったとは思わなかった。
玄関で靴を履き、高城へ向き直る。彼が少し身をかがめ、美月は自分から短く触れるキスをした。
「おやすみなさい。今日は、甘くしてくれてありがとうございました」
「今の、コーヒーのこと?」
「今のは、両方にしておきます」
ドアを出てから、美月はエレベーターのボタンを押した。コーヒーの甘さが、まだ少し口に残っていた。




