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第12話 名前くらい呼んでください

「相沢、こっち」


 呼ばれた美月は、事務所の打ち合わせ室へ入った。高城は机の端に座り、次のライブで使う短いトークの資料を並べている。水野も同席し、美月と絵里香が客席とのやり取りを受け持つ部分を確認するところだった。

 美月は高城の向かいへ座った。職場での名字は普通だ。昨日、二人で話したことがあるので、余計に意識してしまうだけだった。


「ここで、絵里香が問いを出して、相沢が受ける形」


 高城が資料へ線を引く。美月は自分の役割を確かめ、問いへ答えるのではなく、客席の反応を一つ拾って返すのだと確認した。

 絵里香はまだ別の仕事のため不在で、後で動画を共有する。水野が机の横へスマートフォンを立て、録画を始めた。美月は座ったままでも客席へ顔が向くよう、椅子を少し回して試した。


「手を挙げてくれた人が少なくても、同じ返しでいいですか」


「そこで数をいじらない方がいい。答えてくれた人へ返して」


「はい。分かりました」


 説明の間、高城は一度も違う名前で呼ばなかった。それは約束どおりで、助かった。水野が同じ資料を見ている場で、急に美月と呼ばれたら、自分がまともに返事できるか分からない。

 終わりに、水野が絵里香との合わせの時間を決めた。美月は手帳へ書き、高城へ礼を言って立ち上がった。


「相沢、明日の資料も持っていって」


 差し出された紙を取るとき、高城の指が近かった。美月は一度手を引き、角を持ち直した。高城も離すのを待ったので、二人で同じ紙を持つ間ができた。


「はい、高城さん」


 水野が録画を止めたのは、その後だった。


 廊下へ出ると、小坂奈緒が受付の前で水野と挨拶をしていた。企画の差し替え資料を持ってきたらしい。美月も近づいて頭を下げる。


「この前もお会いしたのに、たびたびすみません」


 奈緒が言った。美月は、こちらこそ、と返した。一昨日、廊下で一部しか聞いていなかった会話のことを、今も自分は覚えている。


「この前のドラマの打ち上げ、来週なんですよ。美月さんは収録で難しいって水野さんから伺って」


「あ、はい。その日は、夕方まで」


「残念です。監督も感想を聞きたいって言ってました。また別の機会に」


 美月は奈緒の持つ封筒を見た。打ち上げ。監督。来週。

 廊下で聞いた話の形が、思っていたよりずっと普通に整った。


「高城さんも、そちらへ行かれるんですね」


「ええ。最初の顔合わせでお世話になったので。スタッフもだいぶ集まれそうです」


 美月は、なるほど、と言いそうになったのを、楽しんできてください、へ変えた。心の中で大きな札を一枚裏返した気分だった。

 奈緒は次の約束があると挨拶し、入口を出ていった。水野は資料を持って制作室へ戻る。美月は一人、受付の前で靴先を揃えた。

 聞けばすぐ分かったことだった。二人きりとも、デートとも、誰も言っていなかった。

 あの夜の告白がなかったことになるわけではないが、出発点の勘違いは、ちゃんと認める必要がある。


 午後、動画を見た絵里香から、最後の紙のところは何の確認、と連絡が来た。美月は受け取り損ねただけだと返した。


『なんだ。新しい合図かと思った』


 美月は画面を閉じ、鞄の中の資料を揃えた。紙のどの辺を持ったかまで映っているとは、思わなかった。


 その夜、高城から電話していいかと連絡が来た。美月は洗濯物を畳む手を止め、通話のボタンを押した。


「こんばんは」


「こんばんは。今、大丈夫?」


「はい。タオルがあと二枚です」


「終わってからでよかったけど」


「大丈夫です。耳は空いてるので」


 美月はスマートフォンを台へ立て、スピーカーに切り替えた。部屋に一人でいることは確かめたが、それでも電話から聞こえる高城の声が、いつもより近かった。


「十六日の展示、十四時で取れた。駅から少し歩くけど」


「分かりました。ありがとうございます」


「相沢、ああいうの好きかと思ったけど、違ったら言って」


 美月はタオルを広げたまま止まった。


「今、誰とお話ししてます?」


「相沢と」


「それです」


 電話の向こうが静かになった。高城がすぐ返せないところに、意味がちゃんと伝わった手応えがあった。


「職場では分かります。今日も、助かりました。でも、今は私しかいないです」


「そうだね」


「この前、お付き合いする人になったので、名字以外も持ってることを、知ってほしいです」


「知ってるよ」


「知ってるだけじゃなくて」


 美月は言い終わる前に笑ってしまった。四文字の返事は嬉しかったはずなのに、内容が変わると足りなくなる。

 高城は短く息を吐いた。


「美月」


 畳みかけていたタオルの角がずれた。


「……はい」


「展示、好きそうかと思ったんだけど、どう?」


「好きです」


 答えてから、主語が危ういことに気づいた。美月はタオルの角を合わせ直した。


「展示の話です。古い生活道具、見るのは好きです」


「うん」


「そっちも、好きですけど」


 電話の向こうで、小さな物音がした。高城が何かを机へ置いたのかもしれない。美月は今の言葉を取り消さず、その音が止まるのを待った。


「……修司さん、って呼んでもいいですか。二人のときは」


「いいよ」


「前、職場では高城さんって言いましたよね」


「うん。そこは、そのまま」


 どちらの名前も一人の人を指すのに、呼ぶ場所でこんなに変わる。美月は最後のタオルを畳み、膝へ載せた。


「今日、奈緒さんに会いました」


 今なら言えると思った。


「来週、皆さんの打ち上げなんですね」


「そう。水野さんから日程は来てたと思うけど」


「私、あの日は、二人で飲みに行く話だと思って聞いてました」


 高城は、ああ、と言った。思い当たった声だった。


「廊下で聞いたって、そこか」


「途中からだったので。店が変わったとか、夜空けてとか」


「最初に、その話をしてた。小坂さんが幹事で」


 美月は畳んだタオルを一枚、棚へ収めた。何も悪いことをしていない奈緒に心の中で謝る。高城には、声にした。


「勘違いしました。二人だって言ってないのに、決めつけて。すみません」


「聞けば答えたよ」


「そうですよね」


 高城はそこで美月の嫉妬をもう一度からかわなかった。そのおかげで、自分も必要以上に言い訳しなくて済んだ。


「でも、好きだって言ったのは、勘違いではないです」


 電話が静かになった。美月は棚の引き出しを閉じる音を小さくし、スマートフォンの前へ戻った。


「そこまで、分かってる」


 高城が言った。美月は、よかったです、と返した。


「修司さんは、今何してますか」


「夕飯の片付け」


「何を作ったんですか」


「うどん」


「何うどん?」


「冷凍のを、つゆに入れたうどん」


 美月は少し考えてから、何も足さなかったんですか、と聞いた。


「卵」


「それなら、言ってください」


「料理名に必要だった?」


「生活の話を聞いてるので、詳しくあっていいです」


 高城は、じゃあねぎも、と付け足した。美月は、意外とちゃんと作ってる、と言った後、自分の夕飯の方が簡単だったことを思い出す。冷蔵庫から出した作り置きと、ご飯だけだった。

 それを言うと、高城が、自分で作り置きしてある方が手をかけてると言った。仕事の指摘ではない会話でも、普通に言い返してくる。美月はスマートフォンを持ち、ベッドの端へ移った。


 声を聞いているうち、仕事場で同じ調子で話しかけないよう気をつけなければと思った。美月がそれを言うと、高城も、そうだね、と答えた。


「呼び間違えそうだったら、名字から始めなくてもいい。すみません、とかで」


「修司さんの方が、私を間違えて呼ばないでくださいよ」


「気をつける」


「今日は大丈夫でした」


「そこは、まだ採点してるんだ」


 美月は笑った。

 それでも、二人の呼び方ができたことは嬉しかった。公の場で使わない分、今の電話の時間が少しだけ自分のものになった。


 展示までの行き方を確かめ、雨だった場合の待ち合わせを決めた。話すことは細かいのに、どれも明日の仕事の締め切りには関係がない。

 高城が湯を沸かす音がして、こちらも水を飲みに立つ。電話をしたままそれぞれの部屋で動く時間が、不思議と落ち着いた。


「そろそろ、寝る準備する?」


 高城が聞いた。美月は時計を見た。予定していたより二十分長く話していた。


「はい。明日は、午前から練習なので」


「じゃあ、おやすみ」


「待ってください」


 切る前に言わなければ、次に頼むのはまた少し恥ずかしくなる。


「もう一回、名前を呼んでください」


 高城はすぐには答えなかった。けれど、今度の沈黙は困って逃げるものではないと思えた。


「美月。おやすみ」


 美月は膝へ指を揃え、そこに誰もいないのに、ちゃんと座り直した。


「おやすみなさい、修司さん」


 通話が切れた後も、画面を伏せられなかった。名前を呼ぶだけのことに、何度も頼まないといけない人だ。自分も、それだけのために電話を引き留める人だった。

 洗面所へ向かおうとして、畳んだはずのタオルが一枚、ベッドへ残っていることに気づく。美月はそれを抱え、棚へ戻りながら小さく笑った。

 耳は空いていたが、どうやら手まで空いていたわけではなかった。最後の一枚は、少し斜めに畳まれていた。

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