日曜日は退屈な日
翌日。日曜日。
教会にとっては、一週間の中でも特別な日だ。
しかし、悪魔である俺にとっては、退屈極まりない一日でもある。
なぜなら、日曜日にはミサが行われるからだ。
信者たちは教会に集まり、神に祈りを捧げる。パンをキリストの体、ぶどう酒をキリストの血としていただき、神との結びつきを確かめる。
俺に言わせれば、理解しがたい儀式だった。
神に祈れば救われる? 罪を告白すれば赦される?
そんな都合のいい話があるものか。
……まあ、ここで文句を言っても始まらない。
俺は人知れず教会を抜け出し、駅へ向かった。
日曜日の街には、平日とは違った空気が流れていた。駅前には買い物に出かける人々や、家族連れの姿がある。人の多さは、混雑というほどでもなければ、閑散としているわけでもない。
俺はその人波に紛れ、電車に乗り込んだ。
いくつか駅を通り過ぎ、マンションの最寄り駅で降りる。
そこから歩くこと数分。見慣れた高級マンションが見えてきた。
自宅に戻り、玄関の扉を開ける。
……静かだ。
当然といえば当然か。
須美は、きっとどこかで男と遊んでいるのだろう。あいつのことだから、俺がいない間も退屈せずに過ごしているに違いない。
俺はリビングへ向かうと、壁面のモニターを起動した。
お父様に報告するためだ。
しばらくすると、モニターの向こうに白いスーツを着た男の姿が浮かび上がった。長い白髪と、見る者を圧倒するような存在感。映像越しであっても、その威厳は少しも損なわれていない。
お父様だ。
『それで、様子はどうだ?』
「はい。順調です。計画は明日から実行に移す予定です」
『失敗は許されないぞ』
「承知しております。念には念を入れ、三つの段階に分けて計画を進めるつもりです」
『ほう。三段構えか』
お父様は満足げに目を細めた。
『さすがは我が息子だ。物事は慎重に進めるに越したことはない』
「お褒めにあずかり、光栄です」
俺は一礼した。
そうだ。俺はすでに、ソフィアの信仰を揺るがすための三つの計画を考えている。
俺は、アダムとイブを惑わせた蛇になる。
彼女が信じるものを見極め、少しずつ疑念を植えつける。彼女の善意を利用し、彼女自身に自分の信仰を問い直させるのだ。
そして、最後には神への忠誠を捨てさせる。
それこそが、俺の果たすべき任務だった。
『ところで、清水教会では何か分かったか?』
「はい。昨日一日、ソフィアの様子を観察しました」
俺は、教会での生活について説明した。
ソフィアは人を疑うことが苦手らしい。俺を警戒するどころか、すでに信頼を寄せている。食事を用意し、生活の決まりを教え、困っている人間を見れば迷わず手を差し伸べる。
おまけに、俺が何を考えているのか、少しも疑っていないようだった。
『なるほど。ソフィアという娘は、ずいぶんと純粋なのだな』
「はい。だからこそ、こちらの思惑に気づく前に計画を進められると考えています」
『ならば、まず一億円を用意しておこう。残りは、計画が成功したときの報酬だ』
「ありがとうございます」
『ただし、金を渡せばそれで終わりというわけではない。相手の信頼を得ることも忘れるな』
「承知しております」
『それから、今日はミサに参加してこい。お前が教会の生活に馴染んでいると見せれば、彼女も警戒心を解くだろう』
「……分かりました」
お父様は、それ以上何も言わなかった。
通信が切れ、モニターの画面が暗くなる。
俺は近くに置かれていた鞄を開いた。
中には、約束どおり現金が用意されていた。
悪魔であっても、契約は守る。
特に金銭に関する約束は、なおさらだ。
人間は悪魔との契約に魂を差し出すことがある。対価を曖昧にしたままでは、こちらも取引を成立させられない。
だからこそ、俺たちは約束を守る。
……もちろん、相手が何を代償として支払うことになるのか。それを理解しているとは限らないが。
俺は鞄を閉じ、玄関へ向かった。
さて、教会へ戻るとするか。
そんなことを考えながらマンションを出ると、ちょうど見覚えのある赤髪が目に入った。
「あれ? 坂井様!」
「須美か。久しぶりだな」
須美美和子は、俺の姿を見つけるなり、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「何をしていたんですか?」
「お父様と話していたところだ」
「お父様と? それで、何かお話があったんですか?」
「俺のことを、ずいぶん期待しているらしい」
「さすがは坂井様です!」
須美は目を輝かせ、当然のように俺の腕に絡んできた。
「それで、坂井様。今日は久しぶりに、わたしと遊びませんか?」
「誘いはありがたいが、今日はやめておくよ」
「えー。どうしてですか?」
「これから、あの聖女の信仰を揺さぶる計画を進めなければならない。余計なことに時間を使いたくないんだ」
「なるほど……。それなら仕方ありませんね」
須美は少し残念そうに肩を落としたが、すぐにいつもの笑顔を取り戻した。
「では、わたしは部屋で休むことにします。最近、少し遊びすぎましたから」
「そうするといい。何かあれば連絡してくれ」
「はい。坂井様も頑張ってくださいね」
須美と別れ、俺は駅へ向かった。
電車に乗り、再び教会の最寄り駅で降りる。
宿泊施設に戻って鞄を置くと、俺はそのまま教会へ向かった。
時刻は午後。
午前中のミサは、すでに終わっているらしい。
「あっ、哲夫さん。お帰りなさい」
教会の入り口で、ソフィアと出会った。
「ただいま。朝はすまなかったな。少し用事があって、お父様と話していたんだ」
「そうだったんですね。大丈夫ですよ」
ソフィアは気にした様子もなく、にっこりと笑った。
「午後のミサには参加してくださるんですよね?」
「ああ。そのつもりだ」
「よかった。では、こちらへどうぞ」
彼女に案内され、俺は礼拝堂の中へ入った。
そこには、すでに多くの信者が集まっていた。
家族連れ、子供、老人。
それぞれ事情は違うのだろうが、彼らには一つだけ共通点があった。
神を信じている。
誰もが真剣な表情で祭壇を見つめ、静かにミサの始まりを待っていた。
その光景を見ただけで、俺は胸の奥に不快感が湧き上がるのを感じた。
……本当に、理解できない連中だ。
だが、ここで顔に出すわけにはいかない。
俺は案内された席に座り、周囲の様子を窺った。
「皆様、お集まりいただきありがとうございます。それでは、午後のミサを始めます。まずは回心の祈りを捧げましょう」
ソフィアがそう告げると、近くにいた信者が祈りの文面を記した紙を渡してくれた。
俺はそれを受け取り、目を落とす。
やがて、礼拝堂に静かな祈りの声が響き始めた。
「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください」
俺も目を閉じ、周囲に合わせて口を動かした。
もちろん、本気で祈るつもりはない。
こんなところで悪魔の正体を明かすわけにはいかないのだから、仕方がなかった。
祈りが終わると、礼拝堂にオルガンの音色が響いた。
演奏しているのは、ソフィアだった。
……へえ。
彼女が一人で演奏しているのか。
俺は少し意外に思った。
ソフィアは子供たちの世話をし、食事を作り、掃除をこなし、さらに学校にも通っている。そのうえ、こうしてミサの進行まで担っているのだ。
どこに、そんな時間があるのだろう。
オルガンの旋律に続き、信者たちが歌い始めた。
主への慈しみを求める歌声が、礼拝堂いっぱいに広がっていく。
俺はその音を聞きながら、ソフィアの姿を眺めた。
彼女は迷いのない手つきで鍵盤を操っていた。
その横顔は真剣そのものだった。
普段、子供たちと接しているときの柔らかな表情とは違う。彼女は今、この場所で、自分の役割を果たすことに全力を注いでいる。
……なるほど。
こいつにとって、信仰は単なる習慣ではないらしい。
そのことだけは、認めてやってもいいだろう。
やがて歌が終わると、ソフィアは祭壇の前へ進み、聖書を開いた。
聖書の朗読が始まる。
続いて、神の愛や赦しについての話が語られた。
迷った者を救い、罪を犯した者にも悔い改める機会を与える。神は人間を見捨てず、誰に対しても慈しみを注ぐのだという。
……まったく。
ずいぶんと耳当たりのいい話だ。
俺は反論したくなる気持ちを押し殺し、静かに座り続けた。
こんなところで説教に腹を立てても意味はない。周囲に合わせ、信者たちと同じように振る舞う。それが今の俺にできる最善の行動だった。
その後、信者たちが祈りを捧げ、献金の籠が回ってきた。
俺は財布を取り出し、数万円を献金した。
「哲夫さん。そんなに無理をしなくても大丈夫ですよ」
隣にいたソフィアが、小声で話しかけてきた。
「大丈夫だよ。これは俺の気持ちだから」
「……ありがとうございます」
ソフィアは、感激したように目を潤ませた。
その反応を見て、俺は内心で笑った。
俺が何を考えているのかも知らずに、ずいぶんと素直なものだ。
この金は善意から差し出したものではない。彼女の信頼を得るための、ほんの小さな投資にすぎないのだから。
もっとも、そんなことを口にするつもりはなかった。
今は、善人の仮面を被っておけばいい。
やがて、ミサは聖体拝領へと進んだ。
信者たちは順番に祭壇の前へ進み、パンとぶどう酒をいただいていく。
キリストの体と血を通じて、神との結びつきを確かめる儀式だ。
俺は周囲の動きを観察しながら、静かに席に座っていた。
神を信じることなど、俺にはできない。
それでも、この場にいる間は、信者たちの振る舞いを乱さないようにするしかなかった。
やがてミサが終わり、閉祭の言葉が告げられる。
信者たちはそれぞれ帰り支度を始め、礼拝堂から出ていった。
ソフィアは一人一人に声をかけ、困りごとや悩みを抱えている人の話にも耳を傾けていた。
誰かが話し始めれば、急かすことなく最後まで聞く。
相手がどんな表情をしていても、決して面倒そうな顔を見せない。
……不思議な女だ。
他人の悩みを聞いたところで、すべてを解決できるわけではない。それでも、彼女は人々と向き合い続けている。
俺には、その行動の意味が分からなかった。
だが、ソフィアの周りには、彼女を頼りにしている人間が集まっていた。
彼女が信仰を失えば、この人々とのつながりも変わるのだろうか。
それとも、神を信じなくなったとしても、彼女は変わらず他人に手を差し伸べるのだろうか。
……いや。
余計なことを考えるな。
俺の目的は、彼女の信仰を揺るがすことだ。
明日になれば、計画を実行に移す。
ソフィアが何を信じ、何を大切にしていようと、俺はその心に疑念を植えつける。
そう決めたのだから。
最後の信者を見送ると、ソフィアはこちらを振り返った。
「哲夫さん。本日はミサに参加してくださって、ありがとうございました!」
「なんだ、急に?」
「だって、哲夫さんも一緒に祈ってくださったじゃないですか。きっと神様も喜んでくださっています」
ソフィアは、まぶしいほどの笑顔を浮かべた。
俺は思わず口元を緩めそうになった。
……何も知らないんだな。
俺が何のためにここにいるのか。
何を考え、何を企んでいるのか。
それを知ったら、今と同じ笑顔を向けてくれるだろうか。
目の前にいるのは、悪魔の正体を知らない一人の少女だ。
そして俺は、彼女の信頼を利用しようとしている。
「それより、子供たちはどうしているんだ?」
「子供たちなら、宿泊施設で読書をしていますよ」
「そうか」
「まだ小さいですから、ミサへの参加はもう少し先なんです。教会のことや、祈りの意味を理解できるようになってからですね」
「なるほど。年齢によって違うんだな」
「はい。無理に覚えさせるのではなく、少しずつ学んでいけばいいと思っています」
ソフィアはそう言って、宿泊施設のほうへ視線を向けた。
彼女にとって、子供たちもまた、守るべき大切な存在なのだろう。
……まあ、俺には関係のない話だ。
俺は、この教会にいる人々の信頼を利用するために来た。
その目的を忘れてはならない。
「では、哲夫さん。ミサも終わりましたし、教会の掃除を手伝っていただけませんか?」
「掃除か。分かったよ。それくらいなら手伝う」
「ありがとうございます。やっぱり哲夫さんは優しい方ですね」
ソフィアは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、俺は一瞬だけ口元を引き締めた。
優しい、か。
そんな評価をされるのは、これで何度目だろう。
俺は別に、善人になりたいわけではない。人から褒められたいわけでもない。
ただ、目的を達成するために必要なことをしているだけだ。
……そう。すべては計画のためだ。
俺はほうきを手に取り、礼拝堂の掃除を始めた。
床に落ちた小さなゴミを集め、椅子の隙間にたまった埃を取り除く。最後に、固く絞った布で椅子を一つずつ拭いていった。
手間はかかるが、やるべきことは単純だ。
汚れを見つけ、取り除く。
ただ、それだけでいい。
作業を続けていると、妙なことに気づいた。
……不思議と、嫌な気分ではない。
むしろ、目に見えて綺麗になっていく礼拝堂を見ていると、気持ちが少し落ち着いてくる。
俺は手を止め、磨き終えた椅子を見つめた。
何を考えているんだ、俺は。
これはただの掃除だ。神への奉仕でもなければ、信仰の証明でもない。
そう自分に言い聞かせ、再び布を動かした。
それでも、胸の奥に残ったわずかな安らぎは、簡単には消えてくれなかった。
……くだらない。
俺は小さく首を振った。
明日になれば、計画が始まる。
お父様から与えられた任務だ。失敗は許されない。
ソフィアの信仰を揺るがし、彼女が信じている世界に疑念を突きつける。
そのために、俺はここにいる。
どれほど穏やかな時間を過ごそうと、その事実は変わらない。
俺は最後の椅子を拭き終え、布を畳んだ。
礼拝堂は、すっかり綺麗になっていた。
……よし。
明日だ。
明日から、すべてが動き始める。




