修道院の一日
修道院の一日は、驚くほど早く始まる。
朝四時。まだ空が暗いうちから、俺たちは起床しなければならない。
昨夜、ソフィアにそう説明された俺は、渋々ながらも彼女たちと同じ時間に起きることにした。共同生活を始めたばかりだというのに、初日から規則を破るわけにもいかない。
眠い目をこすりながら教会へ向かうと、ソフィアは三人の子供たちを連れて、すでに祈りの準備を整えていた。
「では、祈りましょう」
彼女の声に合わせて、子供たちが静かに手を組む。
俺もそれらしく手を組み、目を閉じた。
もちろん、祈るつもりなどない。
俺は悪魔を信奉する側の人間だ。神に助けを求めるくらいなら、悪魔の名を唱えたほうがよほどましである。
とはいえ、ここで反抗しても仕方がない。今は周囲に合わせておくのが得策だ。
「天にましますわれらの父よ、願わくは御名の尊まれんことを、御国の来らんことを、御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを。われらの日用の糧を、今日われらに与え給え。われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え。アーメン」
「「「アーメン」」」
ソフィアに続き、子供たちも声を揃えた。
俺も小さく「アーメン」と呟く。
……朝っぱらから、よくやるものだ。
祈りが終わると、今度は読書の時間になった。
子供たちは聖書を開き、ときおり互いに感想を話し合っている。一方、ソフィアも聖書に目を落とし、静かにページをめくっていた。
俺はというと、別の本を手に取った。
ショーペンハウアーの『読書について』だ。
神の言葉をありがたがるより、こちらを読んでいるほうがよほど有意義である。
もっとも、哲学書を読むことが悪魔の信仰に直結するわけでもない。俺にとって重要なのは、何を信じるかではなく、自分の頭で考えることだ。
……まあ、神を信じる連中には理解できないだろうが。
そんなことを考えながら本を読んでいるうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
朝七時になると、ソフィアは本を閉じて立ち上がった。
「それでは、朝食にしましょう。今日はパンと牛乳ですよ」
食堂に並べられたのは、パンと牛乳だけだった。
ずいぶんと質素な朝食である。
だが、腹を満たすには十分だ。俺もパンを手に取り、牛乳で流し込んだ。
朝食が終わると、今度は掃除の時間になった。
教会の礼拝堂から宿泊施設まで、みんなで手分けして清掃するらしい。
俺は子供たちと一緒に、教会の正面を担当することになった。
ほうきを手に、石畳に落ちた葉っぱを集める。
「……やってられねえ」
思わず愚痴がこぼれた。
朝四時に起床して、祈り、読書、食事、掃除。
また祈り、食事、掃除。
まるで同じ一日を繰り返しているようだ。
しかも、こいつらは少しも不満を抱いていないらしい。むしろ、毎日の習慣を大切にしている様子だった。
どうしてそこまで神に尽くせるのか。
俺にはさっぱり理解できない。
神が人間に何をしてくれたというのだろう。世の中には理不尽なことが山ほどある。生まれた環境も、与えられた才能も、人それぞれだ。
それなのに、神を信じて祈りさえすれば救われるとでもいうのか。
……反吐が出る。
俺はほうきを動かしながら、ひとまず考えるのをやめた。
今はまだ、計画を実行に移す段階ではない。
まずはソフィアを観察し、彼女が何を信じ、何を大切にしているのかを見極める。
そのうえで、少しずつ彼女の信仰を揺さぶっていけばいい。
焦る必要はないのだ。
昼になると、ようやく昼食の時間がやってきた。
「本日はナポリタンですよ」
ソフィアが用意した料理を見て、子供たちは嬉しそうに声を上げた。
皿に盛られたパスタには、赤いソースがしっかりと絡んでいる。ベーコンにもほどよく焼き色がついており、食欲をそそる香りが漂っていた。
俺はフォークを手に取り、一口食べてみる。
「……美味いな」
思わず本音が漏れた。
ソースの酸味と甘みのバランスがいい。ベーコンの香ばしさも加わって、実に食べやすい味に仕上がっていた。
こんなに素朴な料理を美味しいと思ったのは、久しぶりかもしれない。
ナポリタンといえば、俺の中では冷凍食品の印象が強かった。だが、こうして手作りのものを食べると、ずいぶんと違うものだ。
……料理の腕だけは認めてやろう。
昼食を終えると、午後は自由時間になった。
ソフィアは本を読み、洋子、純子、真美の三人は画用紙を広げてお絵描きを始めた。
俺はその様子を眺めながら、今後の計画について考える。
こうして何もすることがない時間は、情報を集める絶好の機会だ。
しかし、今日はまだ具体的な手を打つつもりはなかった。
下手に動けば、ソフィアに警戒される可能性がある。今は彼女の信頼を得ることを優先するべきだろう。
……それにしても、暇だ。
「ソフィアは本当に読書が好きなんだな」
俺が声をかけると、彼女は本から顔を上げた。
「はい。読書をしていると、時間が経つのを忘れてしまうんです」
「へえ。勉強も好きなのか?」
「好きですね。知らなかったことを知るのは、とても楽しいですから」
なるほど。
ソフィアは学校でも成績がいい。学年トップ十に入るほどの実力があると聞いている。
頭の回転も悪くない。話していても、こちらの言葉を理解するのが早い。
それなのに、世間知らずなところがある。
いや、正確には、他人を信じすぎるのだ。
でなければ、俺のような人間を簡単に教会へ招き入れたりはしないだろう。
「では、哲夫さん。少しおしゃべりしませんか?」
「雑談か? いいぞ。何の話をする?」
「そうですね……。ここの生活についてはどうでしょう?」
「いいね。その話題なら、俺も聞きたいことがある」
俺は椅子に座り直した。
「ここでの生活は静かでいい。まあ、少し刺激が足りない気もするけどな」
「刺激、ですか?」
「ああ。たとえば、インターネットとか」
「そうですね。ここでは外の世界に気を取られすぎないよう、インターネットの利用を控えているんです。でも、まったく使わないわけではありませんよ。寝る前にも、少しだけ調べものをしたりします」
「なるほどな」
俺は頷きながら、さりげなく話題を変えた。
「そういえば、以前はパパ活をしていたんだったな」
「……はい」
ソフィアの表情がわずかに曇った。
「お金をもらって、男性と会っていたんです。今思えば、軽率だったかもしれません」
彼女は少し恥ずかしそうに目を伏せた。
その様子を見て、俺は内心で考える。
彼女も、自分の行動を何もかも正しいと思っているわけではないらしい。
罪悪感があるのか。それとも、単に周囲の目を気にしているだけなのか。
いずれにしても、過去の経験については、まだ詳しく聞く必要がありそうだ。
「でも、そのおかげで哲夫さんと知り合えたんです。そう考えると、神様に感謝ですね」
「……そうだな。神に感謝、か」
俺は笑顔を取り繕った。
神のおかげで俺と出会えた?
ずいぶん都合のいい解釈だ。
まさか、神も自分の信徒が悪魔と知り合うことまで想定しているわけではあるまい。
……いや、あるいは。
そんな考えが一瞬だけ頭をよぎったが、俺はすぐに打ち消した。
神の思惑など、考えるだけ無駄だ。
「それで、哲夫さんはインターネットで何をしているんですか?」
「株価のチェックと、ニュースを見ることが多いな」
「株価、ですか?」
「ああ。株式投資をしているんだ。市場が動けば、資産も大きく変わる。短い時間で何十万、何百万と変動することもあるからな」
「へえ……。そんな世界があるんですね」
ソフィアは興味深そうに頷いた。
「今度、教えてやろうか?」
「いえ、遠慮しておきます。わたしには、少し難しそうですから」
彼女は困ったようにはにかんだ。
俺は内心で肩をすくめる。
せっかく話題を広げようと思ったのに、あっさり断られてしまった。
なかなか手ごわいな、ソフィア。
金や世俗的な楽しみに興味がないというわけではないのだろう。ただ、彼女には彼女なりの優先順位があるらしい。
こちらの思いどおりに動かすには、まだ時間がかかりそうだ。
「それにしても、毎日こんな生活をしているのか? 祈りに食事に掃除、それから読書」
「はい。すっかり日課になっています」
「退屈しないのか?」
「そうですね……。読書の時間は、わたしにとって自由な時間ですから」
「なるほどね」
俺は少し考えてから、話を切り出した。
「それじゃあ、月曜日から具体的に動くことにしよう。俺の指示に従ってくれれば、約束した三億円を支払う」
ソフィアは本を閉じ、真剣な顔で俺を見つめた。
「本当に、そこまでしていただいていいのでしょうか?」
「ああ。お父様が納得する成果を出せれば、金には困らない。あの人は、金だけは腐るほど持っているからな」
「まあ……。お優しい方なのですね」
「そうだな。優しい方だよ」
もちろん、俺の言う優しさと彼女の考える優しさは、まったく別物だろう。
俺たちが金を用意するのは、慈善事業のためではない。そこには必ず、相応の目的がある。
そして、その目的をソフィアが知ることはない。
少なくとも、今はまだ。
「さて、そろそろ散歩でもするか。今日はいい天気だしな。来週は雨が降るらしいぞ」
「散歩ですか? いいですね。わたしもご一緒します」
ソフィアは本を本棚に戻すと、立ち上がった。
俺たちは教会を出て、近所の道を歩き始めた。
特に目的地はない。街の様子を眺めながら、のんびりと歩いていく。
やがて、近くの公園にたどり着いた。
そこでは何人もの子供たちが遊んでいた。砂場では小さな城を作っている子もいれば、遊具の周りを走り回っている子もいる。
「まあ、子供たちは元気ですね」
「そうだな。子供は風の子、ってやつか」
俺たちは、しばらくその様子を眺めていた。
すると、少し離れた場所から泣き声が聞こえてきた。
「うえええん……!」
一人の少女が、木の下で泣いている。
俺たちは顔を見合わせ、その子のもとへ歩み寄った。
「どうしたの? 何があったの?」
ソフィアが優しく声をかけると、少女は涙を拭いながら木の上を指さした。
「あたしの風船が……」
見上げると、枝の先に風船が引っかかっていた。
なるほど。風に飛ばされて、あそこまで上がってしまったらしい。
大人が手を伸ばしたところで届く高さではない。
「仕方ないな。俺が取ってくるよ」
「えっ? 大丈夫ですか、哲夫さん?」
「平気だよ。心配するな」
俺は木の幹に手をかけ、足場を確かめながら登り始めた。
枝をつかみ、一歩ずつ慎重に上へ進む。
やがて風船のひもに手が届いた。
「よし、取れた」
俺は風船をしっかり握り、周囲を確認してから、無理のない場所まで下りた。
最後は地面に足をつけ、少女の前に立つ。
「はい。もう飛ばすなよ?」
「ありがとう!」
少女の顔が、ぱっと明るくなった。
先ほどまでの泣き顔が嘘のようだ。
俺は思わず笑い、少女の頭を軽く撫でた。
「今度はちゃんと、ひもを握っておくんだぞ」
「うん!」
少女は風船のひもを両手で握りしめると、嬉しそうに走っていった。
……子供というのは、本当に分かりやすい。
泣いていたかと思えば、次の瞬間には笑っている。
その切り替わりの早さには、感心するしかなかった。
「ありがとうございます、哲夫さん」
ソフィアが微笑みながら礼を言った。
「別に、礼を言われるほどのことじゃないさ」
「そんなことありません。困っている人を助けられるのは、素敵なことだと思います」
「そうか? 俺は、そんな大層なことをしたつもりはないけどな」
「はい。でも、わたしはそういう哲夫さんのところ、好きですよ」
「……誤解を招く言い方をするなよ」
俺は思わず顔をしかめた。
どうせ、恋愛感情としての好きではない。人として好ましい、という程度の意味だろう。
分かっている。
分かっているのだが……。
この女は、どうしてこうも簡単に他人を褒められるのだろう。
相手がどんな人間なのか、本当に分かっているのか?
もし俺の本性を知ったら、同じ言葉を口にできるだろうか。
……いや。今は考える必要もない。
「さて、そろそろスーパーに行きましょう。夕食の買い物をしたいんです」
「おっ、それなら俺も手伝うよ」
「ありがとうございます」
俺たちは公園をあとにし、近くのスーパーへ向かった。
店内では、夕食に使う肉や野菜、それから米などを購入した。
会計を済ませると、俺が買い物袋を持つ。
「結構な量だな」
「すみません。いつも子供たちがたくさん食べるので」
「いや、別に構わないさ。これくらいなら大丈夫だ」
俺たちは並んで歩き、教会へ戻った。
帰り道、ソフィアは今日の夕食について楽しそうに話していた。子供たちが好きな料理や、次に作ってみたいもの。
俺は適当に相槌を打ちながら、その話を聞いていた。
こうしていると、本当に普通の共同生活を送っているような気分になる。
だが、忘れてはいけない。
俺はここに、善意で滞在しているわけではないのだ。
教会へ戻ると、ソフィアはさっそく夕食の準備に取りかかった。
俺は買い物袋を渡し、いったん自分の部屋へ戻ることにした。
……さて。
明日は日曜日だ。
教会には、普段以上に多くの人間が集まることになるだろう。
祈りを捧げ、救いを求め、神の慈悲を信じる人々。
俺に言わせれば、弱さを抱えた人間たちが、目に見えない存在にすがっているだけだ。
神が本当にすべてを救えるのなら、どうしてこの世界には不幸が絶えない?
どうして、助けを求めても報われない人間がいる?
どうして、最初から何もかも奪われている人間がいる?
……答えは簡単だ。
神など、あてにならないからだ。
だから俺は、明日の礼拝には参加しないつもりだった。
一度、実家に戻ろう。
お父様に計画の進捗を報告し、今後の方針を確認する必要がある。
この任務は失敗できない。
お父様が望んでいるのは、単にソフィアを信仰から遠ざけることではない。彼女を通じて神への反逆を成し遂げ、天界にまで届くほどの屈辱を与えることだ。
そのために、俺が選ばれた。
ならば、期待に応えるまでだ。
俺は窓の外に目を向けた。
教会の庭では、子供たちの笑い声が聞こえている。
ソフィアも、きっとあの中にいるのだろう。
彼女は俺を信じている。
俺が善良な人間だと思い、何の疑いもなく手を差し伸べてくる。
……だからこそ、俺は彼女の信仰を揺るがさなければならない。
そうすることが、お父様の望みであり、俺自身の望みでもあるのだから。
俺はカーテンを閉め、部屋をあとにした。
明日は、お父様と話をしよう。
そして月曜日から、計画を進める。
ソフィアが信じる世界を、少しずつ変えていくために。




