晩餐はカレー
「夕食ができました」
「うん。ありがとう」
ソフィアに呼ばれ、俺はベッドから起き上がった。
三階から階段を下りると、子供たちはすでに食堂のテーブルについていた。俺も彼女たちの向かい側に腰を下ろす。
テーブルの上には、大きな鍋と人数分の皿が並んでいた。
皿に盛られたカレーから、食欲をそそる香りが漂ってくる。スパイスの香りに、ほんのりと甘い匂いが混じっていた。
見た目も悪くない。いや、かなり美味しそうだ。
「みんな揃いましたので、お祈りしましょう」
ソフィアはそう言うと、胸の前で手を組み、静かに目を閉じた。
俺はスプーンに手を伸ばしかけていたが、慌てて手を引っ込める。ここで一人だけ食べ始めるわけにはいかない。仕方なく、彼女たちに倣って手を組んだ。
「父よ、あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心とからだを支える糧としてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」
「「「アーメン」」」
子供たちが声を揃える。
俺も口だけは合わせた。
「……アーメン」
反吐が出る。
神への祈りなど、俺にとっては不快な雑音でしかない。目の前で手を組むこいつらを見ているだけで、今すぐ席を立ち、この場から逃げ出したくなる。
だが、我慢だ。
俺は今、この教会に潜り込んでいる。目的を果たすまでは、連中に正体を悟られるわけにはいかない。
嫌悪感を押し殺し、善良な人間を演じ続ける。それくらい、どうということはない。
やがて祈りが終わると、子供たちは一斉にスプーンを手に取った。
俺もカレーを口に運ぶ。
……うん。美味い。
スパイスの刺激は強すぎず、ほどよい辛さの中に野菜の甘みが溶け込んでいる。具材も柔らかく、じっくり煮込まれているのが分かった。
これは、なかなかのものだ。
「みんな、いっぱい食べてね。今日はたくさん作ったから」
「わーい! カレー、大好き!」
「わたしも大好き!」
「……大好き」
三人は嬉しそうに声を弾ませた。
洋子は早速、次の一口をすくっている。純子も負けじとカレーを頬張り、真美は静かに、けれど着実に食べ進めていた。
ずいぶんと賑やかな食卓だ。
「うん。カレーは美味しいな」
俺が素直な感想を口にすると、ソフィアは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。愛情を込めて作りましたから」
「愛情を込めて、か……」
その言葉に、思わず眉が動きそうになった。
料理に愛情を込める?
そんなものが、味にどれほどの影響を与えるというのだろう。
料理は材料と調理法で決まる。そこに愛だの善意だのという曖昧なものを持ち込む意味が、俺には分からなかった。
……いや、分かりたくもない。
せっかくのカレーなのに、急に食欲が薄れてしまった。
「おかわり!」
「わたしも!」
「……おかわり!」
子供たちは、あっという間に皿を空にしてしまった。
まずい。
俺が余計なことを考えている間に、ずいぶんと食事が進んでしまったらしい。
「はいはい。分かりました。洋子、純子、真美。順番にね」
ソフィアは微笑みながら、三人の皿に新しいご飯を盛り、カレーをかけていく。
その手際は慣れたものだった。
俺は彼女の様子を眺めながら、少しずつカレーを口に運んだ。
すると、ソフィアがふと俺の皿に目を向けた。
「あの……」
「ん? どうした?」
「もしかして、カレーはお口に合いませんでしたか?」
「いやいや、美味しいよ。ただ、ちょっと食欲がないだけだ」
神への嫌悪感で食欲が失せた、などと言えるはずもない。
俺は愛想笑いを浮かべ、再びスプーンを動かした。
「そうですか……。それなら、わたしがお手伝いしますね」
「え?」
「はい。あーん」
ソフィアはスプーンにカレーをすくうと、俺の口元へ差し出してきた。
……おいおい。
まさか、ここでそんなことをするとは思わなかった。
周囲の視線が集まっているのを感じる。
断れば不自然だ。かといって、素直に応じるのも気恥ずかしい。
くそっ。ソフィアのやつ、こういうところでは意外と大胆なのか?
俺は観念して口を開けた。
「あーん……」
ぱくり。
もぐもぐ。
うん。やっぱり美味い。
料理の腕は本物だ。だが、食欲が戻ったかといえば、そうでもなかった。
「ソフィア姉。哲夫さんのこと、好きなの?」
「好きなの?」
「……好きなの?」
三人の目が、好奇心できらきらと輝く。
「えっ?」
ソフィアは一瞬きょとんとしたあと、穏やかな笑みを浮かべた。
「はい。好きですよ。わたしは、みんなのことが大好きですから」
「なーんだ。つまらないの!」
「つまらない!」
「……つまらない」
三人はそろって頬を膨らませた。
ソフィアは困ったように笑っている。
なるほど。そういうことか。
こいつにとっての愛は、特定の誰かに向けるものだけではないらしい。目の前にいる人間を、分け隔てなく大切にする。それが当たり前だと思っているのだ。
まったく、理解に苦しむ。
だが、だからこそ面白い。
いつか彼女は、俺の言葉に耳を傾けるようになるだろう。俺の考えを知り、俺の世界を理解し、やがて俺の望む方向へと歩き始める。
そうなれば、神の教えなど過去の遺物にすぎなくなる。
……ふふ。
その日が楽しみだ。
「それより、ソフィア」
「はい。なんでしょうか?」
「この教会での一日の予定を教えてくれないか。俺も、みんなの生活に合わせて行動しようと思う」
そう尋ねると、ソフィアは少し考えるように視線を上げた。
「そうですね。朝は四時に起きて、お祈りをします。それから七時に朝食を食べて、八時から正午までは子供たちのお世話をしたり、教会のお仕事をしたりします。昼食のあとは、またお祈りをして、午後は掃除や読書などですね。夕食は十八時です。そのあとにも、お祈りがあります」
「……祈ってばかりだな」
「ええ。教会ですから」
「なるほど」
想像以上に規則正しい生活らしい。
俺にとっては、なかなか窮屈な環境だ。だが、ここで暮らす以上、ある程度は付き合うしかない。
「分かった。明日と明後日は、俺も生活に慣れる時間にしよう。具体的に動くのは月曜日からだ。祈りの邪魔にならない時間を選ぶよ」
「はい。よろしくお願いしますね」
ソフィアは安心したように頷いた。
これで、まだ時間はある。
俺の計画を実行に移すまで、少しばかり猶予ができたわけだ。
さて、何から始めようか。
ソフィアの信仰を揺さぶるには、どうすればいい? 彼女が大切にしているものを知り、何を信じ、何を恐れ、何を守ろうとしているのかを見極める必要がある。
焦ることはない。
まずは観察だ。
「おなかいっぱい!」
「いっぱい!」
「……いっぱい!」
子供たちは満足そうに両手を合わせた。
「はいはい。それじゃあ、三人ともお風呂に入りましょうね」
「やだやだ! ソフィア姉も一緒がいい!」
「一緒がいい!」
「……一緒がいい」
「分かりました。わたしも一緒に行きますから、そんなに急かさないでくださいね」
「「「わーい!」」」
三人は歓声を上げ、ソフィアの周りに集まった。
その様子を眺めながら、俺は最後の一口を食べ終えた。
「皿洗いは俺がやるよ。ソフィアは子供たちと一緒に行ってきな」
「えっ、いいのですか?」
「ああ。食事を作ってもらったんだ。これくらいは俺がやる」
俺はそう言って、空になった皿を重ねた。
「ありがとうございます。それでは、お願いしますね」
ソフィアは小さく頭を下げると、子供たちを連れて食堂の奥へ向かった。
……よし。
これで、少しは一人になれる。
俺は鼻歌を口ずさみながら、皿をキッチンへ運んだ。
蛇口をひねり、水を流す。スポンジに洗剤をつけ、一枚ずつ丁寧に洗っていく。
なんて平和な光景だろう。
俺がここにいる理由を、こいつらは何も知らない。
ソフィアは俺を信用している。子供たちも、俺を新しい仲間として受け入れ始めている。
その信頼を裏切ることなど、俺にとっては造作もない。
むしろ、信頼されているからこそ、できることがある。
ソフィア・清水。
お前の心には、どんな弱点があるのだろうな?
これまで、俺は何人もの人間を言葉で動かしてきた。相手が望む言葉を選び、相手が聞きたいことを囁く。それだけで、人間は簡単に心を許してしまう。
誰もが、自分を理解してくれる相手を求めている。
そして、その期待に応えてくれる人間を、いつしか特別な存在だと思い込む。
ソフィアも例外ではないはずだ。
時間をかければいい。焦らず、少しずつ、彼女の信頼を得ていけばいい。
俺の計画は、必ず成功する。
悪魔の偉業が、ここから始まるのだ。
……くくく。
何も知らない、哀れな子羊め。
お前のすぐそばに狼が紛れ込んでいることにも気づかず、無防備に笑っていられるとは。
その無邪気さが、いつまで続くのか。
見ものだな。
◇ ◇ ◇
皿洗いを終えた俺は、清潔な布で手を拭いた。
なかなかの量だったが、特に苦労はしなかった。
これまで、もっと面倒な状況をいくつも乗り越えてきたのだ。皿洗い程度で音を上げるほど、俺は軟弱ではない。
……まあ、わざわざ自慢するようなことでもないが。
俺は洗い終えた皿を一枚ずつ確認した。
汚れは残っていないか。米粒がこびりついていないか。
どれも問題ない。
俺は満足すると、皿を水切りかごに並べた。
「さてと。ニュースでも見るか」
食堂の椅子に腰を下ろし、スマートフォンを取り出す。
画面には、相変わらず不穏なニュースが並んでいた。
中東では戦闘が激化し、アメリカは事態を鎮静化させるための対応を迫られている。原油の供給が滞る可能性が報じられ、各国の市場にも動揺が広がっていた。
さらに、周辺国では不審な動きが相次いでいる。核兵器をめぐる緊張も高まり、各国の政府は対応に追われていた。
株価は乱高下し、投資家たちは先行きの見えない情勢に不安を募らせている。
食料不足に苦しむ地域もあれば、洪水によって住む場所を失った人々もいる。中国では政府への不満を訴えるデモが発生し、各地で混乱が続いていた。
世界は、少しずつ壊れ始めている。
人間は平和を望むと言いながら、利害が衝突すれば争いを始める。正義を掲げ、信念を語り、相手を悪と決めつける。
結局のところ、誰もが自分の都合を優先しているだけだ。
そんな人間たちを、俺たち悪魔が少しばかり後押ししてやる。
欲望を刺激し、疑念を植えつけ、憎しみを煽る。
それだけで、世界は勝手に混乱してくれる。
やがて人々は互いを疑い、誰も他人を信じられなくなるだろう。
その先に待つのは、終末。
ハルマゲドンだ。
俺は画面をスクロールしながら、口元を緩めた。
世界が破滅へ向かう足音が聞こえる。
もっとも、人間たちはまだ、その意味を理解していないのだろうが。
ふと、あるニュースの見出しが目に留まった。
日本の政界でも、国際情勢への対応をめぐって議論が続いているらしい。そこには、お父様が各国の問題について演説する姿も掲載されていた。
白いスーツに、長い白髪。
写真越しでさえ、見る者を圧倒する存在感がある。
お父様は、言葉を巧みに操り、相手の期待を利用することに長けている。表向きはもっともらしい理屈を並べながら、その裏では自分の目的を着実に進めているのだ。
俺にとっては、見慣れた光景だった。
世界は、確実に変わりつつある。
そして俺もまた、その変化の一端を担っている。
……そのとき、ふと須美のことを思い出した。
俺は通話ボタンを押す。
数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声が返ってきた。
『もしもし、坂井様? お待ちしておりました』
「そっちは順調か?」
『ええ。こちらは問題ありませんよ。ふふ、相変わらず心配性ですね』
「お前のことだから、何か余計な騒ぎでも起こしているんじゃないかと思ってな」
『ひどい言い方ですね。わたしだって、ちゃんと仕事をしていますよ?』
「それならいい」
『それで、そちらはどうですか?』
「教会に入ることができた。これから計画を進める」
『さすがは坂井様。期待していますね』
「期待するのは勝手だが、足を引っ張るなよ」
『はいはい。分かっていますって』
須美は楽しそうに笑った。
こいつのことだ。俺の知らないところでも、何かしら動いているのだろう。
だが、今のところ問題はなさそうだ。
「じゃあ、また何かあれば連絡する」
『はい。また今度』
俺は通話を切り、スマートフォンをテーブルに置いた。
ふう。
須美も順調に動いている。それが分かっただけでも十分だ。
あとは俺が、ソフィアの信頼を得るだけ。
そう考えていたところで、廊下の向こうから子供たちの声が聞こえてきた。
「お風呂、終わったよー!」
「終わった!」
「……終わった!」
「こらこら、ちゃんと服を着てから来てくださいね」
ソフィアの声が続く。
俺はそちらへ顔を向けた。
すると、ちょうどソフィアが子供たちを連れて戻ってくるところだった。三人は着替えの途中だったらしく、ソフィアに急かされながら、それぞれの部屋へ向かっていく。
「ソフィア?」
「あっ、哲夫さん!」
彼女と目が合った瞬間、俺は慌てて視線を逸らした。
……何をやっているんだ、俺は。
別に、今さら動揺するようなことでもないだろう。人間の暮らしに紛れ込む以上、こういう不意の出来事だってある。
「ご、ごめんなさい。騒がしくしてしまって」
「いや、別に。気にしていない」
俺は平静を装い、咳払いをした。
「それより、子供たちはもう寝るのか?」
「はい。そろそろ寝る準備をさせようと思っています」
「そうか。なら、俺は部屋に戻るよ」
「分かりました。おやすみなさい、哲夫さん」
「ああ。おやすみ」
ソフィアは微笑み、子供たちのあとを追っていった。
その足音が遠ざかるのを聞きながら、俺はゆっくりと息を吐いた。
……危ないところだった。
いや、何が危なかったのか、自分でもよく分からない。
俺は悪魔だ。人間の感情を利用し、信頼を裏切り、自分の目的を果たすために生きている。
なのに、どうして今さら、あんな些細なことで動揺する?
馬鹿馬鹿しい。
俺は頭を振り、考えを追い払った。
ソフィアは、あくまで任務の対象だ。
彼女の優しさも、笑顔も、信仰も、俺にとっては計画を進めるための手がかりにすぎない。
そうでなければならない。
いつか、彼女の信じるものを揺るがしてやる。
彼女が大切にしているものを知り、その心の奥深くにまで踏み込んで、俺の思い通りに動かしてみせる。
それが俺の役目だ。
……そう、決めているのだから。
俺はスマートフォンを手に取り、画面を消した。
窓の向こうには、静かな夜が広がっていた。
この教会での暮らしは、思っていたよりも面倒なものになるかもしれない。
それでも、俺の計画が失敗するはずはない。
俺はそう信じていた。
少なくとも、このときはまだ。




