彼女が住む場所
教会を出た俺は、ソフィアに案内され、裏手にある建物へと向かった。
そこは、教会に併設された宿泊施設だった。
白い石材で造られた、三階建ての建物。教会と同じような古風な造りだが、屋根に十字架はない。
近づいてみると、壁のあちこちに小さなひびが走り、窓枠もところどころ色褪せていた。長い年月を経て、少しずつ傷んできたのだろう。
それでも、冷房設備は整っているらしい。この様子なら、夏を乗り切ることくらいはできそうだった。
俺は木製の扉に目を向けた。
古びたドアノブも、扉の表面に刻まれた細かな傷も、建物の歴史を物語っている。
おそらく、教会と同じ時期に建てられたのだろう。
ソフィアはドアノブを回し、扉を開けた。
「こちらが、私たちの宿泊施設です」
「へえ。なかなか年季が入っているな」
「はい。少し古いですけど、みんなで大切に使っているんですよ」
ソフィアはそう言って、にこりと笑った。
建物の中へ足を踏み入れると、最初に目に入ったのはダイニングルームだった。
中央には長い食卓があり、周囲には六脚の椅子が並んでいる。奥にはキッチンが設けられ、鍋からは白い湯気が立ち上っていた。
ぐつぐつと煮える音に、スパイスの香りが混じっている。
「夕飯の準備か?」
「はい。今日は金曜日なので、カレーにしようと思っています」
「カレーか。悪くないチョイスだな」
「えへへ。褒められちゃいました」
ソフィアは少し照れくさそうに舌を出した。
……こいつ、いちいち反応が素直だな。
俺が何気なく建物の奥へ視線を向けた、そのときだった。
視線を感じる。
しかも、一つや二つではない。
よく見ると、廊下の向こうから三人の少女がこちらをのぞいていた。
「ソフィア姉が彼氏を連れてきた!」
「来た来た!」
「……彼氏?」
三人は、まるで新しいおもちゃでも見つけたかのように騒ぎ始めた。
「ち、違います!」
ソフィアの顔が、一瞬で赤くなる。
「この方は、事情があって、しばらくここに滞在することになったんです!」
「なーんだ。つまんないの!」
「なんだー」
「……なんだ」
三人は口々に不満を漏らすと、ぱたぱたと足音を立てながら階段の向こうへ駆けていった。
……騒がしい連中だ。
だが、悪くない。
子供というのは、どこにいても遠慮がないものらしい。
「ソフィア。あの三人は?」
「ここで暮らしている子たちです」
「三人とも、君の妹みたいなものか?」
「はい。みんな、清水神父に引き取られた孤児なんです」
ソフィアは、少しだけ優しい表情になった。
「ここに来た子たちは、身寄りがない場合、神父様から『清水』という姓をいただくんです。だから、みんな同じ姓なんですよ」
「なるほどな。じゃあ、君のことを清水と呼ぶと、誰のことかわからなくなるわけか」
「そうですね。ですから、私のことはソフィアと呼んでください」
……ほう。
なかなか面白い提案だ。
確かに、ここでは清水と呼んでも、何人もの人間が振り向くことになりそうだ。
「わかった。ソフィア。それなら、俺のことも哲夫と呼んでいいぞ」
「えっ……哲夫、様?」
ソフィアは、どこか恥ずかしそうに俺の名前を口にした。
どうやら、異性を名前で呼ぶことには慣れていないらしい。
初々しいものだ。
「はい。では、哲夫様とお呼びしますね」
「好きにしてくれ」
「そ、それで、さっきの三人なんですけど……」
ソフィアは、少し慌てた様子で話を戻した。
「好奇心旺盛なのが洋子ちゃん。元気いっぱいなのが純子ちゃん。それから、おとなしいのが真美ちゃんです」
「了解した。あとで挨拶しておくよ」
「はい。みんないい子たちですから、仲良くしてあげてくださいね」
ソフィアは、まるで自分のことのように嬉しそうに微笑んだ。
……本当に、他人のことばかり気にかける女だ。
自分の置かれた状況を考えれば、もっと余裕がなくてもよさそうなものなのに。
教会は三億円を要求されている。
その問題が解決しなければ、ここで暮らす子供たちの生活だって、どうなるかわからない。
それなのに、ソフィアは笑っている。
まるで、自分が不安を抱えていることなど、誰にも悟らせないかのように。
……ますます、理解できない女だ。
*
「では、こちらです」
ソフィアに案内され、俺は建物の奥へと進んだ。
階段は木製で、足を踏み出すたびにギシギシと音を立てる。
手すりにも細かな傷があり、ところどころ塗装が剥がれていた。
この建物も、そろそろ本格的な修繕が必要なのだろう。
だが、そんな金があるとは思えない。
孤児たちを受け入れ、食事を用意し、日々の生活を支える。
それだけでも、相当な費用がかかるはずだ。
そこに三億円の問題まで重なっている。
……なるほど。確かに、切羽詰まっているわけだ。
「二階は子供たちの寝室になっています。三階には、私たちの部屋があります」
「俺の部屋も三階か?」
「はい。空いているお部屋がありますから」
階段を上り、三階へ。
案内されたのは、廊下の奥にある一室だった。
部屋の中には、年季の入ったベッドと本棚、机、椅子。それから、外の景色を眺められる窓が一つ。
豪華とは言い難いが、寝泊まりするには十分だろう。
「ここを使ってください」
「わかった。ありがとう」
俺は鞄を床に置き、窓を開けた。
夜風が室内へと流れ込んでくる。
見上げれば、夜空には月が浮かんでいた。
……忌々しい場所だ。
神を崇めるための教会。そのすぐ隣で、俺は神の教えを覆す計画を進めようとしている。
皮肉なものだ。
「では、私は夕飯の支度をしてきますね。できたら呼びに来ます」
「待ってくれ。もう少し話がある」
「お話、ですか?」
「ああ。契約についてだ」
その言葉を聞いた途端、ソフィアの表情が引き締まった。
先ほどまでの柔らかな笑顔が消え、背筋がぴんと伸びる。
「……はい。どのようなお話でしょうか?」
「昨日、約束しただろう。君の血も、肉も、髪も、すべて俺のものになる、と」
「はい。ただ……具体的には、何をすればいいのでしょうか?」
「俺の指示に従ってくれればいい」
俺がそう答えると、ソフィアは目を丸くした。
「指示、ですか?」
「難しいことじゃない。俺が頼んだことを実行してくれればいいんだ」
「わかりました。では、私は何をすればいいのでしょう?」
「今は、まだ何もない」
そう。今はまだ、様子を見る段階だ。
最初から無茶な要求を突きつけたところで、彼女が警戒するだけだろう。
果実は、熟してから味わうもの。
焦る必要はない。
「必要になったら、改めて頼む。それまでは、普段どおりに生活していてくれ」
「はい。わかりました」
ソフィアは素直にうなずいた。
「それで……三億円は、本当に用意していただけるんですよね?」
「ああ。お父様に用意してもらう」
俺は鞄を開き、封筒を取り出した。
中には、現金が百万円入っている。
「これは先払いの一部だ。受け取ってくれ」
「えっ……!」
ソフィアは目を見開いた。
「こ、こんなにたくさん……!」
「約束を守る意思があるってことだ。受け取っておいてくれ」
俺は封筒を差し出した。
金は、人間の心を動かす。
もちろん、全員がそうとは限らない。だが、金に困っている人間にとって、まとまった現金は強力な誘惑になるはずだ。
ましてや、三億円を必要としている教会なら、なおさらだろう。
……さあ、どうする?
「ありがとうございます。でも、今は受け取れません」
「……あ?」
予想外の返事だった。
ソフィアは、差し出された封筒に手を伸ばそうともしなかった。
俺は思わず、彼女の顔を見つめる。
どういうことだ?
金に困っているんじゃなかったのか?
それなのに、目の前にある百万円を断るだと?
「どうしてだ?」
「三億円は、私ではなく、清水神父に渡していただきたいんです」
「神父に?」
「はい。教会のことは、神父様が責任を持って対応していますから」
「……その神父は、今どこにいる?」
「海外にいらっしゃいます。三億円を用意するために、いろいろと動いてくださっているんです」
「ほう……」
俺は小さく息を漏らした。
なるほど。神父も、ただ手をこまねいているわけではないらしい。
俺が知らないところで、資金を調達する手段を探っているのだろう。
これは、少しばかり計算外だった。
「わかった。この金は、いったんしまっておく」
「はい。ありがとうございます」
ソフィアは、ほっとしたように微笑んだ。
……その顔が、妙に気に障った。
まるで、金などでは自分の心を買えないとでも言いたげな笑顔だった。
金で人を動かすことに慣れている俺にとって、それは理解しがたい反応だった。
どうして、そこまで簡単に断れる?
どうして、目の前の大金よりも、神父との約束を優先する?
彼女は、本当に金よりも信仰や仲間を大切にしているのか?
それとも、俺が何かを見落としているのか。
……まあいい。
今は、まだ結論を出す段階ではない。
「では、私は夕飯の準備に戻りますね。時間になったら呼びに来ます」
「ああ。わかった」
ソフィアは一礼し、部屋を出ていった。
廊下を歩く足音が、少しずつ遠ざかっていく。
やがて静寂が戻ると、俺はベッドの端に腰を下ろした。
「……さて。お父様に報告するか」
スマートフォンを取り出し、電話をかける。
数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声が返ってきた。
『どうした、哲夫』
「教会への潜入に成功しました。あとは、彼女の信仰を揺さぶるだけです」
『よくやった。あの場所は、神の加護が強い。悪魔である私が直接踏み込むには、いささか面倒な場所だからな』
「だからこそ、俺がいるわけですね」
『そういうことだ。お前には期待しているぞ』
「必ず成功させます」
俺は迷いなく答えた。
この計画を失敗させるつもりなどない。
ソフィアを堕落させ、神の権威を傷つける。
そのために、俺はここまで来たのだから。
『神に災いあれ』
「ルシファー万歳」
短く言葉を交わし、通話を切った。
俺はスマートフォンを手にしたまま、しばらく考え込んだ。
清水ソフィア。
彼女は、俺が思っていたよりも厄介な相手かもしれない。
金を差し出しても、簡単には受け取らない。
頼みごとをすれば、疑うより先に相手を信じようとする。
それでいて、教会のことについては、神父の判断を尊重している。
彼女の心を動かすには、金や甘い言葉だけでは足りないのだろう。
ならば、別の方法を探すまでだ。
俺はネットニュースを開いた。
中東情勢は、さらに緊迫している。
株式市場も不安定な動きを見せ、世界経済には不穏な空気が漂っていた。
人間の欲望は、決して尽きることがない。
金を求め、権力を求め、他人より上に立とうとする。
そして、欲望がぶつかれば、憎しみが生まれる。
悪魔にとって、それは格好の機会だった。
世界のあちこちで、ハルマゲドンに向けた準備が進んでいる。
俺も、与えられた役割を果たさなければならない。
ふと、窓の外に目を向けた。
月が浮かんでいる。
雲の切れ間から差し込む光は、どこか赤みを帯びて見えた。
……不吉な月だ。
世界が終わりへと向かっている。
そんな錯覚を覚えるほど、静かな夜だった。
「……俺に、あの聖女を攻略できるのか?」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
すぐに、俺は自分の考えを打ち消す。
何を弱気になっている?
俺はインキュバスだ。
女の心を読み、誘惑し、望む方向へと導くことを得意とする悪魔だ。
これまで、何人もの人間を誘惑してきた。
今さら、一人の聖女を相手に怖じ気づく理由などない。
彼女の信仰を揺るがし、神の教えに疑問を抱かせる。
そのために必要な手段を、一つずつ試していけばいい。
たとえ時間がかかろうとも、最後には俺が勝つ。
「くくく……」
俺は、喉の奥で笑った。
聖女は、まだ知らない。
自分の隣に、悪魔が潜り込んだことを。
神を憎み、世界を覆そうとする男が、すぐそばにいることを。
俺は窓の外の月を見上げた。
この教会で始まる共同生活は、きっと退屈しないものになる。
そして、ソフィアが俺の計画を知る頃には――もう、後戻りできなくなっているはずだ。
少なくとも、俺はそう信じていた。
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