魔の手
放課後。
終業のチャイムが鳴った途端、教室を包んでいた空気が一変した。
「今日、どこに遊びに行く?」
「ゴールデンウイーク、どこか旅行しない?」
「悪い。俺、部活があるんだよな」
「えー、じゃあ、また今度!」
生徒たちは、解放感に満ちた声で話し始める。
放課後の予定を立てる者。ゴールデンウイークの計画を練る者。部活動に向かう者。そして、何の予定もなく、のんびり帰宅する者。
それぞれが、それぞれの青春を謳歌していた。
俺はそんな会話を聞き流しながら、窓の外へ視線を向ける。
グラウンドでは、陸上部が準備運動をしていた。
少し離れた場所では、野球部の連中がボールを拾い集めながら、楽しそうに笑っている。
その笑い声が、やけに耳についた。
……何がそんなに楽しいんだ?
何が友達だ。何が友情だ。何が努力だ。
そんなものに、一体どれほどの価値があるというのだろう。
この世界は、最初から不公平にできている。
生まれながらに才能を持つ者がいる。努力しなくても周囲に愛され、何をやっても認められる者がいる。
まるで神に祝福されているかのように、そいつらは自分の才能を開花させていく。
一方、何も持たずに生まれた者はどうだ?
必死に努力しても報われず、どれほど足掻いても、才能ある者の背中すら見えない。
生まれた瞬間から、勝者と敗者が決まっている。
そんな世界のどこに、公平さがあるというのだ。
……だから、俺は神が大嫌いなんだ。
神は人間に自由を与えたと宣う。
だが、そもそも生まれ持った才能も、環境も、与えられる機会も平等ではない。
それなのに、努力しろ、善良であれ、正しく生きろと説教する。
反吐が出る。
もっとも、今は神への愚痴を並べている場合ではなかった。
今日から、俺は清水教会に泊まる。
ゴールデンウイークの間、聖女・清水ソフィアを観察し、彼女の信仰を揺るがす方法を探らなければならない。
そして、最終的には――彼女を悪魔の計画に引きずり込む。
それが、お父様から与えられた新たな使命だった。
「さて、帰るか」
俺は鞄をまとめ、席を立った。
教室を出て、昇降口で靴を履き替える。
校門を抜けようとしたところで、見覚えのある赤い髪が目に入った。
須美だ。
彼女は、見知らぬ男子生徒と手をつないでいた。
相手の男は、彼女に何かを話しかけている。須美は楽しそうに笑い、男の顔をのぞき込んでいた。
……なるほど。次の獲物というわけか。
須美はサキュバスとして、実によく働いている。
人間を誘惑し、心を揺さぶり、堕落へと導く。
それが、悪魔の血を引く者に与えられた宿命だ。
俺は彼女に声をかけることなく、そのまま通り過ぎた。
今の俺には、ほかに優先すべきことがある。
清水ソフィア。
あの聖女をどう攻略するか。
それだけを考えればいい。
*
駅に到着すると、俺は電車を待ちながらスマートフォンを取り出した。
SNSを開き、ニュースや話題になっている投稿を眺める。
今日も、お父様の活躍が目立っていた。
経済ニュースの動画には、大臣と握手を交わすお父様の姿が映っている。白いスーツに身を包み、余裕たっぷりの笑みを浮かべるその姿は、まさに成功した実業家そのものだった。
人間たちは、お父様を優れた経営者だと思っている。
交渉力に長け、幅広い人脈を持ち、誰もが認めるカリスマ性を備えた男。
だが、真実は違う。
あの男は、人間ではない。
神に敵対する悪魔の王であり、世界を裏側から動かそうとしている存在だ。
人間たちは、その正体を知らない。
知らないまま、お父様を称賛し、その手を取り、彼の計画に加担している。
……滑稽なものだ。
悪魔の計画は、着実に進んでいる。
政治、経済、人間関係。
あらゆる場所に悪魔の手が伸びている。
俺もまた、その計画の一端を担う者として、与えられた役目を果たさなければならない。
電車が到着した。
俺は乗り込むと、窓の外を眺めながら、しばらく揺られていた。
やがて最寄り駅に着き、改札を抜ける。
向かった先にあるのは、巨大な高級マンションだった。
俺の住まいだ。
最上階の一室。お父様が現金一括で購入した、立派な部屋である。
……もっとも、住人の生活態度まで立派とは限らない。
玄関の扉を開けると、目に入ったのは散らかった室内だった。
脱ぎっぱなしの服。机の上に放置された書類。片づける気配すらない雑然とした空間。
我ながら、ひどい有様だ。
「……まあ、今はいいか」
どうせ、しばらく帰ってこない。
俺は部屋に入ると、旅行用の鞄を引っ張り出した。
シャツにズボン、下着。歯ブラシに洗面用具。
一週間ほど生活するのに必要なものを、次々と詰め込んでいく。
荷造りの途中、テレビをつけた。
画面には、中東情勢を伝えるニュースが映し出されていた。
緊迫する国際情勢。激化する対立。終わりの見えない争い。
人間たちは、それぞれの正義を掲げ、互いを憎み合っている。
その憎悪が、さらなる憎悪を生む。
……悪魔にとって、実に都合のいい世界だ。
もちろん、世界中の争いをすべて悪魔の仕業だと言い切るつもりはない。
人間は、自分たちだけでも争いを生み出せる。
だが、そこに悪魔が囁けばどうなる?
憎しみを煽り、疑念を膨らませ、相手を許す余地を奪う。
人間が自分の意思で選んだと思い込んでいる行動を、ほんの少しだけ望ましい方向へ誘導する。
それだけで、世界は容易に燃え上がる。
悪魔とは、そういう存在なのだ。
「よし。荷造りはこんなものか」
俺は鞄のファスナーを閉じ、スマートフォンを手に取った。
清水教会の場所を確認する。
街の中心部から離れた、公園の裏手。
住宅街の喧騒からも少し距離があり、周囲には古い建物が点在しているらしい。
「……その前に、まだ時間があるな」
時計を見ると、午後五時前だった。
ソフィアとの約束は午後六時。
今すぐ出発すれば、かなり早く着いてしまう。
さて、どうしたものか。
そう考えていたところで、スマートフォンが着信を告げた。
画面に表示された名前を見て、俺は通話ボタンを押す。
「もしもし、お父様」
『坂井。準備はできているか?』
「もちろん。清水ソフィアを、必ず計画の中に引きずり込みます」
『……それを聞いて安心した』
電話の向こうで、お父様が低く笑った。
『正直に言えば、少し心配していたのだ』
「何をです?」
『お前が、あの女に恋をするのではないかとな』
「……恋?」
俺は思わず眉をひそめた。
「何を馬鹿な。俺たち悪魔に、そんな感情は必要ありませんよ」
そうだ。
恋愛など、人間が勝手に神聖視している感情の一つにすぎない。
無償の愛だの、隣人愛だの、永遠の愛だの。
耳触りのいい言葉を並べたところで、世界が変わるわけではない。
俺たちは神を冒涜する存在だ。
愛を説く神の教えを踏みにじり、人間が信じている正しさを覆す。
それが悪魔の生き方だった。
「それより、三億円は用意できるんですよね?」
『お前が計画を成功させたらな』
「なるほど。成功報酬というわけですか」
『不満か?』
「いいえ。なら、契約書を作っておきましょう。後から話を変えられても困りますからね」
俺は口元を吊り上げた。
これまで、俺は幾人もの女性を誘惑してきた。
相手の望みを見抜き、言葉を選び、心の隙間に入り込む。
それが俺の得意分野だ。
ならば、清水ソフィアだって例外ではない。
いずれ、あの聖女も俺の思いどおりになる。
……そう、信じていた。
『忘れるな。相手は聖女であり、シスターだ。お前が今まで相手にしてきた女とは違う』
「お父様。俺はインキュバスですよ?」
俺は、わざとらしく笑ってみせた。
「女を誘惑し、心を動かすことにかけては、誰にも負けません」
『ほう。ずいぶんな自信だな』
「今日も少し話をしましたが、こちらの提案をあっさり受け入れてくれました。教会に泊めてくれるそうです。……案外、簡単に攻略できるかもしれませんね」
『油断するな』
「わかっていますよ」
短く答えたものの、俺の心に迷いはなかった。
清水ソフィアを堕落させる。
彼女が信じている神の教えを揺るがし、最後には、自分の意思で神から離れるように仕向ける。
それが俺の使命だ。
『役目を果たせ、坂井』
「はい、お父様」
通話が切れた。
俺はスマートフォンをポケットにしまい、鞄を手に取った。
聖女を攻略する。
それだけなら、難しい仕事ではない。
もっとも、真正面から力ずくで押し切るつもりはなかった。
彼女には神の加護がある。
信仰に守られた心を、単純な誘惑だけで崩すことはできない。
必要なのは、彼女自身に疑問を抱かせること。
神の教えと、自分自身の願い。
その二つが食い違ったとき、彼女が何を選ぶのか。
そこにこそ、俺の勝機がある。
「さて……そろそろ出るか」
俺は部屋を出た。
*
約束の時間まで、まだ少し余裕があった。
街を歩いていると、何人もの人間とすれ違う。
疲れた顔の会社員。楽しそうに談笑する学生。買い物袋を提げた主婦。
それぞれが、自分の人生を生きている。
俺はその中から、ひときわ浮かない顔をした女性を見つけた。
目元には疲労がにじみ、足取りも重い。
誰かに話を聞いてほしいのかもしれない。
俺は彼女に声をかけ、何気ない会話を交わした。
少しずつ距離を縮め、相手が求めている言葉を選んでいく。
人間の心は、案外単純だ。
誰かに認められたい。自分を理解してほしい。孤独を忘れたい。
その願いを見抜けば、心の扉は少しずつ開いていく。
やがて彼女は、俺の誘いに応じた。
その後のことは、語るまでもない。
俺は再び、人間の心に小さな楔を打ち込んだ。
悪魔の力を使い、人間を誘惑する。
そうして世界に悪魔の影響を広げていく。
神に対抗するために。
お父様の計画を成就させるために。
そして、いつか神の支配する世界を覆すために。
俺は悪魔としての役割を果たし続ける。
*
ラブホテルを出る頃には、夕日が街をオレンジ色に染めていた。
ビルの隙間に沈みかけた太陽が、空の端を赤く照らしている。
ハルマゲドンが訪れれば、この空はもっと赤く染まるのだろうか。
街全体が混乱に包まれ、人間たちが信じてきた秩序が崩れていく。
そんな光景を想像して、俺は小さく笑った。
時計を確認する。
そろそろ、清水教会へ向かう時間だった。
駅に着くと、帰宅する会社員たちの列ができていた。
疲れた表情で電車を待つ人々。
今日一日、何を成し遂げたのか。
自分の人生がどこへ向かっているのか。
そんなことを考える余裕さえないのかもしれない。
資本主義の歯車として働き、生活のために時間を切り売りし、明日もまた同じ日々を繰り返す。
それが正しい生き方なのか、誰にもわからない。
……だが、そんな迷いこそ、悪魔が入り込む隙になる。
人間は、心が弱ったときほど、甘い言葉にすがりたくなるものだからだ。
電車に乗り、いくつかの駅を通り過ぎる。
やがて、目的の駅に到着した。
俺は大勢の乗客に交じってホームへ降り、改札を抜ける。
そこから先は、街の中心部とは反対方向だった。
歩けば歩くほど、人通りが少なくなっていく。
古びた住宅。小さな商店。手入れの行き届いていない空き地。
華やかな街の喧騒が、嘘のように遠ざかっていった。
道沿いの公園から、子供たちの声が聞こえてくる。
鬼ごっこでもしているのだろう。
無邪気に走り回り、笑い合い、転んでは立ち上がる。
その姿を、俺は足を止めて眺めた。
……苦手だ。
子供という生き物は、どうにも苦手だった。
あいつらは、まだ世界の汚さを知らない。
人間の悪意も、裏切りも、理不尽も。
自分が信じているものが、いつか壊れるかもしれないという恐怖も。
知らないからこそ、あんなふうに笑っていられる。
神の子という言葉があるのなら、俺は悪魔の子なのだろう。
同じ世界を生きていても、見えているものが違う。
……だからこそ、俺は神を憎んでいるのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、やがて目的地が見えてきた。
清水教会。
公園の裏手に隣接する、古びた教会だった。
庭には赤や黄色のチューリップが咲き誇り、鮮やかな色彩が夕暮れの景色を彩っている。
誰かが丁寧に世話をしているのだろう。
花壇の土はきれいに整えられ、雑草もほとんど見当たらない。
おそらく、ソフィアたちが手入れをしているに違いない。
お父様が調べた情報によれば、この公園を含む一帯は、かつて清水教会が管理していた土地らしい。
だが、土地の権利証が何者かの手に渡り、教会は三億円を要求されている。
なぜ、そんなことになったのか。
そこまでは、まだわかっていなかった。
「……さて」
俺は教会の前で足を止めた。
建物を見上げる。
白い石造りの壁。北ヨーロッパの古い教会を思わせる、落ち着いた佇まい。屋根の上には、立派な十字架が掲げられている。
どこまでも神聖で、どこまでも清らかな場所。
……反吐が出るほど、俺の嫌いな場所だった。
俺は古びた木製の扉に手をかけ、ドアノブを回した。
軋む音とともに、扉が開く。
内部には、静謐な空気が満ちていた。
中央には祭壇へと続く通路が伸び、その左右には信者が座るための木製のベンチが並んでいる。
赤い絨毯が通路を彩り、奥の祭壇へと視線を導いていた。
祭壇の脇には、小さな懺悔室。
そして、祭壇の背後には、大きなステンドグラスがはめ込まれている。
描かれているのは、聖母マリアの姿だった。
色とりどりの光が差し込み、床に鮮やかな模様を落としている。
神を讃えるために造られた、美しい空間。
俺にとっては、神の権威を象徴する、忌々しい場所にほかならなかった。
その祭壇の前で、一人のシスターが祈りを捧げていた。
「神様。私は今、大きな困難の中にいます。どうすれば乗り越えられるのか、まだ答えが見つかりません。
どうか、私に知恵と勇気をお与えください。
そして、苦しんでいる方々にも、安らぎと癒やしがありますように。
アーメン」
シスター服に身を包んだ彼女は、静かに祈りを終えた。
やがて立ち上がり、こちらを振り返る。
清水ソフィア。
彼女は俺の姿を認めると、ぱっと顔を明るくした。
「お待ちしておりました、坂井さん!」
「ああ。しばらく世話になる。よろしくな」
「はい! こちらこそ、よろしくお願いします」
ソフィアは、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔は、まるで差し込む夕日のようにまぶしかった。
打算も、疑念も、裏表も感じさせない。
ただ、目の前にいる人間を信じ、力になろうとしている。
……まったく、理解できない。
どうして、そこまで他人を信じられる?
どうして、自分が損をするかもしれないのに、誰かのために手を差し伸べられる?
そんなものに、一体どんな意味があるというのだ。
俺は彼女の笑顔を見つめながら、胸の内で冷たく笑った。
この女は、まだ知らない。
俺が何者なのか。
何のためにここへ来たのか。
そして、彼女の信じる神を、俺がどれほど憎んでいるのか。
「では、こちらへどうぞ。お部屋をご案内しますね」
「ああ。頼むよ」
ソフィアは嬉しそうに微笑み、教会の奥へと歩き始めた。
俺は、その後ろについていく。
ここから先は、敵地への潜入だ。
彼女の日常を知り、信仰の深さを確かめ、心の隙を探す。
そして、いずれは神の教えと彼女自身の願いを衝突させる。
すべては計画どおり。
俺は、そう信じていた。
――このときは、まだ。
目の前の聖女が、俺の計画を根底から覆す存在になるとは、夢にも思っていなかった。




