清水・ソフィアは聖女である
翌日。五月一日。
ゴールデンウイークを目前に控えた、退屈な学校生活。
学生の本分は勉強にある。
そんな当たり前のことを理解している俺は、今日も怠ることなく登校していた。
「やっぱり、坂井様と過ごす夜が一番ですわ! 優しいし、紳士的だし……ふふっ」
俺の隣を歩きながら、須美はうっとりとした表情を浮かべていた。
俺たちは手をつないで、通学路を歩いている。
話題は、もちろん昨夜のことだ。
「俺を誰だと思っている? 俺はインキュバスだぞ。女を魅了し、悪魔の血をこの世界に広める存在だ」
「ああ……さすがは坂井様です!」
須美は頬を赤らめ、つないだ手をぎゅっと握ってくる。
俺は思わず笑みをこぼした。
彼女もまた、人間とは異なる存在だ。
須美美和子。赤い髪が特徴的なサキュバスであり、男を誘惑することを得意としている。
女を誘惑する俺とは、いわば対になる存在だった。
「それにしても、悪魔って便利ですよね。本人にその意思がなければ、望まない結果を避けられるんですから」
「そうだな。悪魔の力は、そういうところまで融通が利く」
人間にとっては、想像もつかない話だろう。
悪魔は、自らの意思によって力を制御できる。
その力を使い、人間の記憶を書き換え、人生を狂わせ、ときには新たな命をこの世界に送り出す。
俺たちは、そうやって幾度となく人間を奈落へと導いてきた。
そして、そのすべてが、いずれ訪れるハルマゲドンに向けた準備でもある。
悪魔の子を世界に増やし、神の支配を揺るがす。
それが、俺たちの計画だった。
「ところで、坂井様」
「ん? どうした?」
「聖女を自分のものにするっていう計画、本気なんですか?」
須美の表情から、先ほどまでの浮かれた様子が消えた。
どうやら、俺の計画に疑問を抱いているらしい。
無理もない。
聖女とは、信仰と純潔の象徴だ。悪魔である俺に心を許すなど、普通なら考えられない。
「だからこそ、事前準備が必要なんだ」
「事前準備、ですか?」
須美が小首をかしげる。
俺は彼女の頭を軽く撫でた。
「このゴールデンウイークは、清水教会に居候するつもりだ」
「えっ。あの聖女様の教会に?」
「ああ。まずは、彼女の生活を知る。何を信じ、何を大切にしているのか。誰を守りたいと思っているのか。それを知らなければ、計画の立てようがない」
「それで、次はどうするんです?」
「彼女自身に、信仰と自分の願いを天秤にかけさせる」
俺は口元を吊り上げた。
「神の教えに従うのか。それとも、自分の意思で別の道を選ぶのか。彼女が自分で選択した結果なら、そこにこそ意味がある」
「わあ……さすがはカリスマ王子。考えることが悪魔的ですね!」
須美の瞳が、きらきらと輝いた。
どうやら、俺の説明に感心してくれたらしい。
もっとも、彼女は俺の計画のすべてを理解しているわけではない。
俺が本当に求めているものは、単なる聖女の堕落ではなかった。
清水ソフィアを通じて、神の権威そのものに泥を塗る。
それが、お父様の望みであり、俺が果たすべき使命だった。
「さて、須美。そろそろ別れよう。これ以上一緒にいると、周囲に怪しまれる」
「はーい。坂井様も頑張ってくださいね!」
須美は名残惜しそうに手を離すと、校門の前で俺と別れた。
そして、少し離れた場所にいた友人たちの輪に加わっていく。
「おはよう、るみちゃん!」
「あ、おはよう、須美ちゃん。昨日はどこに行ってたの?」
「へへっ、内緒!」
「もう、ずるいじゃん!」
「まあまあ。その代わり、今度、新しい男の人を紹介してあげるから」
「えっ、ほんと? 楽しみ!」
……まったく、朝から元気な連中だ。
須美が紹介する男というのも、どうせ俺の同族だろう。
こうして人間社会に悪魔の種を広め、少しずつ勢力を拡大していく。
それが、俺たちのやり方だった。
「さてと。俺は陰キャを演じるとするか」
小さくつぶやき、校舎へと足を踏み入れる。
背中を丸め、視線を落とし、誰とも目を合わせない。
教室に入っても、挨拶ひとつしない。
周囲から見れば、目立たない冴えない男子高校生。
だが、その内側に潜むものを知る者は、ほとんどいない。
俺は自分の席に着くと、机に突っ伏した。
昨夜、お父様は言った。
清水ソフィアを堕落させろ、と。
だが、そう簡単にいくとは思えない。
あの女は、他人のためなら自分の時間も労力も惜しまない。困っている人間を見捨てられず、誰かに頼まれれば、できる限り力になろうとする。
その優しさは、彼女の美点であると同時に、弱点にもなり得る。
しかし、どんな悪意を吹き込まれようと、彼女は簡単には道を踏み外さないだろう。
……さて、どうしたものか。
そんなことを考えていると、教室の扉が開いた。
「おはようございます!」
明るく、澄んだ声。
清水ソフィアが登校してきたのだ。
昨日、危うく厄介な男に連れ去られそうになったことなど、まるでなかったかのような顔をしている。
いや、実際には、彼女なりに思うところがあるのだろう。
ただ、それを周囲に見せていないだけだ。
「あっ、清水さん。おはよう!」
茶髪の三宅が、さっそく彼女に声をかけた。
「おはよう、三宅さん」
「聞いたよ! 昨日、おばあちゃんを助けたんだって?」
「そんな、大したことではありませんよ。それより、数学の勉強は進みましたか? 昨日、授業中に眠そうにしていましたよね」
「あはは……ばれちゃいました? 部活で疲れちゃって。それで、この問題がどうしてもわからなくて」
「どれどれ……ああ、ここですね。まず、この式を整理してみましょう」
「おおっ! なるほど! 清水さんって、本当に説明がわかりやすいね!」
三宅が感嘆の声を上げる。
そこへ、別の女子生徒がやってきた。
「あっ、清水さん、おはよう! 昨日はありがとうね。日直を代わってくれて」
「徳武さん、おはようございます。昨日はおばあちゃんのお見舞いに行けましたか?」
「うん! おかげで間に合ったよ。本当にありがとう!」
「それなら、よかったです」
清水は、誰に対しても分け隔てなく接する。
勉強が苦手な生徒には、わかるまで丁寧に教える。
困っている生徒がいれば、できる限り手を貸す。
誰かの頼みを断ることが苦手で、それでいて成績も優秀。
まさしく、絵に描いたような聖女だった。
だからこそ、彼女は周囲から好かれている。
そして、だからこそ――俺は彼女を放っておけない。
あの純粋な心が、どこまで神への信仰を貫けるのか。
それを確かめずにはいられなかった。
「あ、坂井さん」
不意に、ソフィアがこちらを向いた。
目が合う。
彼女は小さく微笑むと、俺の席までやってきた。
「昨日はありがとうございました」
「……ん? 何のことだ?」
俺はとぼけてみせる。
昨日の一件を、あまり周囲に知られたくはない。
同級生の女子をラブホテルに連れていった――そんな話が広まれば、俺の学校生活は一瞬で終わるだろう。
もちろん、実際には彼女を危険な状況から助けるためだった。
だが、事情を知らない人間からすれば、誤解を招くには十分すぎる。
「あれ? 忘れてしまったんですか? 昨日、ピンク色の建物に連れていってくださったじゃないですか」
「えっ?」
隣で聞いていた三宅が、ぐいっと身を乗り出した。
「ちょ、ちょっと待って! どういうこと?」
「実は昨日、私、危ない目に遭いそうになったんです。それで坂井さんが助けてくださって……ラブホテルに連れていってくれたんです」
「全然違うだろ!」
いや、場所については間違っていない。
だが、説明の仕方というものがあるだろう!
俺は思わず立ち上がり、ソフィアの肩に手を添えた。
「清水。少し話がある!」
「えっ? あの、坂井さん?」
俺は彼女を連れて、教室を出た。
背後から、ざわざわと声が聞こえてくる。
「えっ、二人って付き合ってるの?」
「坂井って、あんな感じなのに意外とやるな……」
「そ、そんな……僕の清水さんが……!」
「きゃー! なんだか恋バナの予感!」
……好き勝手に言ってくれる。
だが、訂正するために戻るのも面倒だ。
むしろ、この噂が広まれば、ソフィアと親しくする口実になるかもしれない。
そう考えれば、悪い話でもなかった。
俺は彼女を連れて階段を上り、屋上へと向かった。
普段なら、屋上の扉には鍵がかかっている。
しかし、俺は悪魔の力をほんの少し使い、扉を開けられるようにしていた。
屋上に出ると、五月の青空が視界いっぱいに広がった。
風が吹き抜け、俺たちの制服を揺らす。
ここなら、誰にも邪魔されずに話せるだろう。
「あの……坂井さん?」
ソフィアが、不思議そうに俺を見上げる。
俺は肩の力を抜き、苦笑いを浮かべた。
「悪いな。いきなり連れ出して」
「いえ。それで、お話というのは?」
「昨日のことなんだけど……できれば、内緒にしておいてくれないか?」
「昨日のこと、ですか?」
「俺たちが会ったことも、ホテルに行ったことも。あまり人に知られたくないんだ」
「どうしてですか?」
「……実は、あのホテルの関係者と知り合いでさ。妙な噂が立つと、いろいろ面倒なんだよ」
半分は本当で、半分は嘘だ。
俺が隠したいのは、ホテルとの関係などではない。
ソフィアを助けたという事実が広まれば、彼女に近づくことを不審に思う人間が出てくるかもしれない。
そうなれば、計画に支障が出る。
「そうだったんですね。わかりました。誰にも話しません」
「助かるよ」
俺はにっと笑い、軽く手を叩いた。
「それで、ここからが本題だ」
「えっ? まだお話があるんですか?」
「ああ。昨日の約束の続きだ」
「……三億円の件ですね?」
「そう。覚えていてくれたなら話が早い」
俺は、ソフィアの瞳を見つめた。
首元には、小さな銀の十字架が揺れている。
普通の悪魔なら、忌々しく感じる代物だろう。
だが、俺は人間としての肉体を持ち、悪魔の力を宿している存在だ。十字架を見たところで、恐怖を覚えることはない。
「このゴールデンウイークの間、清水教会に泊めてもらえないか?」
「……えっ? 清水教会に、ですか?」
「ああ。実は、家が工事に入ってしまってな。しばらく帰れないんだ。ほかに頼れる知り合いもいなくてさ」
もちろん、嘘だ。
俺の家に問題などない。
清水教会に入り込むのは、ソフィアの生活を調べるためだ。
彼女は、どんな環境で暮らしているのか。
誰と一緒に過ごし、何を信じ、何を守ろうとしているのか。
そして、彼女の信仰は、日々の暮らしの中でどれほど深く根づいているのか。
それを知る必要がある。
俺が把握しているのは、彼女が清水教会で暮らすシスターであり、身寄りのない子供たちの世話をしていること。
そして、その教会が土地の権利証を奪われ、三億円を要求されていることだけだ。
お父様なら、三億円を用意するくらい簡単だろう。
だが、成功報酬として金を受け取るためには、俺がソフィアを堕落させなければならない。
……つまり、俺が計画を成功させない限り、三億円は手に入らないというわけだ。
「いいですよ?」
「……は?」
あまりにもあっさりとした返事に、俺は思わず聞き返した。
「えっと、いいのか?」
「はい。困っている人を放っておくわけにはいきませんから。それに、神父様に相談すれば、きっと許してくださると思います」
ソフィアは、何の疑いもなく微笑んだ。
……本当に、警戒心というものがないらしい。
「そうか。助かるよ。約束どおり、三億円はきちんと用意する」
「ありがとうございます。でも、私にできることがあれば、何でもお手伝いしますね」
「……そうか。それはありがたい」
「ただし、神父様にもちゃんと事情を説明してくださいね?」
ソフィアは、念を押すように言った。
なるほど。何でも言うことを聞くというわけではないらしい。
少しばかり、見込み違いだったか。
だが、それも悪くない。
彼女には彼女なりの考えがあり、譲れないものもある。
それを知ることが、今回の目的でもあるのだから。
「わかった。そこはきちんと話すよ」
「はい。では、神父様に相談しておきます。明日からなら、大丈夫だと思います」
「本当か? ありがとう、清水」
「いえいえ。困ったときはお互いさまですから」
ソフィアは、当たり前のことを言うように笑った。
その笑顔を見て、俺は胸の内でほくそ笑む。
――これで、清水教会に入り込む足がかりはできた。
あとは、彼女の信仰を揺さぶる方法を探るだけだ。
もっとも、ここから先は慎重に進めなければならない。
彼女の心は、俺が考えているほど単純ではないかもしれないのだから。
キーンコーンカーンコーン。
校舎から、授業開始のチャイムが鳴り響いた。
「あっ、そろそろ教室に戻らないと!」
「そうだな。話もまとまったし、戻るか」
「はい。それでは、また明日!」
ソフィアは軽く頭を下げ、先に屋上を出ていった。
その背中を見送りながら、俺はゆっくりと息を吐く。
清水ソフィア。
彼女は、俺が悪魔であることも、近づいた理由も知らない。
俺が彼女の信仰を揺るがし、神の威光を失墜させようとしていることなど、想像すらしていないだろう。
……さて。
どうすれば、彼女の心を動かせるのか。
悪魔の囁きに耳を貸させるには、何が必要なのか。
俺は階段を下りながら、思案を巡らせた。
清水を堕落させる。
それが、お父様から与えられた使命だ。
だが、彼女のことを知れば知るほど、計画どおりに進むとは限らない。
そんな予感が、ほんのわずかに胸をよぎっていた。




