ワルプルギスの夜
ラブホテルを後にした俺は、街外れの山へと向かった。
舗装された道を離れ、鬱蒼と茂る森林の中へ足を踏み入れる。
木々の隙間から差し込む月明かりは弱々しく、地面には黒々とした影が幾重にも重なっていた。鳥の声すら聞こえない。獣たちでさえ、この場所から逃げ出したがっているかのようだった。
吐き気を催すほど静かな夜。
しかし、俺は知っていた。
この異様な空気の正体を。
「ワルプルギスの夜! 今宵こそ、我らが復讐を果たす夜!」
「神よ、汝の聖性はすでに地に落ちた!」
「サタン万歳! ルシファーに栄光あれ!」
森の奥から、狂気じみた叫び声が響いてきた。
俺は足を止めることなく、その声のする方へ進んでいく。
そこには、黒いローブをまとった女たちが集まっていた。
彼女たちは魔女だ。
現代社会の片隅で生き延び、神への復讐を誓った異端者たち。今宵は、彼女たちが一堂に会する特別な集会だった。
その数は、もはや小さな町を形成できるほど。
もっとも、ここにいるのは全員が女性だ。ワルプルギスの夜とは、そういうものなのだから。
俺は片手を軽く上げ、魔女たちに挨拶をした。
すると、一人の魔女がこちらに気づき、駆け寄ってきた。
「あっ、坂井様! 今宵の儀式にご参加くださるのですね!」
「ああ。父上は来ているか?」
「はい。すでに奥でお待ちです。我らが主は、祭壇の間に鎮座しておられます」
「そうか。案内はいい。少し話があるだけだ」
「かしこまりました」
俺は魔女に礼を言い、森の奥へと歩みを進めた。
道の両側では、さまざまな儀式が執り行われていた。
地面に描かれた五芒星。その周囲を囲む焚き火。炎に照らされながら、神への呪詛を唱える魔女たち。
ここは、人間の常識が通用しない場所だった。
信仰を反転させ、聖なるものを冒涜し、禁忌を崇める。
神に見捨てられた者たちが、神そのものへの復讐を夢見る夜。
ふと、黒猫が足元にすり寄ってきた。
「……お前か」
見覚えのある猫だった。
確か、須美の使い魔だったはずだ。
俺が抱き上げると、黒猫は喉を鳴らし、腕の中に収まった。
「主人のところへ案内してくれるのか?」
黒猫は返事をする代わりに、尻尾を揺らした。
俺はそのまま歩き続けた。
やがて、森の奥に奇妙な光景が現れた。
空間そのものが、歪んでいる。
木々の輪郭は水面のように揺らぎ、奥にあるはずの景色が、まるで別の世界と重なっていた。
ここから先は、生身の人間が立ち入ることを拒む領域だ。
もっとも、俺にとっては関係のない話だった。
俺は一歩、足を踏み入れた。
瞬間、全身の皮膚が粟立った。
胃の底から何かがせり上がり、意識が白く塗りつぶされていく。身体の輪郭が曖昧になり、頭の奥で甘美な痺れが広がった。
人間ならば、正気を保つことすら難しいだろう。
だが、俺はその感覚を知っていた。
この先にいる。
俺の父が。
俺は深く息を吸い、ゆっくりと目を閉じた。
静寂。
次の瞬間、鼓膜の奥で、鋭い音が弾けた。
――ピン。
目を開ける。
黒い靄が渦を巻きながら集まり、やがて一人の男の姿を形作った。
白いスーツ。
雪のように長い白髪。
血の通っていないような白い肌。
その男が姿を現した瞬間、周囲の魔女たちが一斉に膝をついた。
圧倒的な存在感。
ただそこにいるだけで、世界の法則さえねじ曲げてしまいそうな威圧感。
この方こそ、我らが主。
神に反旗を翻し、悪魔たちを率いる者。
そして、いつの日か失われた楽園を我らの手に取り戻すための、唯一の希望だった。
「ほう。珍しいな」
父は俺を見下ろし、口元に薄い笑みを浮かべた。
「人間の姿をしたお前が、ワルプルギスの夜に顔を出すとは。いったい何の用だ?」
「父上。面白い話があります」
「面白い話?」
「ええ。神を侮辱する、最高の計画です」
父の目が、わずかに細められた。
「……聞こう」
俺は腕の中の黒猫を地面に下ろした。
黒猫は軽やかに走り去り、一人の少女の足元へと向かっていく。
赤い髪。
整った顔立ち。
そして、人の心を惑わせる魅了の瞳。
須美美和子だった。
ただし、昼間の彼女とは様子が違う。
三角帽子に、黒いローブ。夜の闇に溶け込むような装いは、彼女がただの女子高生ではないことを物語っていた。
「坂井様?」
須美は黒猫を抱き上げながら、こちらに近づいてきた。
「何か、面白いお話でも?」
「ああ。お前も気に入ると思うぞ」
「私が?」
「そうだ。神を貶める、またとない機会だ」
その言葉を聞いた瞬間、須美の表情が変わった。
「……詳しく聞かせてください」
俺は深く息を吸い、集まった魔女たちを見渡した。
そして、計画の核心を口にした。
「聖女に、忌み子を宿させる」
一瞬、森が静まり返った。
次の瞬間、爆発するようにざわめきが広がった。
「忌み子だと?」
「聖女に悪魔の子を宿させるというのか!」
「馬鹿な! そんなことができるはずがない!」
「我らですら、お前の血を受け入れることは容易ではないのだぞ!」
魔女たちの声が飛び交う。
当然の反応だった。
聖女とは、神に選ばれた者。
純潔を尊び、聖母マリアを信仰し、神の教えに従う存在。
一方、悪魔はその対極にある。
禁忌を好み、神の秩序を否定し、聖なるものを冒涜する者たち。
そんな二つの存在が交わり、悪魔の子が誕生する。
それは、単なる背徳ではない。
神の権威そのものに対する、宣戦布告だった。
「静まれ」
父の一言で、魔女たちは口を閉ざした。
「理屈はわかった。だが、どうやって実現するつもりだ?」
一人の魔女が、疑わしげな視線を俺に向けた。
俺は肩をすくめた。
「二千年前、神は救世主を人間の世に送り込んだ。同じ仕組みを、こちらが利用できない理由はないだろう?」
「つまり……聖女を母体として、悪魔の救世主を誕生させるということですか?」
須美が尋ねた。
「ああ。神が人間を救うために救世主を送り込んだのなら、俺たちは悪魔を救うための救世主を生み出せばいい」
「しかし、肝心の聖女は?」
父の視線が、俺を射抜いた。
「お前には、心当たりがあるのか?」
「もちろんです」
俺は笑みを浮かべた。
「清水・ソフィアという少女がいます。清水教会に住む、正真正銘の聖女です」
「清水・ソフィア……?」
「彼女の教会は、今、三億円を要求されています。土地の権利をめぐって、厄介な連中に追い詰められているそうです」
俺は、昨夜の出来事を思い返した。
涙を浮かべながら、それでも教会を守ろうとした少女。
自分の身を危険にさらしてまで、恩人への恩返しをしようとした少女。
あの覚悟は、本物だった。
だからこそ、利用できる。
「俺たちが三億円を用意する。その代わりに、彼女と契約を結ぶんです」
「契約、だと?」
「ええ。彼女の望みを叶える代わりに、彼女のすべてを俺に捧げさせる」
魔女たちは再び騒ぎ始めた。
「聖女と悪魔の契約だと!?」
「そんなもの、成立するはずがない!」
「金で聖女を釣るなど、あまりにも無謀だ!」
彼女たちの言い分は正しい。
悪魔との契約は、双方の合意があって初めて成立する。
神を信じる聖女が、自ら悪魔との契約を望む。
普通に考えれば、あり得ない話だ。
だが、俺は昨夜、彼女の目を見た。
あの少女は、自分の大切なものを守るためなら、どんな条件でも受け入れかねない。
だからこそ、可能性がある。
「まあ、最後まで聞こうではないか」
父が手を上げ、魔女たちを制した。
俺は頷き、さらに話を続けた。
「彼女は、自分のすべてを差し出すと約束しました。三億円を用意すれば、契約を結ぶことは可能です」
「……なるほど」
父は顎に手を当て、考え込んだ。
やがて、その口元に不気味な笑みが浮かぶ。
「面白い。実に面白い計画だ」
俺は内心で安堵した。
しかし、父はそこで話を終わらせなかった。
「だが、ただ聖女を堕落させるだけでは、まだ足りない」
「と、いいますと?」
「創世記を思い出せ」
父の声が、森の奥まで響き渡った。
「アダムとイブを惑わした蛇。知恵の実を口にさせ、神の定めた秩序に疑問を抱かせた存在だ」
旧約聖書の『創世記』。
神が創造した楽園で、蛇はイブに知恵の実を勧めた。
その結果、人間は善悪を知り、楽園を追放されることになった。
父は、同じことをしろと言っているのだ。
「聖女にただ禁忌を犯させるのではない。自らの意思で選ばせろ。自らの信仰に疑問を抱かせ、それでもなお、お前を選ばせるのだ」
俺は黙って父を見つめた。
なるほど。
確かに、そのほうが効果的だろう。
神の教えに従う少女が、自分の意思でその教えに背く。
そして、神ではなく悪魔を選ぶ。
それは、単なる背徳ではない。
信仰そのものを揺るがす行為だ。
「……わかりました」
俺は静かに頷いた。
「彼女に自分の意思で選ばせます。そのうえで、悪魔の救世主を誕生させる」
「よかろう。お前に任せる」
「ありがとうございます、父上」
「ただし、失敗は許さん。この計画には、すべての悪魔の未来が懸かっている」
「承知しています」
俺は胸を張った。
「悪魔の救世主を誕生させる。必ず成功させます」
父は満足げに頷いた。
「その言葉、忘れるなよ」
「父上こそ、三億円の件をお忘れなく」
「ふん。三億円程度、造作もない」
父は背を向けた。
次の瞬間、空間に亀裂が走る。
まるで見えない手が世界そのものを引き裂いたかのように、闇の裂け目が広がった。
父はその中へと足を踏み入れ、姿を消した。
残された魔女たちは、再び儀式へと戻っていく。
焚き火が揺れ、呪文が響き、夜の森は異様な熱気に包まれていた。
俺はその光景を眺めながら、ゆっくりと息を吐いた。
これで、父の許可は得た。
あとは計画を実行するだけだ。
「さて……」
俺が歩き出そうとした、そのときだった。
「お待ちください、坂井様」
須美が俺の前に立ちはだかった。
赤い髪が、焚き火の光を受けて揺れている。
「せっかくのワルプルギスの夜です。私たちも、少し楽しんでいきませんか?」
「……ほう。サキュバスが、インキュバスを誘惑するつもりか?」
「だって、坂井様は私の魅了が効かないじゃないですか」
「そうだな」
「悔しいです。いつか絶対、振り向かせてみせますから」
須美は頬を膨らませた。
俺は思わず笑った。
「その前に、まずは自分の仕事をしろ」
「むう。坂井様は本当に意地悪ですね」
「今さら気づいたのか?」
須美は不満そうにしながらも、俺の隣に並んだ。
その瞳には、いつもの悪戯っぽい光が宿っていた。
彼女もまた、悪魔なのだ。
人間の少女の姿をしていても、その本質は人間とは異なる。
そして、俺も同じだった。
坂井哲夫。
人間として生きることを捨て、悪魔の血を受け入れた者。
父の血を継ぐ、悪魔の王子。
インキュバス。
俺に与えられた使命は、聖女を誘惑し、神の秩序に反旗を翻すこと。
そして、悪魔たちの未来を切り開くことだった。
……さて。
まずは三億円を手に入れ、あの少女との契約を成立させなければならない。
清水・ソフィア。
お前は、どこまで自分の信仰を貫ける?
そして、どこまで自分の願いを優先できる?
俺は夜空を見上げた。
月は雲に隠れ、森は再び深い闇に沈んでいく。
神と悪魔。
聖女と忌み子。
そして、一つの契約。
すべては、ここから始まるのだった。




