悪事の一つ目
翌日の月曜日。
朝食を終えた俺は、いよいよ計画を実行に移すことにした。
まずは、第一の悪事からだ。
悪事を仕込むときは、簡単なものから始めるに限る。いきなり難易度の高いことをさせても、相手が戸惑うだけだ。小さな一歩を踏み出させ、徐々に罪の意識を麻痺させていく。それが悪の鉄則である。
俺はソフィアを呼び出した。
「まずは、そうだな。簡単なことから始めてもらおう」
「はい。なんでしょうか? 私にできることなら、なんでもします」
……言ったな?
なんでもする、と。
その言葉に二言はないよな? 後悔しても遅いぞ。
俺は、思わず口元を緩めた。
いや、まだ喜ぶのは早い。大切なのは、計画を実行し、結果を出すことだ。
俺たちは教会を出て、繁華街へ向かった。
人通りの多い通りを歩きながら、俺は左右を見回した。今回の標的は、客の少ないコンビニだ。
人目が少なければ、万引きも成功しやすい。
もちろん、店員に見つかれば厄介だが、そこは運次第。まずは、条件のよさそうな店を探すことにした。
やがて、繁華街の外れにあるコンビニが目に入った。
店内に客の姿はない。レジには、いかにも暇そうな店員が一人立っている。
よし。ここならいける。
俺はソフィアに顔を向けた。
「そこのコンビニで、おにぎりを持ってきてくれ。ただし、金は払うな」
「はい、分かりました!」
……おお。飲み込みが早い。
これは、いい傾向なのではないだろうか。
俺の期待を背負い、ソフィアはコンビニの中へ入っていった。
店内の籠を手に取り、おにぎりの売り場へ向かう。そして、鮭や梅などのおにぎりを三つほど籠に入れた。
よし。そのまま店を出るんだ。
レジには近づくな。店員と目を合わせるな。何食わぬ顔で出口へ向かえ。
俺は心の中で指示を飛ばした。
ところが――。
ソフィアは、おにぎりの入った籠を持って、堂々とレジへ向かった。
おいおいおい!
何をしているんだ、こいつは!
万引きというのは、金を払わずに商品を持ち出すことだぞ? どうしてわざわざ店員の前に行くんだ!
俺が呆然としていると、ソフィアは満面の笑みを浮かべて言った。
「あの、このおにぎりをいただけませんか? お金を払わずに」
…………。
おいいいいいいいいっ!
そんな堂々とお願いして、通るわけがないだろうが!
それは万引きというより、ただの無茶なお願いだ!
俺は頭を抱えたくなるのを堪え、少し離れた場所から様子を見守った。
店員は困惑した顔でソフィアを見つめている。
「お客さん。それはちょっと無理ですよ。商品なんですから、お金を払ってもらわないと」
「そうですか……。それでは困ってしまいます。教会が大変なことになるんです」
「いや、そう言われましても……」
話は平行線だった。
当然だ。客が商品を無料でくれと言い出したら、店員だって困るに決まっている。
俺は額に手を当てた。
まさか、こんな簡単な計画でつまずくとは。
やはり、ソフィアには悪事の意味から教えなければならないのか?
そんなことを考えていると、店員がふと籠の中を覗き込んだ。
そして、おにぎりの一つを手に取る。
「あれ……?」
「どうしました?」
「このおにぎり、賞味期限が切れてますね」
「えっ?」
店員の顔色が変わった。
彼は棚を確認し、別のおにぎりも手に取って調べ始めた。
「申し訳ありません! こちらの確認不足です。期限切れの商品を並べてしまって……」
店員は慌てた様子で頭を下げた。
「お客さん、わざわざ教えてくださってありがとうございます。これは販売できない商品ですから、こちらで処分します。お詫びというわけではありませんが、よろしければ、こちらをお持ちください」
そう言って、店員は販売できるおにぎりを袋に詰め始めた。
…………は?
何が起きた?
俺は目を疑った。
ソフィアは万引きをしようとした。いや、正確には、金を払わずにおにぎりをもらおうとしたのだ。
ところが、賞味期限切れの商品を指摘したことで、店員のミスが発覚。結果として、彼女は感謝され、別のおにぎりまで無料でもらうことになった。
これでは、悪事どころか善行ではないか!
なんだ、この展開は!
俺が必死に考えた計画が、どうしてこんな結末になるんだ!
やがて、ソフィアはおにぎりの入った袋を手に、店から出てきた。
「哲夫さん! おにぎりをいただけました!」
彼女は嬉しそうに袋を掲げた。
「……ソフィア。ちょっと話をしようか」
「はい? どうしました?」
俺たちはコンビニを離れ、近くの公園へ移動した。
少し落ち着いて考える必要がある。
第一の計画は失敗だ。
これでは、三億円を支払う条件を満たせない。
いや、そもそも、悪事をさせるという目的そのものが達成できていないのだ。
俺たちは公園のブランコに腰を下ろした。
ソフィアは袋から鮭のおにぎりを一つ取り出すと、俺に差し出してきた。
「哲夫さんも、どうぞ」
「……ああ」
俺はおにぎりを受け取り、包装を開いた。
一口食べる。
もぐもぐ。
……うん。普通にうまい。
賞味期限が切れていた商品とは別のものだ。味に問題はない。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
「ソフィア。今回の作戦は失敗だ」
「えっ? 失敗ですか?」
「ああ。確かに、お金を払わずにおにぎりを手に入れた。でも、結果的には店員を助けたことになっている。これじゃあ悪事を働いたことにはならない」
「……そうなんですか?」
ソフィアは不思議そうに首を傾げた。
……駄目だ。
これは、説明しても理解してもらえそうにない。
俺は深いため息をついた。
そもそも、どうしてこうなった?
俺は万引きをさせるつもりだった。ところが、ソフィアは店員に堂々とお願いし、結果として店のミスを発見してしまった。
偶然にしても、あまりに都合がよすぎる。
「哲夫さんって、もしかして本当はいい人なんですか?」
「はあ? どうしてそうなるんだ?」
「だって、おにぎりの賞味期限が切れていることを、最初から分かっていたんですよね? だから、あえて店員さんに伝えたんですよね?」
「分かっているわけないだろ!」
俺は思わず声を上げた。
なんでそうなるんだよ!
俺は悪魔だぞ? 人を善人だと勘違いするにも、ほどがある!
……いや、待て。
そもそも、ソフィアは自分が何をしているのか、本当に理解しているのだろうか?
俺は頭を抱えた。
このままでは、悪事を仕込むどころか、俺が善人扱いされて終わってしまう。
いったい、次は何をさせればいい?
鮭のおにぎりをかじりながら、俺はブランコを揺らした。
前へ、後ろへ。
揺れる景色を眺めながら、次の計画を練る。
……ソフィアは純粋すぎるのか?
それとも、俺の考える悪事が単純すぎるのか?
どちらにしても、作戦を練り直す必要がある。
「なあ、ソフィア」
「はい?」
「今まで、悪いことをした経験はあるか?」
「もちろんありますよ」
「ほう?」
俺は身を乗り出した。
ようやく、まともな話が聞けそうだ。
「例えば、どんなことだ?」
「神父様に内緒で出かけてしまったことがあります」
「…………」
俺は無言になった。
「それだけか?」
「はい。でも、秘密にして行動するのはよくないことですから。帰ってから、ちゃんと反省しました」
「……ずいぶんと小さな罪だな」
「そうでしょうか? 神父様が心配してしまいますから、やっぱり駄目なことだと思います」
ソフィアは真面目な顔で答えた。
なるほど。
こいつにとっては、そんなことでも罪になるらしい。
だが、俺が聞きたいのは、そういう話ではない。
「ところで、神父は今も海外にいるんだったな?」
「はい。教会のために、三億円を用意しようとしてくださっています」
「……本当に、そんな大金を用意できるのか?」
「私は信じています」
ソフィアは迷いなく答えた。
「神父様なら、きっと何とかしてくださいます。あの方は、間違った道を歩いている人でも、正しい道へ戻れるように導いてくださる方ですから」
その瞳には、確かな光が宿っていた。
ただの希望的観測ではない。
彼女は、本気で神父を信頼しているのだ。
……まったく、腹立たしい。
どうしてそこまで人を信じられる?
相手が裏切る可能性を考えないのか?
人間なんて、自分の利益のためなら平気で他人を切り捨てる生き物だ。
それなのに、こいつは。
「よほど、神父のことを信頼しているんだな」
「はい。神父様はすごい方です。間違った道を歩いている人でも、もう一度やり直せるように支えてくださいますから」
「……頼もしいものだな」
俺は皮肉を込めて呟いた。
間違った道を歩く者を、正しい道へ戻す?
俺のような狼を、羊に変えるとでもいうのか?
笑わせるな。
俺はお父様を信仰し、神に反逆する悪魔だ。
そんな俺が、誰かの言葉一つで変わるはずがない。
……絶対に、な。
「さて、次の計画に移ろうか」
「はい! 何でも言ってください」
ソフィアは相変わらず、期待に満ちた目で俺を見つめていた。
その表情を見ると、ますます不安になる。
いや、違う。
次こそ成功させればいいだけの話だ。
俺は鞄からノートを取り出し、最初の計画に大きな横線を引いた。
その横に、こう書き込む。
――第一の計画、失敗。
……屈辱的な記録だ。
俺はノートを閉じ、立ち上がった。
「せっかくだ。公園を少し見て回ろう」
「はい。分かりました!」
俺たちはブランコを離れ、公園の掲示板へ向かった。
そこには、地域の行事やボランティア活動の案内が、所狭しと貼られていた。
祭りの告知、清掃活動の募集、子供向けのイベント。
どれも俺には関係のないものばかりだ。
……何か、使えるものはないか。
俺は張り紙を一枚ずつ眺めていった。
そのとき、一枚の紙が目に留まった。
行方不明になった少女を探しているという知らせだった。
名前は、アキちゃん。
昨日の昼頃から行方が分からなくなっているらしい。赤いスカートに白いブラウスを着ていたという。
写真に写っているのは、まだ幼い少女だった。
……行方不明か。
神隠しにでも遭ったのだろうか。
まあ、俺には関係のない話だ。
人間が一人いなくなったところで、世界が変わるわけでもない。
俺はその張り紙から視線を外し、別の案内へ目を向けた。
すると、今度は近隣の神社に関する通知が目に入った。
境内の修繕工事を行うため、一定期間、立ち入りを禁止するという内容だった。
……ほう。
俺は思わず口元を緩めた。
立ち入り禁止の場所。
そこへ入れば、少なくとも決まりを破ることにはなる。
しかも、神社だ。
神を敬う人間にとっては、大切な場所なのだろう。
そこに何か問題を起こせば、ソフィアもさすがに悪いことをしたと認めるかもしれない。
もちろん、何をするかは慎重に考える必要がある。
だが、最初の計画よりは見込みがありそうだった。
俺は張り紙を見つめながら、頭の中で次の手を組み立て始めた。
くくく……。
今度こそ、失敗するわけにはいかない。
第一の計画は、思わぬ形で頓挫した。
だが、次がある。
ソフィアがどれほど純粋であろうと、俺は必ず彼女の信仰を揺るがしてみせる。
……そう、思っていた。
ただし、このときの俺はまだ知らなかった。
掲示板に貼られた、あの行方不明の少女の知らせが。
これから始まる計画に、思いもよらない形で関わってくることを。




