悪事の二つ目
公園の掲示板で情報を得た俺たちは、目的地へと向かった。
立ち入り禁止区域に指定されている神社だ。
「神社を探索するぞ」
「えっと……立ち入り禁止ではないでしょうか?」
「だからこそ、探索するんだよ」
そう。子供の悪巧みのような、ささやかな悪事。
いきなり大きな罪を犯させようとしても、うまくいくとは限らない。まずは小さな規則違反からだ。禁止されたことを破り、ほんの少しだけ後ろめたい思いをさせる。
規則なんて、破るためにある。
そして今、俺たちはその規則を破ろうとしていた。
俺は黄色い立ち入り禁止のロープをくぐり、神社の敷地へと足を踏み入れる。ソフィアも戸惑いながら、俺のあとに続いた。
木々に囲まれた境内の奥では、修繕工事が行われているようだった。
石畳の脇にはレンガや資材が積まれ、工具らしきものも置かれている。まだ工事が終わっていないのだろう。
……しかし、人の気配がない。
立ち入り禁止の場所に入れば、工事関係者に怒られる。そう考えていたのだが、肝心の相手がいなければ、悪事を働いたところで誰にも咎められないじゃないか。
俺が求めているのは、誰かに「あいつは悪いことをした」と指摘されるような状況だ。
誰にも見られず、誰にも怒られず、何事もなく終わるのでは意味がない。
俺は工事予定日の書かれた看板を確認した。
そこには、今週の工事は休みだと記されていた。
「はあ? これじゃあ、ここに来た意味がないじゃないか」
思わず不機嫌な声が漏れる。
「作戦を考え直さないとな……」
「どうするのですか?」
「とりあえず、神社の奥まで探索する」
「はい」
ソフィアは疑うこともなく、素直についてきた。
……こいつ、本当に警戒心というものがないな。
境内の奥へ進むにつれ、修繕中の建物が目につくようになった。
屋根には穴が開き、床板はところどころ浮き上がっている。足を踏み外せば、怪我をしてもおかしくない。
「足元に気をつけろよ」
「はい。哲夫さんは優しいのですね」
「……」
違う。
怪我をされたら、計画どころではなくなるからだ。
そう心の中で突っ込みながら、俺たちはさらに奥へ進んだ。
やがて、開けた場所に出た。
俺は適当な場所に腰を下ろす。
「ここまで来たら、どうしようもないな」
「何をするのですか?」
「何もしない。少し雑談でもして、それから帰るか」
もちろん、ただの時間稼ぎだ。
ここで誰かが通りかかるのを待つ。見つかって怒られたら、素直に謝って立ち去ればいい。それだけで、ソフィアに小さな罪悪感を抱かせられるはずだった。
……まあ、肝心の人間が現れる気配はないのだが。
「なあ、ソフィア」
「はい?」
「お前、いつもそんな感じなのか?」
「そんな感じ、とは?」
「いつもニコニコ笑っているところだよ」
「はい。哲夫さんと一緒にいると、怖くないですから」
ソフィアは、まぶしいくらいの笑顔で答えた。
俺は思わず顔をしかめる。
どうして、立ち入り禁止の神社にいるというのに、そんな顔ができるんだ?
普通なら、少しくらい不安になってもいいはずだ。
それなのに、こいつは笑っている。
悪いことをしている自覚がないのか。それとも、そもそも悪いことだと考えていないのか。
……いや、後者はさすがにないだろう。
「お前、本当に悪いことをした経験がないんじゃないか?」
「ありますよ?」
「ほう。例えば?」
「以前もお話ししましたけれど、神父様に禁止されていたことを、こっそりしてしまったことがあります」
「何を?」
「寝る前に、チョコレートを食べたり……」
「小さいな」
「でも、悪いことは悪いことですから」
ソフィアは少しだけ申し訳なさそうにうつむいた。
「もちろん、神様は見ていらっしゃいます。だから、お祈りをしますし、懺悔もします」
「……祈り、ね」
結局、何をしてもそこに行き着くのか。
こいつには、俺の考える悪事が通用しないのかもしれない。
いや、そんなはずはない。
人間である以上、欲望も弱さもある。どれだけ善良な人間だろうと、心の奥底には何かしらの醜さを抱えているものだ。
そうでなければ、俺が今まで見てきた人間たちは何だったというのだ。
「じゃあ、ひとつ聞いてもいいか?」
「はい。何でしょう?」
「もし、お前の目の前に悪魔が現れたら、どうする?」
「悪魔、ですか?」
「ああ。人を惑わし、神に背かせようとする悪魔だ」
俺がそう尋ねると、ソフィアは「うーん」と小さくうなった。
さすがに困ったらしい。
そうだろう。悪魔と出会ったときの対処法なんて、普通の人間が考えたこともないはずだ。
さあ、どう答える?
「そのときは、お祈りをすると思います」
「祈るだけか?」
「はい。それから……お話ししてみたいです」
「話す?」
「悪魔にも、何か事情があるかもしれませんから。もしかしたら、お友達になれるかもしれません」
「……悪魔と友達だって?」
俺は、とうとう吹き出してしまった。
友達?
悪魔と?
人間を惑わし、神に反逆する存在と仲良くなろうだなんて、いったいどんな頭をしていれば、そんな発想に至るのだろう。
「くくっ……はははっ!」
笑いが止まらなかった。
「何か、おかしかったですか?」
「おかしいに決まっているだろ。相手は悪魔だぞ? 友達になるどころか、利用されるかもしれないんだぞ」
「そうですね。だからこそ、ちゃんとお話ししたいんです」
「……は?」
「もし、その悪魔が誰かに傷つけられていたり、寂しい思いをしていたりするのなら、話を聞いてあげたいです」
ソフィアは、ごく自然な調子でそう言った。
まるで、道端で困っている人を見かけたときのように。
俺は笑うのをやめた。
こいつは、どこまで本気なのだろう。
悪魔が人間を騙すことも、利用することも、知らないわけではないはずだ。それなのに、どうしてそこまで相手を信じられる?
……いや、考えるだけ無駄か。
こいつはそういう人間なのだ。
「もういい。少し雑談してから帰るつもりだったが、ここにいても仕方がないな」
俺は立ち上がった。
これ以上、ソフィアの話を聞いていたら、調子が狂いそうだった。
だが、神社を出る前に、もうひとつだけ確かめておきたいことがあった。
「ソフィア。仮にだぞ」
「はい?」
「俺がお前の信じる神に敵対する存在だったら……お前はどうする?」
ソフィアは、すぐには答えなかった。
今度こそ、困った顔をするだろう。
俺のことを疑い、距離を置こうとするかもしれない。
それでいい。
少しでも不安を抱けば、俺の計画にも意味が生まれる。
ところが、ソフィアはやがて、まっすぐに俺を見つめた。
「それでも、私は哲夫さんとお話ししたいです」
「……」
「考え方が違っていても、お互いのことを知ることはできると思いますから」
拍子抜けだった。
いや、拍子抜けどころではない。
俺は、こいつをどう扱えばいいのか、わからなくなりつつあった。
神を信じる者と、神に反逆する者。
本来なら、決して相容れない存在のはずだ。
それなのに、ソフィアはそんな境界線など存在しないかのように、俺の言葉を受け止めてしまう。
……本当に、腹立たしい女だ。
「さて、帰るぞ」
俺は背を向けた。
ソフィアも慌てて立ち上がり、あとを追ってくる。
神社の出口へ向かう途中、俺はふと足を止めた。
境内の奥に鎮座する、古びた像が目に入ったからだ。
神をかたどった像。
それを見るたび、俺は言いようのない畏怖を覚える。
だが、俺は悪魔だ。
神を恐れる必要などない。
いつか神を打ち倒し、その支配する世界を奪い返す。それこそが、俺たち悪魔の悲願なのだから。
――そのときだった。
像の足元に、何かがあることに気づいた。
「おい、ソフィア」
「はい。どうしました?」
「俺の見間違いでなければ、像の下に何かいるぞ」
「どこですか?」
「そこだ」
俺は像の足元を指さした。
ソフィアは目を凝らし、不思議そうに首をかしげる。
「……布でしょうか?」
その瞬間。
赤い布が、かすかに動いた。
「布が勝手に動くか!」
思わず突っ込みを入れ、俺は正体を確かめるために近づいた。
そして――目を丸くした。
そこにいたのは、小さな女の子だった。
白いブラウスに、赤いスカート。
見覚えのある服装。
そうだ。公園の掲示板に貼られていた、行方不明の少女の写真と同じだ。
「ソフィア。警察に連絡しろ!」
「えっ?」
「この子、行方不明になっていた少女だ!」
「ああ……! 公園の掲示板にあった子ですね」
「そうだ。早く!」
ソフィアはすぐにスマートフォンを取り出し、警察へ連絡した。
やがて、警察官や救急隊員が神社へ駆けつけた。
少女は脱水症状と疲労で衰弱していたものの、意識はあった。救急隊員に保護され、そのまま病院へ搬送されていった。
ひとまず、命に別状はなさそうだった。
……よかった、とは思う。
思うのだが。
どうして、こうなる?
俺たちは立ち入り禁止の神社に忍び込み、誰かに怒られるつもりだったのだ。
それなのに、行方不明の少女を発見してしまった。
しかも、警察官たちは俺たちに向かって、何度も頭を下げてくる。
「お二人とも、本当にありがとうございました。この子は五日前から行方がわからなくなっていたんです」
「五日前?」
「はい。ご家族もずっと心配されていて……。本当に、見つかってよかった」
「それで、どうしてこんなところに?」
「かくれんぼをしているうちに、立ち入り禁止の神社へ入ってしまったそうです。ところが、奥から出られなくなってしまったらしくて……」
「へえ。そうだったんですか」
俺は曖昧に相づちを打った。
まさか、悪事を働きに来たなどとは言えない。
幸い、警察官は俺たちを疑う様子もなく、感心したようにうなずいていた。
「お二人は、この子を捜すために神社へ入ったんですか?」
「まあ……そんなところです」
嘘ではない。
少なくとも、少女を見つけたあとは、そういうことになった。
「危険な場所なのに、よく見つけてくれましたね。ぜひ、お二人には感謝の気持ちを伝えさせてください」
「感謝、ですか?」
「ええ。場合によっては、表彰の対象になるかもしれません」
……表彰?
俺は耳を疑った。
立ち入り禁止区域への侵入で怒られるどころか、表彰される?
いったい、何がどうなっているんだ。
俺が頭を抱えたくなっていると、隣からソフィアの弾んだ声が聞こえてきた。
「さすがです、哲夫様! きっと、あの子がここにいることまで考えて、この神社に来たのですね!」
「違う」
「えっ?」
「……いや、何でもない」
違う。
俺はただ、お前に小さな悪事を働かせたかっただけだ。
お前を困らせ、罪悪感を抱かせ、いつか神への信仰を揺るがせる。そのために、わざわざ立ち入り禁止の神社までやって来たのだ。
それなのに、どうして俺が善人扱いされている?
どうして、こいつは何も疑わず、俺を信じている?
……まるで、誰かに邪魔されているみたいじゃないか。
結局、俺は警察からの申し出を断り切れず、後日、表彰を受けることになった。
表彰式では、間の抜けた顔で賞状を受け取る俺の姿が、しっかりと写真に収められた。
地元新聞にまで載るらしい。
想像するだけで、頭が痛くなった。
俺は悪魔だぞ。
人間を堕落させ、神の計画を打ち砕く側の存在だ。
それなのに、どうして人間の善行を称える式典に出席しなければならない?
しかも、隣には満面の笑みを浮かべたソフィアがいる。
「哲夫さん。本当に、よかったですね」
「……ああ。そうだな」
俺は引きつった笑みを返した。
もう、何も言うまい。
第一の計画は失敗。
第二の計画も失敗。
しかも、失敗するたびに俺の評判だけが上がっていく。
どうしてこうなった。
いったい、誰が俺の計画を狂わせている?
神か?
それとも、ソフィアという女そのものが、俺にとっての天敵なのか?
……いや、まだ終わっていない。
俺には、もうひとつ計画が残されている。
次こそは失敗しない。
次こそは、ソフィアの信じる正義にひびを入れてやる。
そうすれば、あの笑顔だって曇るはずだ。
俺は心の中で、そう決意した。
――このときの俺は、まだ知らなかった。
最後の計画こそが、俺自身の心を大きく揺るがすことになるのだと。




